『ハナレイ・ベイ』
Hanalei Bay
村上春樹の短編原作を吉田羊主演で映画化。ハナレイ湾を舞台に、サメに襲われて亡くなった息子の足取りを追う母の物語。
公開:2018 年 時間:97分
製作国:日本
スタッフ
監督: 松永大司
原作: 村上春樹
「ハナレイ・ベイ」
(『東京奇譚集』収録)
キャスト
サチ: 吉田羊
タカシ: 佐野玲於
高橋: 村上虹郎
三宅: 佐藤魁
尾崎亮: 栗原類
石井結花: 水上京香
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
シングルマザーのサチ(吉田羊)は、息子タカシ(佐野玲於)がハワイのカウアイ島にあるハナレイ・ベイでサーフィン中に大きなサメに襲われて亡くなったという知らせを受ける。
ハナレイ・ベイに飛び、タカシと無言の対面を果たしたサチは息子が命を落とした海岸へ向かい、海を前にチェアに座り、本を読んで過ごした。
それ以来、タカシの命日の時期になると、サチはハナレイ・ベイを訪れ、同じ場所にチェアを置いて数週間を過ごすようになった。
あの日から10年、サチは偶然出会った二人の若い日本人サーファー(村上虹郎、佐藤魁)と出会う。
今更レビュー(まずはネタバレなし)
村上春樹原作に新たな挑戦者
『ノルウェイの森』以来8年ぶりとなる村上春樹原作の映画化だそうだ。
監督は『トイレのピエタ』の松永大司。村上春樹の小説は長編であれ短編であれ、映画化は難しい。ハルキストはみな、自分の脳内でとっくに独自の映像化を果たしており、他者は容易に受け入れない。
長編小説を2時間程度の枠に収めることは骨が折れるし、短編はエッジが効きすぎて、忠実に脚本に落としても、原作未読の観客にはそっぽを向かれそうだ。
過去にも何人かの奇特な映画監督が、村上春樹原作に挑戦しているが、短編を独自解釈で物語として膨らませていくパターンが、数少ない成功例なのではないかと思う。
さて本作。原作は短編というには相応のボリュームがあり、忠実に映像化していくと、映画一本程度の長さにはなる。
実際、松永大司監督がオリジナルで追加したパートはいくつかあるが、概ね原作に沿って話が進み、脱線することは殆どない。それには賛否両論があるとは思うが、映画単体でみた場合、面白味に欠けたというのが率直な感想だ。
とはいえ、映画ならではの効能もある。
本作はハワイのハナレイ湾を舞台にしたサーファー(とその母)の物語であり、貧弱な想像力では文章からはイメージできなかった、ダイナミックな景色や躍動感溢れるサーフィンのシーンなどを映像化してくれるのは有難い。
陽気なサーフィン映画ではない
冒頭にはイギー・ポップの”The Passenger”の曲とともに、ひとりでサーフィンに興じる若者(佐野玲於)。
だが曲は途中でブチ切り、そして未明のマンションの一室に鳴り響く電話の呼出音。次の場面では、ハワイの遺体霊安室で、サメに片脚を喰われた息子タカシの死に顔と対面する主人公のサチ(吉田羊)。
陽気でノリのよいサーフィンUSAな映画が始まるのかと思いきや、原作未読の観客には序盤から驚きの急展開。説明抜きの場面転換はテンポもキレもいい。
◇
以前に夫を亡くし、一人息子だったタカシをも亡くし、ここは泣き崩れるのがお約束の場面だが、サチは硬い表情のままだ。悲しみが大きすぎて泣けないのではない、その感情が湧いてこないのだ。
サチはこのあと10年、自分自身の感情と向き合うことになる。
思わぬことでサチが初めて訪れたハナレイ・ベイ、高台から望む、その美しい湾の光景が何とも素晴らしい。風の気配まで感じ取れるようだ。
ハワイのカウアイ島にあるサーファーたちの憧れの地であり、その美しい眺望から、『南太平洋』からジョージ・クルーニーの『ファミリー・ツリー』まで、映画のロケ地としてもよく使われる。
◇
そんな自然と共生する大らかな人々の住むこの地で、サチは息子の足取りを追って安宿を訪ねては、かつてタカシに買い与えた、食いちぎられたサーフボードを目にし、そして息子の亡くなったビーチに座っては、読書をして過ごす。
そして10年後に
年頃の息子とは心が通じ合えていなかった母親が、息子を失ってからその足取りを追うことで、知らなかった我が子の一面に出会うことになる。そんな感動ストーリーを想像すると、肩すかしを喰らうだろう。
だってドライが信条の村上春樹だよ、重松清じゃないんだから。
家族の死にも落涙できなかった主人公が、最後には人間的な成長を遂げ、泣けるようになるパターンの映画もある(本木雅弘主演の『永い言い訳』とか)。だが、本作はそれとは似ても似つかない作品だ。
結局、サチはその後、毎年同じ時期にハナレイ湾に来ては、同じビーチで息子を思い読書をして数週間を過ごすことになる。
そして10年後、日本から来た貧乏サーファーの二人組、高橋(村上虹郎)と三宅(佐藤魁)と知り合うことで、少しだけ日常に変化が生じる。
徐々に親しくなってきた二人組が帰国間際に、「赤いサーフボードを持った片脚の日本人サーファーを見かけた」というのだ。勿論、サチには思い当たる節があった。
キャスティングについて
主人公サチ役の吉田羊は、役柄的にも笑顔をみせずしかめっ面が多く、ピアノバーを経営し自ら鍵盤も弾く気丈な母親という難しいキャラを力演。そもそも原作でもこの主人公の心情が多くは書かれていないので、大変だったのではないか。
10年後の設定でもまったく年齢の経過を感じさせない吉田羊は、日々のスキンケアの賜物なのかもしれないが、映画的にはもう少しエイジングをしてもよかった。
タカシ役の佐野玲於はGENERATIONS from EXILE TRIBEのメンバー。
松永大司監督も配給も所属事務所であるLDH系なので、当然佐野玲於が主役の映画なのかと思っていたら、彼は冒頭でサメに喰われるので(厳密には片脚を失ったあとの溺死)、回想シーンに少し出る程度。
タカシが乳児の頃にドラッグをキメていたダメ父(栗原類)と同様に、あまり好人物には描かれていない(原作以上に強調)。息子は、そのクズな亡父に惹かれ、母親を大事にしない愚息として描かれている。LDH系なのになぜだろう。
大学生の二人組のうち、村上虹郎はさすがの安定感。調子のよい軽薄な若者を演じる一方で、ちょっとした男らしさや可愛げも垣間見える。
相棒の佐藤魁はプロサーファーらしい。『テラスハウス』の出演で有名になったらしいが、存じ上げない。物語の設定上、絵になるサーフィンができるヤツが一人はいないと恰好がつかないので、白羽の矢が立ったのだろう。
佐藤魁が演じるキャラは台詞の言い回しものんびりと生ぬるく、ホントにトロい平和ボケな日本人学生にみえる。これが演技なのであれば、虹郎以上の逸材かもしれない。
今更レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見・未読の方はご留意ください。
村上春樹の原作は泣かせようとするウェット仕様ではないのに、そこに重松清的なものを無理に入れ込もうとする松永大司監督のねらいが透けて見えた気がする。
小道具でいえば、亡き父の遺品でありタカシの遺品にもなってしまった、古いソニーの<ウォークマン>、そしてタカシの遺体から現地の支援スタッフの女性が取った<手形>であり、いずれも原作には登場しない。
古いウォークマンとスポンジ製のイヤーマフが特徴的なヘッドホンは、その時代の音楽を伝える意味では便利なアイテムだが、『20世紀少年』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でも使われた手法で、既視感が強い。
<手形>に関しては、さらにひどい。そんなものは必要ないと何年も受け取りを拒否するサチが、10年目にして初めて息子に向き合おうと思い、ついに<手形>に手を合わせる。ここで堪えていた涙をボトボトと落とす。
ここ感動ポイントなのか? あまりの作為性に興ざめだ。
ダメ父を慕い可愛げがない息子が嫌いだったサチ。でも、同時に息子を愛してもいる。この複雑な心情はわかる。人間、誰にだって好き嫌いは混在している。
◇
でも、10年も息子を思いハナレイに通い続けているサチを無視して、タカシは見知らぬ学生サーファーの二人組にだけ、片脚の姿を見せた。なぜ自分には会いに来ないのだ。
「ねえ、どうしてなの?そういうのってちょっとあんまりじゃないの」
原作では、サチは遺体安置所の息子の肩をゆすって、そう大声で問いただしてみたかったと書いている。
一方、映画では、手形に手を合わせて号泣するサチが、実際に口に出してしまっている。
「これってあんまりじゃない! あなたに会いたい!」
これはあまりにストレートな表現だった。映画とはこの台詞を、いかに言葉にせずに伝えるかのメディアなのではないか。
◇
この分かり易さはラストシーンにもつながっているが、こちらのアレンジは悪くない。
原作は短編ゆえか、それと分かるような終わり方で幕を閉じる訳ではない。これを映画でやってしまえば、モヤモヤ感が残るだろう。
だが、映画ではハナレイ湾の砂浜で息子の姿を探し回った最後に、振り向いたサチの笑顔で終わる。ここまで笑顔を封印してきた効果はあったと思う。