『ドライブ・マイ・カー』
村上春樹の短編原作を濱口竜介監督が独自の演劇メソッドで大胆にアレンジ。カンヌ国際映画祭脚本賞ほか4冠の評価も納得の完成度。
公開:2021 年 時間:179分
製作国:日本
スタッフ 監督: 濱口竜介 脚本: 濱口竜介・大江崇允 撮影: 四宮秀俊 原作: 村上春樹『ドライブ・マイ・カー』 (短編小説集『女のいない男たち』所収) キャスト 家福悠介: 西島秀俊 渡利みさき: 三浦透子 家福音: 霧島れいか 高槻耕史: 岡田将生 イ・ユナ: パク・ユリム コン・ユンス: ジン・デヨン ジャニス・チャン: ソニア・ユアン 柚原: 安部聡子
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
舞台俳優であり演出家の家福(西島秀俊)は、愛する妻の音(霧島れいか)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう。
二年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさき(三浦透子)と出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻(岡田将生)の姿をオーディションで見つける。
喪失感と打ち明けられることのなかった秘密に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。
レビュー(まずはネタバレなし)
まずは東京編から
村上春樹原作の映画化といえば、余程の酔狂な監督でなければ短編を選ぶだろう。だが、それでも映像化は難しい。短編にはつかみどころのない物語も多いし、突如終わってしまう作品もある。
そもそも、忠実に映像化したところで、あまり評価には結びつかない。だから、原作の本質を深く理解し、監督が独自に昇華させた作品は、高く評価される。
私が好きな村上春樹の原作映画は、市川準の『トニー滝谷』とイ・チャンドンの『バーニング 劇場版』だが、今回そこに本作が加わった。
◇
物語は大きく二つに分かれ、東京編と、二年後の広島編で構成される。東京編では俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)が、脚本家の妻・音(霧島れいか)と幸福そうな毎日を過ごす。
過去に娘を亡くし悲しみを乗り越え、二人は強く結びついているように見える。だが、ある日、海外出張が急遽延期になり、自宅に戻った家福は衝撃的な現場を目にする。
役者である彼は、それを見なかったフリを続けるが、妻は何かを語ろうとし、だがその前に突然、妻はクモ膜下出血で他界してしまう。
そして二年後の広島編
ここでようやくクレジットが出て、ドラマの中心である二年後の広島編へ。演劇祭に招かれた家福は、ここにしばらく滞在し、オーディションで選ぶ俳優で、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を演出する。
多言語演劇のスタイルをとる彼の芝居には、アジア各国から応募が集まる。その中に、かつて妻・音と仕事をしていた若手俳優の高槻(岡田将生)もいる。
◇
また、滞在期間中に家福が事故でも起こしては大変なので、主催者は専属ドライバーを付ける。
愛車の運転中に台詞の確認をするのが日課の家福は、ドライバーを固辞するも受け入れられず、極めて寡黙で無愛想だが、運転技術に長けた女性ドライバーのみさき(三浦透子)が、島にあるホテルまで一時間の往復送迎を任される。
前段の導入部分まではざっとこんな展開だ。ここまでで既に一時間ほどだろうか。短編原作に三時間は驚いたが、途中でロケ地も変わり、飽きさせない。何より、チェーホフの演劇をある程度しっかり見せるには、この位の尺は必要なのだろう。
原作への果敢なチャレンジ
村上春樹の同名短編をベースにしてはいるが、会話の中にちょっと登場するだけの『ワーニャ伯父さん』から着想し、場所も広島に移して思いっきり拡張した話にしている。
原作に出てくるサーブ900は黄色のコンバーチブルだ。映画では風景に映えるからと赤いサーブ900ターボに変更されてしまったが、このクルマのイメージカラーは黄色の印象が強いので、ちょっと残念。
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同じ短編小説集に収録の『シェラザード』から、好きな同級生の男子の自宅部屋に不法侵入しては、気付かれないよう小物を盗んでは自分の何かを置いて帰る悪癖がやめられない女子高生の話が、本作に使われる。
この挿話の融合はとても自然かつ有効になされており、こちらがオリジナルのようにさえ思えるほどだ。
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また『木野』という短編もモチーフになっている。同僚が妻と浮気している部分だ。また、アナログ音響機器へのこだわりみたいな部分もそうかもしれない。
濱口メソッドなる魔法
本作で、日本人としては初のカンヌ国際映画祭脚本賞を大江崇允とともに受賞した濱口竜介監督には、『ハッピーアワー』で知られるようになった、俳優の自然な演技を引き出す独特の演出法<濱口メソッド>がある。
その特徴は、台本の読み合わせの際に「感情を込めてはいけない」というルールがあることだ。
一切の感情抜きで、台本を句読点まで厳密に何度も読み合わせさせることで、他の役者の台詞も全て頭に入っていく。その後に本番で自由に演技すると、何もかもが新鮮にみえると、西島秀俊は語っている。
『ハッピーアワー』で演技未経験の女優たちにロカルノ国際映画祭の主演女優賞をもたらした、この濱口メソッドを、本作では演劇のワークショップのシーンでそのまま使い、実際に出演者の演出にも活用されているそうだ。
そう聞くと、確かに肯ける部分は多い。特にこのところ、ひねくれた二枚目がデフォルメされたステレオタイプな役が多かった岡田将生は、鬱憤を晴らすかのように、いい演技を見せてくれる。
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演劇シーンでは、日本語に中国語、韓国語に韓国式手話まで入り混じって芝居が続くわけだが、この濱口メソッドにより、みな相手の台詞が(内容はともかく)音声として理解できている。だから芝居が成り立っているのだ。
劇中では濱口ならぬ家福メソッドによって目覚めていく役者たちの映画を、濱口竜介監督が撮るという構造の面白さと効用。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
前世はヤツメウナギ
東京編で、家福が自宅に帰って目にしたものは妻と高槻が全裸でもつれ合っている浮気現場である。
だが、普通は夫が激昂するはずのこのドラマでは見慣れた場面で、彼は気づかれないように音をたてずに部屋を去り、ホテルに向かう。深く傷つきはしたが、事実と向き合う勇気がなかったのだ。
◇
妻の音はセックスの最中にドラマのアイデアが閃き、それを寝物語で聞く家福が翌日に伝承するというのが、夫婦のこれまでの習慣だった。
だが、家福が途中までしか聞いていない<同級生男子の部屋に不法侵入する、ヤツメウナギが前世の女子高生>の話の続きを、なぜか高槻が知っている。車中で高槻がそれを語るシーンは圧巻だ。
そして、その内容からは、罪と知っていてもエスカレートを止められない苦しみや、いつか夫が現れるのではという妻の恐怖感が窺える。
「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかない。僕はそう思います」
涙目でそう訴える高槻。
「真実を知らないことが、一番恐ろしいこと」
妻はそう語っていた。だが、真実を知ることから、家福は逃げていた。
「彼女は仕事で知り合った複数の男と浮気を繰り返していた。僕を愛していたのだろうか」
そう悩む家福に、寡黙なみさきが答える。
「女にはそういうところがあるんです。奥さんは、家福さんを深く愛していたのだと思います」
正しく傷つかなければいけなかった
本作には<声>がとても効果的に使われているように思う。
東京編ですぐに亡くなってしまう妻だが、夫のために録音した台詞朗読のテープをクルマの中で家福は常に聴いているため、まるで死後も一緒に会話してドライブしている錯覚に陥る。
『ワーニャ伯父さん』の演劇においては、それぞれの俳優が母国語で台詞を言うので会話自体はつかみづらいが、各言語の持つ響きが独特の雰囲気をうみだす。
さらには、<声>が出せないイ・ユナ(パク・ユリム)の手話が、誰よりも雄弁に心情を伝えるというのも驚きだった。
とあるアクシデントがきっかけで、急遽広島からみさきの故郷北海道までクルマをとばすことになる展開には驚いた。クールなダークヒーローのような女ドライバーみさきと、神経質そうな演出家の家福。
本作はロードムービーではないが、長時間の長旅では、家福はこれまでの後部座席から助手席に席を移っている。二人には、信頼関係が構築されつつあるのだ。
◇
自分は妻にきちんと向き合わなかった。彼女が男と寝ているのを見た時に、逃げるのではなく、正しく傷つかなければいけなかったのだ。家福はそう気づく。俺が妻を殺したようなものだ。
一方のみさきには、飛び出してきた故郷の北海道上十二滝町(『羊をめぐる冒険』にも出てきた架空の町)で、母を見捨てた過去があった。彼女もまた、母親が雪崩で死んだことで、自分を責めていた。
ワーニャ伯父さん
『ワーニャ伯父さん』の内容を理解しておけば、もっと映画に入り込めたと思うと悔やまれる。
主人公のワーニャは義弟に騙されて苦労し続ける人物として描かれる、なかなかに救いのない話だ。
家福は、なぜこの主役に、妻の浮気相手である高槻を抜擢したのだろう。家福が自分で演じるものと周囲は思っていたが、悲惨な運命の男を高槻に割り振ることで、憂さを晴らそうと考えたのか。原作にも、そのような腹いせのような感情が描かれていた。
だが、結局その高槻は舞台に立てずに終わる。その経緯詳細は伏せるが、無名の客が向ける盗撮のスマホが<チェーホフの銃>だったとは思わなかった。映画序盤に登場する小道具には、意味を持たせなければいけないのだ。
◇
ワーニャは人が良すぎて、長年何も言わずに苦労を続ける報われない男だ。まさに家福の生き様と重なる。だからこそ、彼はずっと、チェーホフの芝居で自分を差し出して役を演じられなくなっていた。
苦しみは受け容れるしかなく、死んだときに神に文句を言おう。そうワーニャ伯父さんを慰める姪のソーニャは、みさきの役と重なるのだ。そう私は理解した。
あまりに自然で美しい、四宮秀俊のカメラにも感動。彼が撮影に参加の『きみの鳥はうたえる』と同様に、本作でもビートルズの同名楽曲は使えなかったようだが、かえって良かったのではないかと思う。楽曲と作品のイメージがだいぶ違うから。
ラストで、みさきはコロナ禍の韓国の郊外で暮らし、赤いサーブに乗っている。これが家福のクルマなのかも、父と娘のように二人が一緒に暮らしているのかも、手がかりはない。
だが、家福の緑内障が進行しているのなら、或いは家福が前を向いて生き始めたのなら、みさきに自分の愛車を使って欲しいとサーブを譲ることは、想像に難くない。
気がつけば、みさきの頬の傷あとも、少し目立たなくなっているではないか。彼女も、前を向いて動き出したのか。