『沈黙 サイレンス』
Silence
遠藤周作による日本のキリスト教文学の金字塔を、マーティン・スコセッシ監督が忠実に映画化。
公開:2017 年 時間:159分
製作国:アメリカ
スタッフ
監督: マーティン・スコセッシ
原作: 遠藤周作
『沈黙』
キャスト
ロドリゴ: アンドリュー・ガーフィールド
ガルペ: アダム・ドライバー
フェレイラ: リーアム・ニーソン
キチジロー: 窪塚洋介
モキチ: 塚本晋也
モニカ: 小松菜奈
ジュアン: 加瀬亮
イチゾウ: 笈田ヨシ
通辞: 浅野忠信
井上筑後守: イッセー尾形
奉行所の侍: 菅田俊
岡田三右衛門の妻: 黒沢あすか
老僧: 中村嘉葎雄
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の日本。高名な宣教師の棄教を聞き、その弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は長崎へと潜入する。
彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、弾圧を逃れた”隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。しかしキチジロー(窪塚洋介)の裏切りにより、遂にロドリゴらも囚われの身となり棄教を迫られる。
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは。
レビュー(ネタバレあり)
スコセッシ監督、悲願の映画化
日本のキリスト教文学として世界でも高く評価されている、遠藤周作の代表作『沈黙』を、原作と出会って28年の時を経て、ついにマーティン・スコセッシ監督が待望の映画化を果たす。
マフィア系の映画の多いスコセッシ監督のフィルモグラフィの中では異端とも思えるが、1988年には『最後の誘惑』でキリストの受難を撮っており、本作もその流れを汲むものと言えるかもしれない。
本作は企画開始から撮影開始までに時間がかかり、スコセッシ監督は映画化交渉中に遠藤周作とも直接対話までしていたが、残念ながら遠藤は完成披露を待たずに亡くなってしまった。
ぜひ遠藤周作にも見て欲しかったとスコセッシ監督は思っていただろう。そう思うに相応しい作品だ。映画には荘厳な雰囲気が漂い、1971年に篠田正浩監督が映画化した際とは異なり、原作にも忠実な仕上がりになっている。
危険な島国にやってくる宣教師たち
1633年、宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)たちは雲仙で幕府の弾圧で磔の刑に遭い、温泉の熱湯をかける拷問により、棄教を促される。半裸で皮膚を真っ赤にした宣教師の姿は、冒頭のシーンからただならぬ雰囲気を醸している。
そして1640年。名高いフェレイラが棄教したという情報を掴んだイエズス会は、その捜索と救出に、二人の神父を派遣する。フェレイラの弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)。
時はまさに島原の乱の収束後。江戸幕府による禁教政策が強化され、日本が鎖国に走ろうという時代であった。
キリスト教信者数千人が斬首されたという長崎に足を踏み入れることは、彼らにとって殺されに行くも同然だったが、たった二人の軍隊だと強がって、この危険な航海に志願して臨む。
まずはマカオで日本人のキチジロー(窪塚洋介)を紹介され、彼の案内で秘かに長崎に潜入する二人。まるで日本の国土が、ジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』の舞台にように、極悪人の囚人の島になったかのような緊張感。
◇
ロドリゴに『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールド、ガルペに『スターウォーズ』の悪役カイロ・レンのアダム・ドライバー、失踪したフェレイラを演じるリーアム・ニーソンも『スターウォーズ』のジェダイマスター。
三人揃えば、難なく救出劇を終えて生還しそうなものだが、そんな冗談を受け付けないほど深刻な雰囲気が全体に漂う。だってあの窪塚洋介でさえ、今回は観たことのないようなシリアス演技だ。
日本人俳優たちがみな迫真の演技
そう、この窪塚洋介を筆頭に、本作は神父の三人以外はほとんど日本人俳優で固められているが、誰も彼もみなすばらしい芝居を見せてくれる。
隠れ切支丹の村人たちと、それを見つけ出しては棄教させようと踏み絵や密告、処刑などで苦しめる幕府の役人たち。
日本語を解さないロドリゴとガルペと会話をするため、みんな慣れない英語で台詞をいうことになるが、そんなハンディを感じさせないほどの魂の入った演技だ。
苦しめられながらも、神を信じ続ける村人たちに、塚本晋也、笈田ヨシ、パンタ、小松菜奈、加瀬亮、片桐はいり、伊佐山ひろ子等々。
そして弾圧する側には、幕府の禁教政策の中心人物、井上筑後守にイッセー尾形、神父との通辞役に浅野忠信、その他、奉行所には菅田俊がいたり、青木崇高がいたり。
起用した以上は売れっ子だろうが新人だろうがスコセッシ監督には分からないし、関係もない。だから加瀬亮だってあっけなく斬首されるし、小松菜奈だってボロボロで汚らしい格好だ。
だからこそ真実味があるし、ドラマに入り込める。オーバーアクションも過度な演出もない。日本人俳優たちも、きっとスコセッシ監督と仕事ができることを、役者冥利に尽きると思っているのだろうな。
クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』か北野武の『アウトレイジ』みたいに尊敬する監督のもとで、悲惨な死にざまを喜んで演じてしまう役者心理が伝わってきそう。
特にド迫力だったのは、海の中で岩礁の十字架に磔となり、高波に激しく打ち付けられる塚本晋也と笈田ヨシの拷問シーン。あれは一歩間違えば、撮影事故で溺死しそうで薄ら寒くなる。
塚本晋也は自身が監督でありながら、オーディションに参加しこの役を勝ち取っている。スコセッシは、以前から塚本監督作品を評価していたから、塚本監督自身の登場には驚いたそう。
沈黙するのはなぜですか
本作では、アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーの二人は受けの芝居が中心で、物語を進めていくのは、切支丹の村人たちであり、イッセー尾形演じる老獪な奉行であり、浅野忠信の演じる硬軟を合わせ持つ通辞なのだ。
この日本人たちによって、神父の持ち続けている苦悩が浮き彫りになってくる。それは、原作のタイトルにもなっている<沈黙>について。
「これだけ多くの信者たちがもがき苦しみ、棄教せずに死んでいくなかで、神よ、なぜあなたは沈黙を続けるのですか」
本作は、その答えを探す旅の映画ともいえる。
私はクリスチャンではないこともあり、キリストを扱ったような洋画の類はどちらかというと苦手としてきた。深いところまで理解が追い付かないせいだろう。
だが、本作は同じキリスト教の話とはいえ、日本の歴史に深く関わるものだ。
異教徒を激しく弾圧したり、十字架や偶像を捨てさせて、踏み絵をさせ、更には転がる(棄教)ことを拒絶する者を、極めて残忍な(長く苦しめる)手段で拷問する。
かくも厳しい環境のなかで、それでも神を信じ続ける村人たちの強い宗教心には感服せずにはいられない。
終盤の逆さ吊りで穴に首を突っ込み、少しずつ耳の下に空けた傷から出血させる刑は無惨だ。陰湿な拷問シーンばかりに目が行く。映像で目の当たりにすると、原作よりもインパクトが大きい。
だが、看守のいびきだと思っていた音が、この穴吊りされた信者たちの苦しむ呼吸音だったと知り、ロドリゴが愕然とする場面は、原作の表現力がはるかに上回っていた。
映画は原作に忠実とはいえ、未読であればぜひ鑑賞の後からでも読むことをお薦めしたい。私はどちらからも感銘を受けた。
私を踏みなさい
本作はキチジローや通辞が結局、善人だったのか悪人だったのかをはっきりとは描かない。
同僚のガルペは棄教することなく、死を選んだ。恩師のフェレイラは棄教し、教会の内情を暴く書を出版し、日本人となりこの国で死んだ。どちらが正しいか、答えはない。
「この国にはキリスト教は根付かない。彼らが信じている神は、結局我々のキリストとは異なるのだ」と、フェレイラは語っていた。
◇
ロドリゴは、殉教者たちの苦しみの声に耐えかね、踏み絵の前に立つ。
「私を踏みなさい」
神の声を聞いたロドリゴはそれに従い、ついに転ぶことで信者を穴吊りから救う。
ロドリゴは生き長らえ、岡田三右衛門という日本人の名前をもらい受け、この国に骨をうずめる。
塚本晋也監督のつながりか、『六月の蛇』の黒沢あすかが岡田の妻で出演。ラストシーンでは、火葬される岡田の棺桶に妻がこっそり十字架をもぐりこませる。
ロドリゴは心から棄教したわけではないのだ。踏み絵の際に聞こえた神の声は、はたして本物だったのか、彼の願望だったのか。いずれにしても、ロドリゴは鎖国に入るこの日本において、最後の司祭となった。