『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』
A Ghost Story
恋人のもとに現れるゴースト映画だが、規格外。シーツを被った男が、家の中の妻をただじっと見ている。あまりに静かで不思議なシーンに引き込まれるうちに、物語はどんどん壮大な展開になっていく。伏線回収なるか。
公開:2017 年 時間:92分
製作国:アメリカ
スタッフ 監督: デヴィッド・ロウリー キャスト C: ケイシー・アフレック M: ルーニー・マーラ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
ポイント
- 観終わってもしばらくはポカンと口を開けて動けない。一体何の映画だったのか。そしてどうにか答えらしきものを手繰り寄せる。だが、この問題に正答があるのか、そもそも問題だったのかさえ、よく分からない。
あらすじ
田舎町の一軒家で若い夫婦が幸せに暮らしていたが、ある日夫が交通事故に遭い、突然の死を迎える。
病院で夫の死体を確認した妻は、遺体にシーツを被せて病院をあとにする。
しかし、死んだはずの夫はシーツを被った状態の幽霊となり、妻が待つ自宅へと戻ってきてしまう。
レビュー(まずはネタバレなし)
いわゆる恋人ゴースト映画ではない
これは独特の雰囲気を持ったファンタジーだ。何年か前に機内上映で観た時は、ラストの意味がさっぱり分からず、そのまま記憶から消し去っていたのだが、先日同じようなテイストの作品を観て、ふと再挑戦したくなった。
突然の交通事故で妻を残して死んだ夫が、幽霊となって彼女を見守るのであれば、『ゴースト/ニューヨークの幻』を祖とする恋人の幽霊ラブストーリーものとして、ジャンルが確立している。
◇
だが、こともあろうに、病院のシーツを被って目の部分をくりぬいただけのこのゴーストは、妻本人ではなく、思い出や歴史の詰まった<住み慣れた家>に憑りつくのである。いわば、地縛霊だ。
そう書くと怖そうだが、まれにポルターガイストのようにふるまうことを除けば、ゴーストはひたすらじっと動かず家の中で傍観しているだけだし、子供の落書きのようなシーツの造形とも相まって、基本的にはホラー映画ではない。
◇
スクエアに近い不思議な画面サイズや、ほぼ固定されたカメラや遠景の多用、ほとんど喋らない出演者たちのおかげで、とても非日常を感じさせる映画で、容易に感情移入させてくれない。
まるで観客にも傍観を強いているかのように。
ケイシー、よく出演したな
冒頭シーン以外ほぼ全編シーツを被っているケイシー・アフレックは、顔をみせずに勿体ない気もする。『るろうに剣心』でほぼミイラ男だった藤原竜也を思い出す。
一方のルーニー・マーラは、何も言わずひたすらパイをむさぼるように食べるシーンが印象的。
デヴィッド・ロウリー監督は『セインツ -約束の果て-』でもこの二人を起用しているが、同じ共演でも今回はまったく違う印象。
余談だが、監督作で私が好きなのは、レッドフォードの引退作となった『さらば愛しきアウトロー』。
レビュー(ここからネタバレ)
そこにメモはあんのかい
ネタバレといっても、本作はいろいろな解釈ができる作品なので、あくまで勝手な思い込みを語らせていただきたい。
最初の鑑賞で私が落胆したのは、彼女が柱に隠したメモに書かれた内容が結局明かされなかったからなのだが、つまりは、そこに意味はないということだ。
実際の撮影でも、監督がルーニー・マーラに適当に書かせたメモは紛失しているくらいだし。
◇
だが、予備知識なしに本作を観る人の中で、メモの中身に期待しない人、つまりこのエンディングをすぐに受け容れられる人は、はたしてどの位いるのだろう。
かなり少数派だと私は思うが、それでも本作が相応の評価を得ているのは、考えた末に納得できたからなのだろうか。
ライフ・オブ・パイ
地縛霊になってまで、彼が未練を残したのは、彼女ではなく、彼女との思い出や歴史のつまった家だった。
そんな大事な家なのに、彼女に譲歩して引っ越ししようと言ってしまった彼は、翌朝に死んで後悔が残るのだ。
だから、病院の廊下に光の扉があき、天に召されても、彼はそれを拒んで我が家に帰ってしまう(という風に私には見えたのだが)。
「犬は人に付き、猫は家に付く」のたとえにあるように、彼は猫族なのだ。なるほど、だから柱をずっと引っ掻いているわけか。
◇
悲しみにくれながら、ひとり床に座って延々とパイを食べる彼女が、すぐに吐いたり、その後お腹をいたわるシーンもあったりしたので、<チェーホフの銃>ではないが妊娠説を考えた。だが、それは考えすぎか。
食べるという日常行為が、悲しみを増幅させることは自分にも経験がある。食べながら、泣き止まないのだ。監督も同じようなことを語っていたので、ここは神経性胃炎あたりで納得しよう。
ゴーストの怨念ではなく執念
彼女との思い出の家を愛した彼には、家を出る際にその柱に彼女が残したメモが気になる。もはや、その関心だけが、何年、何十年のうちに増殖している。
クリスマスに沸く子供たちを脅かし一家を追い出し、『人は生きてきた証を残そうとするが、どうせ人類はいつか死ぬし、地球もなくなるのだ』と、悲観論者が気炎をあげるパーティを経て、廃屋同然の家でようやくメモを取り出しかける。
だが次の瞬間、ブルドーザーが家を壊滅させ、メモは消え失せる。隣家のゴーストは待ち人来らずで成仏するのだが、彼はあきらめない。
その土地で長い間待ち続けるうち、そこには高層ビルが建ち、街には摩天楼ができあがる。そこで何を思ったか彼は身投げをするが、それで成仏するわけもなく、過去にタイムスリップする。
そして、その土地で家を建てようとする狩猟民族の一家は、原住民に皆殺しとなり、少女が石の下に隠したメモだけが残る。
◇
彼自身の交通事故死もそうだが、今回の一家皆殺しも、極めて静かなシーンで、感情移入を許さない。
それにしても、高層ビルの時点で既に驚いたが、さらに、ゴーストが過去にまで遡っていくとはスケールの大きさに度肝を抜かれる。90分の映画でここまで風呂敷を広げられるとは。
振り出しに戻る
そして、もはや長年着古して薄汚れたシーツをまとう彼のもとに、ついに彼女が自分とともに現れるのだ、その家を借りるために。
なるほど、こうきたか。冒頭のシーンで彼らが感じた気配や異音の正体は、彼自身のゴーストだったのだ。
◇
ということは、翌朝、二代目の彼は死ぬのでは、と気づいた時には、既に居間にはもう一体のゴーストが。早くも死んでしまったのか。
映画の中では、この後に彼はついに念願の彼女のメモを柱のすき間から手に入れ、その内容をみた瞬間に成仏してしまう。だが、前述のように内容は不明だ。
映画の冒頭で彼女は語っている。
「引っ越しのたびにメモを隠すのは、いつか戻ったら昔の私に会えるから。書くのは、ちょっとした詩とか、思い出とか」
考えれば、彼は手段と目的を二度も取り違えているのだ。戻るべき場所を恋人ではなく、二人の思い出が宿る家だと思っている。
そして、内容はどうでもよく、メモをみることが目的になっている。
そんな彼に、もはやメモの内容は関係ないのだろうが、せめて、彼女には、彼との思い出について書いてくれていてほしい。
だが、男女はすれ違うものだ。冒頭でもラストでも柱にプリズムのような光があたっていた。
彼女は、それを詩に書き留めたのかもしれない。メモのサイズも、思い出を書くにはあまりに小さいのが気にかかる。
アクトビラ
ところで、二代目のゴーストはまた高層ビルが建ってから過去に戻って、同じ歳月を経て柱のメモを入手するのだろうか。
こうしてゴーストの歴史は繰り返されるのかと思ったが、よく考えたら、そのメモは初代ゴーストが引っ張り出しているから、繰り返しは起こらないではないか。
◇
ここで、思い出してほしい。ラストシーンで初代ゴーストがメモを入手する直前に、家の扉が無人で開くのだ。そしてさっきまでいた二代目ゴーストがいなくなっている。
これはつまり、二代目ゴーストは家ではなく、彼女に寄り添って、家を出て行ったということではないのか。いや、そうあってほしい。今度は、アンチェインド・メロディが流れる展開になってくれるだろうか。