『許されざる者』
Unforgiven
クリント・イーストウッド監督が二人の恩師に捧げた、最後の西部劇。
公開:1992 年 時間:131分
製作国:アメリカ
スタッフ 監督: クリント・イーストウッド 脚本: デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ キャスト ウィリアム・マニー: クリント・イーストウッド リトル・ビル・ダゲット: ジーン・ハックマン ネッド・ローガン: モーガン・フリーマン スコフィールド・キッド: ジェームズ・ウールヴェット イングリッシュ・ボブ:リチャード・ハリス W・W・ブーシャンプ: ソウル・ルビネック アリス: フランシス・フィッシャー デライラ: アンナ・トムソン クイック・マイク: デヴィッド・マッチ デイビー・バンティング:ロブ・キャンベル スキニー・デュボイス: アンソニー・ジェームズ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
1870年代の米ワイオミング。かつては無法者として悪名を轟かせたウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)だったが、今は若い妻に先立たれ、二人の幼い子どもとともに貧しい農夫として静かに暮らしていた。
そこに若いガンマン、キッド(ジェームズ・ウールヴェット)が立ち寄り、賞金稼ぎの話を持ちかける。
今更レビュー(ネタバレあり)
ドンとセルジオに捧ぐ
クリント・イーストウッド監督が、自身の代名詞といえる『ダーティーハリー』のドン・シーゲルとマカロニウェスタン・ブームの立役者セルジオ・レオーネという、二人の恩師に捧げた西部劇。作品、監督を含む4部門でオスカーを獲得する。
◇
舞台は1880年代のワイオミング。ビッグ・ウィスキーという名の山間の町の酒場、二階はビリヤード場と書いてあるが、階段を上がってもそんなものはなく、娼婦が待っている店。
冒頭、その店でトラブルが起きる。荒くれ者のカウボーイの二人組のうち、クイック・マイク(デヴィッド・マッチ)が娼婦デライラ(アンナ・トムソン)の顔をナイフで傷物にしたのだ。
店主のスキニー(アンソニー・ジェームズ)が保安官リトル・ビル・ダゲット(ジーン・ハックマン)を呼び、連中は逮捕される。
厳罰を求める娼婦たちだが、初めは鞭打ちで収めようとし、結局スキニーの顔を立てて馬7頭を差し出すことで、リトル・ビルは決着させる。
時代はまだ男性優位社会。保安官は被害者女性のことなど微塵も関心はなく、自分の町にならず者がいるのが許せないだけだ。
店主のスキニーも、娼婦の側に立って心配した訳ではなく、商品価値が落ちたデライラの穴埋めを要求したに過ぎない。そんな非情な男たちの町で、娼婦たちは有り金を持ち寄り、二人のカウボーイの首に賞金をかける。
◇
話の流れだけを聞けば、まるで『仕掛人梅安』のようだ。か弱い女どもを食い物にする悪党を、カネをもらって成敗する男たちの話。
そう思うと、後年この作品を日本を舞台にリメイクした李相日監督の気持ちは分かる。ただ、明治時代では新しすぎたかもしれないが。
昔はワルだった老いぼれ
さて、ようやく主人公ビル・マニー(クリント・イーストウッド)の登場だ。
幼い子供たちと暮らす酪農家だが、鼻息の荒い若造スコフィールド・キッド(ジェームズ・ウールヴェット)が突如現れ、懸賞金のかかった二人組を殺そうと、初対面のマニーを誘う。
マニーは今の静かな農夫生活からは想像できないが、かつて列車強盗や保安官殺しで名を馳せた悪党だったのだ。冒頭に説明される、美しい妻に先立たれた<ならず者>とは、このマニーのことだった。
妻との出会いで、彼は改心しまともな人間になっていた。マニーは生活苦からキッドの誘いに乗り、かつての相棒ネッド・ローガン(モーガン・フリーマン)を連れ出し、三人で賞金稼ぎの仕事に向かう。
威勢がいいだけで経験不足、しかもド近眼で遠くの相手には銃が撃てないキッドに、今は足を洗って久しい老いぼれが二名。
昔は随分と悪名を轟かせたが、今では馬に乗るのも、銃を命中させるのも、勘が取り戻せずに難儀する初老の男。
『グラントリノ』(2008)でも最新作の『クライ・マッチョ』(2021)でも、クリント・イーストウッドはこの手のキャラクターを演じることが多いが、1992年の本作で、すでにその原型はできあがっているのだ。
イーストウッドはもっと何年も前に、この作品の脚本を手に入れていたが、自分の年齢がこの役にフィットするまで、機が熟すのを待っていたという。
その甲斐はあった。無法者の過去を背負い、亡き妻のおかげで改心し更生した大柄の男の、少し丸まった背中の哀愁がいい。
最後の西部劇
本作は『最後の西部劇』と銘打っている。だが、古き良き時代の西部劇とは違い、単純な構図ではない。
ネイティブ・アメリカンは野蛮なインディアンではないし、女たちもただ黙って男に従うだけの添え物ではない。男たちも、正義の孤高のガンマンが、悪いヤツを倒して去っていくというハッピーエンドの勧善懲悪ドラマではない。
そんなものが受け容れられる時代ではないのだ。だから、本作は、昔ながらの活劇に別れを告げる、<最後の>西部劇ということなのかもしれない。
通常なら主役たり得る保安官リトル・ビルはサディスティックな悪役風に描かれてはいるが、自分の町に銃を持ちこませないことに執念をもち、ガンマンの腕も立つくせに、日曜大工仕事で自分の家を組み立てるお茶目なキャラも見せる。
ジーン・ハックマンならではの深みのある演技で、一筋縄ではいかず、単純に<死んで良し>の人物ではない。
娼婦を傷物にし少し反省する若者も、連中の一人を射殺して初めての殺人にすっかり傷心してしまうキッドも、根っから悪いヤツともいいヤツともいえない。
モーガン・フリーマン演じるネッドはただひとり、善人にみえたが、彼には不運な末路が待っている。
許されざる者とは誰か
「人を殺すのは大変なことだ。相手のこれまでの人生をすべて奪い、未来までもそっくり奪うことになる」
二人の子を育て、すっかりまともな人間になったマニーがそう語る。
だが、懸賞金目当てで相手を平然と殺せるか。そして、仲間の仇とはいえ、保安官や丸腰の店主など、大勢の連中を早撃ちで次々と倒すことは正当化できるのか。
本作の登場人物を善悪で色分けすることは容易ではない。人によってとらえ方も違うだろう。それゆえに、クライマックスの酒場での戦いは、どのような形で幕を閉じるのか、なかなか読めない面白さがあった。
マニーが撃っても、撃たれても、物語としては成立する。それは<許されざる者>とは誰のことなのかという解釈にもつながる。
観る前は、クリント・イーストウッドが銃を向けるのが「許すまじ」である相手なのだと思っていたが、彼自身が演じるマニーも、けして<許される者>ではないように見える。
本作はナレーションで始まりナレーションに終わる。マニーを改心させた良妻は、なぜ彼に惹かれたのかは最後まで謎だが、結局マニーは子供たちとサンフランシスコに移り、商売を成功させたという。
この語りを挟んでワンクッション置くことで、本作の殺伐とした生々しさは若干薄らぐものの、やはり酒場を出た途端に、生き残りのガンマンに撃たれて死ぬのが、この一日だけ無法者に戻った男の最期にふさわしい気がした。
ただ、このように、観終わって何かを考えさせる西部劇というのは、イーストウッドが恩師に捧げる新境地ともいえる。