『アジアの天使』
石井裕也監督が日韓関係やコロナ禍を乗り越えてオール韓国ロケで撮りきった気合の一本。それは伝わったが…。
公開:2021 年 時間:128分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 石井裕也
キャスト
青木剛: 池松壮亮
青木透: オダギリジョー
青木学: 佐藤凌(子役)
チェ・ソル: チェ・ヒソ
チェ・ジョンウ: キム・ミンジェ
チェ・ポム: キム・イェウン
勝手に評点:
(悪くはないけど)
エヴァのポスターと同じ構図だったので、つい、ブログのタイトルに…。
コンテンツ
あらすじ
妻を病気で亡くした青木剛(池松壮亮)は、ひとり息子の学(佐藤凌)とともに、疎遠になっていた兄の透(オダギリジョー)が暮らすソウルへ渡る。
兄からは「韓国で仕事がある」と言われていたのだが、剛の期待とは違い、兄はその日暮らしの貧しい生活を送っていた。剛はほとんど韓国語も話せないまま、怪しい化粧品の輸入販売を手伝い始める。
一方、ソウルでタレント活動をするチェ・ソル(チェ・ヒソ)は、市場のステージで誰も聴いていない歌を歌う仕事しかなく、所属事務所の社長と関係を持ちながら、仕事や家族との関係について心を悩ませていた。
レビュー(まずはネタバレなし)
三度目の正直とはならず
心に傷を持つ日本と韓国の家族が偶然にソウルで出会い、国を入り交えて新しい家族の形になるロードムービー。
このところ精力的に映画を撮っている石井裕也監督が、日韓関係の悪化やコロナ影響の深刻化に負けず、キャストやスタッフの95%が韓国人勢でオール韓国ロケに臨んだ作品。その映画作りの姿勢には敬意を表する。
◇
石井監督は、『茜色に焼かれる』でもコロナ社会というものを敢えて前面にさらけ出し、その環境下で映画を撮ることがどれだけ大変かを訴えかけてくる。確かに、想像以上に大変な作業なのだろうと思う。
だが、撮影の努力と、映画の作品としての評価は本来無関係であるべきだ。私は本作で石井監督が描こうとしたものを正しく理解できていないのかもしれないが、心に訴えかけてくるものは正直少なかった。
実をいえば、『生きちゃった』・『茜色に焼かれる』・『アジアの天使』と、直近の三作全て相性が悪い。キネ旬のランキングはじめ世間的には、これらの作品の評価はけして悪くないどころか、結構高かったりする。メチャクチャ泣けたとべた褒めする人も多いようだ。
どうやら、型にはまらずに動く石井裕也監督の作品内容に、私の感性が追い付いていないのかもしれない。なので、私のレビューなど気にせず、ぜひ未見の方はこの三作品を観ていただきたい。私は世間の評価に流されず、なぜ本作が胸に刺さらなかったかを書き残しておきたい。
相互理解も大事だろうけどさ
映画は冒頭、ソウルの空港からタクシーでどこかに向かう青木剛(池松壮亮)と学(佐藤凌)の父子。交通渋滞がひどく、運転手は韓国語でまくしたてるが、言葉を解さない剛は唖然とするばかり。
訪ねたアパートでも、韓国人とトラブルになる。言葉は分からなくても、「必要なのは相互理解だ」と息子に語る父。
やがて、兄の透(オダギリジョー)が現れ、ようやく観客にも状況がわかってくる。剛は疎遠だった兄の透に仕事の話があるとそそのかされ、父子で日本からやってきたのだ。
◇
妻に先立たれ、売れない小説家では食っていけず韓国に来た剛。税関を通さずに売りさばく韓国コスメの輸出販売や、次のブームは韓国ワカメだと山師のような透。いい加減で頼りない兄貴は、オダギリジョーのお得意キャラだ。
だが、本作はまじめそうな弟の剛のほうにも大いに問題がある。
兄を頼って韓国にくるのはいいが、韓国語が皆目わからないし、理解しようとも何とか喋ってみようという姿勢もみられない。単身の貧乏旅行ならいざ知らず、小学生の子供連れで移住してくる親としてはあまりに無責任だ。
結局この少年は、冒頭タクシーの中で一言喋ったきり、出ずっぱりにも関わらず、まともな台詞はひとつもない。日本語しか話せないからこうなってしまうのだが、子役の起用法としてはあまりに勿体ない。
相互理解が大事というわりに、父の剛も歩み寄りの姿勢はない。本作は、言葉と文化の壁から生まれる噛み合わない会話やコミュニケーションのすれ違いをテーマにしている。
兄弟と兄妹の不思議な珍道中
剛はショッピングモールのステージで見かけた売れないアイドルのチェ・ソル(チェ・ヒソ)に、酒場で相席になり話しかける。
だが、韓国語が全く通じない男が、意味不明な笑みを絶やさず、懸命に日本語を語ってくるのだ。彼女からみれば、ただの不気味な男にしか思えない。この男女は、言葉も通じないのに一体この後どうやって親しくなっていくのだろう。
剛と透の兄弟は順調にビジネスを始めたように見えたが、韓国人の同僚に在庫を持ち逃げされ、唯一残った、韓国ワカメを日本にさばく仕事を頼って列車で仕入先へと目指す。
一方、ソルは事務所のタレント契約更改のため社長の愛人となる自分に嫌気がさしていた。ソルは同居する兄ジョンウ(キム・ミンジェ)と妹ポム(キム・イェウン)とともに、田舎の両親の墓参りに行くために列車に乗る。
こうして日本の兄弟、韓国の兄妹は偶然列車で出会い、強引に透たちに誘われ、一緒に晩飯を食べることになる。
◇
「統計によれば日韓双方の60%が反日・反韓なのだ」と、始めは嫌悪感剥き出しだったジョンウだったが、ここから日韓みんなでボロ車を借りて墓参りに向かうロードムービーと化し、その過程で不思議な連帯感が芽生えていく。この過程は面白い。
全編通じての言葉の壁はつらい
だが、文化交流はよいが、気になるのは言葉の壁だ。どちらも相手の言葉が分からないという点を、本作は有効に使ったつもりだろうが、全編通じてそれでは、観ている方はもどかしいだけだ。
出演者は相手の言葉が分からない設定で演技をしている訳だが、ソル役のチェ・ヒソは幼少期に日本にいたので日本語が分かってしまうのが、監督としては誤算だったという。
そこまでの覚悟なら、いっそ字幕を入れずに上映すれば、韓国語の分からない多くの日本人は剛と同じ感覚が味わえたのではないか。
◇
日韓で言葉が分からない設定というが、どうしても何かを伝えたいときには、英語やボディランゲージがもっと多用されるはずだと思う。
本作でも多少は英語の会話がでてきたが、あのくらい英語で話せるのなら、剛とソルがはじめから自国語でしか語りかけないのは、不自然だ。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
メクチュ・チュセヨとサランヘヨ
「この国で必要な言葉は、”メクチュ・チュセヨ(ビールください)”と”サランヘヨ(愛してる)”だ」
そう透は剛に言う。実際、彼らは韓国ビールばかり飲んでいる。こういう言い回しは他の映画でも聞き覚えがあるし、悪くないとは思うが、天使をからめた家族ドラマとうまくマッチしていたのかは疑問だ。
◇
本作のタイトルにもなっている天使。「アジアの天使」とは大きく出たと思うが、実際には「日韓の天使」だ。
透と剛は子供の頃、天使を見たことがある。見ただけではない、ドラキュラよろしく、首筋を噛まれたのである。それは幸運なことなのか。一方、ソルも愛人問題で悩んでいた時、橋の欄干に立つ天使を見ている。
物語が進み、互いにようやく慣れない英語で会話をするようになると、剛とソルはこの天使の思い出という共通項に運命を感じる。
ショッピングモールのステージ、その後の酒場、さらに同じ列車で遭遇してみんなで自動車旅行になるくらい偶然の出会いが続いているのだから、もっと早くに運命感じろよと言いたくなる。言葉が通じなくてもメキシコ女性と強く惹かれ合った『クライマッチョ』のイーストウッドと対照的だ。
◇
ソルが別れを決めた所属事務所社長。彼女を巡って喧嘩になるが、オダジョー・池松という二人の仮面ライダー俳優でも敵わない相手を、飛び蹴りで倒してしまうソルもなかなかの強豪だ。
そんな彼女を相手に、最後にはいい雰囲気になりそうだった剛だけど、「ボクがサランヘヨなのは、亡くなった妻なんです」と号泣し訴えられたら、日本語が分からない韓国人には愛の告白に聞こえてしまうのではないか。そういうオチなのか。
『生きちゃった』同様に、役者が感極まって泣く芝居にこちらが付いていけてない。
髭だらけの天使
それにしても、「どうしてそんな感じなんですか」と思わずソルが尋ねてしまうおじさん天使の登場は、韓流(ではなくオール韓国ロケ)ドラマの盛り上がりにあまりに不似合いで驚く。「私が汚いことをしてきたから?」と聞いちゃうのは笑ったが。
ここで天使の役を仰せつかった石井組の常連・芹澤興人について触れたい。世間一般の予想を裏切って、まさにとぼけたおじさんの芹澤興人を起用する発想は良いと思う。
ヴィム・ヴェンダース監督の傑作『ベルリン・天使の詩』でもブルーノ・ガンツをはじめ、中高年男性が天使を演じていたが、風合いは大分違っても、アジア系のくたびれたおじさん天使がいたっていい。
私が気に入らない点は、切り札で彼を使うのなら、予告編で解禁するなということ。そして、どうせなら、もう少し気の利いた台詞を言わせ、心に残る登場にさせてほしかったということだ。
ここで他の映画のネタバレになって恐縮だが、大九明子監督の『私をくいとめて』でも、天使ではないが似たような想像キャラの正体に、ぽっちゃり系の前野朋哉を持ってきている。ギャップで受けをねらうのなら、同作の見せ方のが鮮やかだったし、本作は二番煎じにも思えた。
だが、調べてみると面白いことに、芹澤興人は石井作品で天使を演じるのはこれが三回目。初回は『幸子の不細工な天使たち』という短編、次は芹澤天使の登場で視聴者を悩ませたというドラマ『おかしの家』。
そして、石井裕也監督が学生時代に撮った作品の初代天使は、なんと『私をくいとめて』の前野朋哉だというではないか。こうなると、ギャップねらいの天使起用の本家は石井裕也監督ということか。
◇
芹澤天使のおかげで、混沌とした状態で終わろうとしている本作。それを象徴するような最後の晩餐。みんなで貪るように音を立てて食事をするのだが、会話はまったくない。
これはどう解釈したらいいのか。同じ釜の飯を食う仲なら、言葉はなくとも分かり合えるって? 『茜色に焼かれる』同様、今回もまた、意表をつくラストに置いてけぼりをくらった格好だ。