『空白』
空っぽの世界に光はあるか。𠮷田恵輔が笑いを封印した渾身の一作に、古田新太と松坂桃李が応える。人は失意の淵に何を思う。
公開:2021 年 時間:107分
製作国:日本
スタッフ 監督・脚本: 𠮷田恵輔 音楽: 世武裕子 キャスト 添田充: 古田新太 青柳直人: 松坂桃李 添田花音: 伊東蒼 松本翔子: 田畑智子 野木龍馬: 藤原季節 今井若菜: 趣里 中山緑: 片岡礼子 草加部麻子: 寺島しのぶ
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
あらすじ
女子中学生の花音(伊東蒼)はスーパーで万引しようとしたところを店長の青柳直人(松坂桃李)に見つかり、追いかけられた末に車に轢かれて死んでしまう。
娘に無関心だった花音の父・添田充(古田新太)は、せめて彼女の無実を証明しようと、事故に関わった人々を厳しく追及するうちに恐ろしいモンスターと化し、事態は思わぬ方向へと展開していく。
レビュー(まずはネタバレなし)
マイ・ベスト𠮷田恵輔を塗り替えた
今度の『空白』は、自身初めての<一回も笑いのない映画>でもあり、これで巨匠の仲間入りをする、そして次作が完全悪ふざけ映画の予定だから、そこであいつやっぱりダメだといわれる。
先日観た『Blue/ブルー』の公開時に、𠮷田恵輔監督はこんなことを語っていた。
なるほど、劇場予告を見れば、万引きで追いかけられた挙句に交通事故死する女子中学生、激昂する父親と当事者であるスーパー店長との対峙。笑いがないと予告されるのも肯ける。
◇
前作以上にヘビー級な重たさの内容は確実で、観賞を少しためらったが、これは観に行って大正解。𠮷田恵輔監督のいう<巨匠感>が確かにあった。初めて観た『さんかく』(2010年)からずっと監督を追いかけてきて、マイ・ベスト𠮷田恵輔の作品がここで塗り替わった。
勿論、覚悟していた通りの気の重さ、特に年頃の娘を持つなど、似たような家庭環境の者にはこたえる内容だ。
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悲しみのあまりモンスター化する父親をいたずらにクローズアップする広宣はやや的外れな気はしたが、それすらも、作品の中で父親と店長の対決を煽るマスコミの姿を自ら演じているのだろう。さすが、物言う製作会社スターサンズ。ポスタービジュアルからして、ガンガンに攻めている。
悲惨な交通事故のすえに
漁師の添田充(古田新太)は妻(田畑智子)と離婚しており、中学生の娘・花音(伊東蒼)と二人暮らし。添田の気性の荒さと身勝手な振る舞いは、仕事を手伝う若者・野木(藤原季節)の不平不満からも窺い知れる。
花音はうまく自分の意見もいえず謝ってばかりの性格で、学校でも存在感はなく、家では始終荒れている父親との息の詰まる生活。
◇
そんな折、花音はスーパーで化粧品を万引きした疑いで事務所に連行しようとした店長・青柳(松坂桃李)の手を振りほどき、逃走中にクルマにはねられて即死してしまう。
はじめは、路上に飛び出して若い女性の運転する小型車に衝突しただけだと思ったが(これとて重大事故レベルだが)、茫然とする運転手と青柳の眼前で、更に悲劇は起こる。対向車線の大型トラックが停車できず、彼女を引き摺ってしまうのだ。直接的な描写はないものの、これは衝撃的だった。
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悲しみに暮れながらも、俺の娘が万引きなんかするはずはない、いたずら目的で裏に連れ込もうとしたんじゃねえのかと、店長に憤る添田。
一方の青柳は、万引き被害に苦しむ経営者として必要な対応だったとしながらも、行き過ぎた点を謝罪する。だが、両者の対決を面白おかしくワイドショーで報道するマスコミに世間は煽られ、出口の見えない争いが続いていく。
キャスティングについて
添田を演じた古田新太は、本作にとって、まさに余人をもって代えがたい主演俳優だったと思う。
破顔の笑顔を封印したときの古田新太はメチャクチャ怖いし、がなり立てている姿など、気性の荒い漁師にしか見えない。他の役者と違う彼ならではの、暴走中年が何をしでかすか分からない不気味さがある。
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店長・青柳の松坂桃李は、添田とは対照的なキャラを演じる。ソフトな物腰だが、彼も花音のように自分を主張できないタイプだ。死んだ父親から譲り受けたスーパーの店長という設定も似合う。
常に自制心のある彼が、ホカ弁屋へのクレームで一瞬だけキレる描写がいい。『孤狼の血Level2』の主演もいいが、やはり松坂桃李はこういう繊細な役が好きだ。
他のキャスティングでは、花音を演じた伊東蒼が『湯を沸かすほどの熱い愛』からの成長ぶりに時の流れを感じる。思えば、松坂桃李と伊東蒼は同作でも共演していたではないか。
また、𠮷田作品には『さんかく』以来の参加となる田畑智子が元妻を演じる。
応戦一方のスーパーアオヤギには貴重な援軍となるパートの草加部麻子を寺島しのぶが怪演。ボランティア活動に精を出し、善悪の違いこそあれ、添田同様に自分の主義主張を押し付けることができる人物を演じている。
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助演陣のなかで印象的なのは、添田のただ一人の理解者といえる野木役の藤原季節。憎まれ口を叩かれ続ける添田を陰で支えるさりげなさがいい。
いつも自己主張する藤原季節が、本作では徹底して抑えているからこそ、演技が生きているし、だから彼だけが本作で笑いを取れる(添田がかすかに笑顔をみせる唯一のシーンは野木の賜物だ)。『くれなずめ』より私は断然本作の演技を買う。
モンスターとの対決映画ではない
本作は、青柳を責めるうちに、なんとか娘の無実を証明し、真相を暴いてやるとモンスター化する添田を描いてはいる。
ただ、その対決をエスカレートさせてもサスペンス・ホラーにしかならないし(それが好きな人もいるだろうが)、不幸な事故の終わりには不毛な結末しかみえない。
どう決着させるのか、想像がつかなかったが、途中から潮目が変わる。ここに𠮷田恵輔監督の愛を感じるのだ。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
潮目が変わった瞬間
さて、潮目が変わったのはどこか。加害者である小型車の女性運転手の母親を演じた片岡礼子が、涙ながらに添田に謝罪する場面だ。
女性運転手は何度も添田に謝罪を試みるが聞き入れてもらえず、ついにはそれを苦に自殺してしまう。添田と同じく娘を失った母親には、彼を責めることもできただろう。
◇
この事故は女性運転手の全面過失ではないだろうし。だが、母親はそんな恨み節もなく、ひたすら、これで娘は赦してほしい、あとは自分が責めを負う、と泣いて懇願する。
泣きながら流暢に台詞をいうことは普通難しいし嘘くさい。だが、片岡礼子は心からの言葉を語っているのか、その演技には胸を打たれる。
ここから、添田は徐々に心を入れ替える。それまでは、「俺の娘が万引きなんてするかっ」の一辺倒で、喪失感と怒りのはけ口を青柳に求めていただけだ。
だが、彼はろくに会話もしていなかった娘と、もう一度向き合ってみようとする。娘が描いていた油絵に挑戦してみたり、娘の部屋のコミックを読んでみたり。
誰にも心を開かない添田を変えたのは、女性運転手の母親であり、また犬っころのように付きまとってくる野木だった。再婚相手との子供が産まれる元妻に対する心無い暴言についても、初めて素直に詫びることができた。
「悪かった。羨ましかったんだよ」と。
心の折り合いがつけられない
大事な誰かを突然亡くしてしまったとき、いつまでも心の折り合いがつけられないひとがいる。本作は、そんな𠮷田恵輔監督の周囲にある実体験と、万引き中学生が事故死してしまい、またその店も閉店に追いやられるという実在の出来事から生まれた物語だそうだ。
そう思うと、胸が痛む。本件に限らず、例えば警察車両がスピード違反などのクルマを追いかけたあげく、衝突事故で相手を死なせてしまい、行き過ぎがあったのではと問われたケースがあったと記憶する。
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本作には、ヒントはあっても必要以上の情報はない。なぜ添田は離婚し、なぜ娘の親権は父親に付いた。花音につらくあたる担任教師(趣里)はなぜ登場した。
いじめはなく、本当にただ存在感のない娘だったのか。ボランティアに打ち込む草加部と不器用な後輩との挿話の意味は。〈Fill in the blanks. 〉観る者の想像に任せるよということだろうか。
娘が本当に万引きをしたのかどうか、いつの間にか、それは大きな論点ではなくなっている。添田は娘、青柳はスーパー、それぞれがこの不幸な出来事で大切なものを失ってしまった。
胸にぽっかりと空いた穴、その空白を埋めるものは、互いにまだ見つからないし、折り合いのつけ方も分からない。ただ、二人の間の溝は少しずつではあるが埋められつつあった。
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「あんたは何度も俺に謝罪してくれたが、俺は一度もあんたに謝罪してない。今はまだ無理だけどよ」
ラストには、添田にも青柳にもそれぞれささやかな救済がある。ここに書くのは野暮なので控えるが、それぞれ小さなことだが、きっと彼らには生涯忘れられない支えになるだろう。世武裕子のエンディング曲が沁みる。素敵な映画だった。