『朱花の月』
河瀨直美監督作品、奈良は万葉の時代に思いをはせる。染色家の女を取り合う二人の男の姿が、神の宿る大和三山に重なる。
公開:2011 年 時間:91分
製作国:日本
スタッフ
監督: 河瀨直美
原案: 坂東眞砂子
『逢はなくもあやし』
キャスト
拓未: こみずとうた
加夜子: 大島葉子
哲也: 明川哲也
よっちゃん: 麿赤兒
(少年時代):田中茜乃介
拓未の祖父: 小水たいが
拓未の母: 樹木希林
拓未の父: 西川のりお
加夜子の母: 山口美也子
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ 公式サイトより引用
香具山、畝傍山、耳成山-大和三山のほぼ中心に位置する藤原宮跡では、いまも発掘作業が進められている。ベルトコンベアで運ばれていく土の塊は、いにしえの人々の魂にも重なり合う。
鯉のぼりがたなびく奥明日香の集落・栢森に暮らす木工作家の拓未(こみずとうた)は、数年前にこの地に移り住んできた。
古民家を自ら改築し、村のおばあちゃんに畑づくりを習い、多くを語りたがらない彼がようやく見出した自分の居場所だ。
そんな生活を始めたころ、かつて同級生だった加夜子に再会する。朱花という色に魅せられた染色家の加夜子(大島葉子)は、地元PR紙の編集者の恋人・哲也(明川哲也)と長年一緒に暮らしている。
紅花の真紅の液体に布をくぐらせ、したたる血のような朱花色は、加夜子のうちに秘められた狂気にも似ている。再会したふたりはいつしか愛しあうようになり、つばめが巣作りをはじめた工房には穏やかな時間が流れる。
戦前、互いに気持ちを寄せ合っていたにもかかわらず、添い遂げることのできなかった加夜子の祖母・妙子(大島葉子)と拓未の祖父・久雄(小水たいが)に代わって、その想いを遂げようとするかのように幸せなときを過ごすふたりだったが、加夜子が身籠ったことをきっかけに、平穏な日常に変化が訪れる……
拓未は、その小さな命の存在に戸惑いながらも、生まれ来る命を待つ決心をする。そうして大好きな藤原宮跡に出かけると、突然声をかけられた考古学者(麿赤兒)に発掘現場を案内される。
奇妙な偶然――。その気配は、戦時中の祖父と考古学者―よっちゃんの少年時代(田中茜乃介)へと交錯してゆく。
今更レビュー(ネタバレあり)
万葉の時代から三角関係は続く
古代より神が宿るとされる大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)を、女を取り合う二人の男に見立てた万葉の歌から話を膨らます。
地元PR紙の編集者をしている哲也(明川哲也)と木工作家の拓未(こみずとうた)、そして二人の間を揺れ動く染色家の加夜子(大島葉子)の微妙な関係。
◇
「万葉集」の地・飛鳥地方を舞台に、奈良県出身の河瀬直美監督が思い入れたっぷりに撮った作品であることが伝わる。
確かに、橿原市、明日香村、高取町といったロケ地の自然の豊かさや幻想的に光る月、空を泳ぐ鯉のぼりなど、風景の切り取り方は美しいし、監督の作風を感じる。
古代からの時代の繋がりを作品に匂わせたいという意図も分からないことはない。
◇
河瀨直美監督は『萌の朱雀』でカンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞して以降、<カンヌの申し子>と呼ばれている(らしい)。
招待作品となった本作も、「河瀨直美の到達点」と称賛され、公式上映後は鳴り止まぬスタンディングオベーションで迎えられたというが、それが本当なら、私はカンヌで観客席に座っている面々とは、相当相性が悪そうだ。
独走する難解さと芸術性に疑問
本作で監督が伝えようと思っていることは、なかなか作品を観ただけでは理解できない。それを芸術的なアプローチという言い方もできるが、私には独りよがりに思えた。
複数回観たことでやっと理解できるような作り方を好む監督も世間にはいるが、本作はそれとも異なり、公式サイトやインタビュー記事などを読み込むことで、ようやく分かった気になれる作品といえる。
◇
何でも説明しては映画にならないが、たとえば三人の関係性も分かりにくい。加夜子は哲也と同棲している(あるいは夫婦別姓?)が、目を盗んで拓未と密会し、妊娠までしてしまう。
加夜子と拓未は昔から好き合っていたことが、高校に残る落書きから伝わる。もしかしたら自宅で鉄棒を練習していた子供時代(加夜子は当時に帰りたがっていた)からの想いかもしれない。
だが、拓未が数年前にこの地に帰ってきて加夜子と再会し深い仲になったことや、彼女が朱花という万葉集に登場する褪せやすい貴重な色に魅せられて、染色家になったことなどは、本編では特に語られない。
哲也と拓未も、村の会合で並んで飲むシーンはあったが会話もなく、知り合いなのかも定かではない。
メインの三人のプロフィール描写が希薄なため、どうにも感情移入しづらく、加夜子がただ妊娠や堕胎といった言葉だけで二人の男を翻弄するファム・ファタールにみえてしまう。
祖父と祖母の代の恋愛
本作には途中から、亡霊のように佇む国民服姿の青年(小水たいが)が登場する。やがてもんぺ服の女(大島葉子)も現れ、恋が成就できなかった男は、ただ女を待っていたら赤紙がきてしまったのだと分かる。
神社の境内で拓未が子供に「ただ待ってるだけで、ええのん?」と言われるが、これは祖父母の時代に果たされなかった思慕の引き継ぎなのだ。
◇
なるほど、拓未は実家で母(樹木希林)に、祖父に似てきたと言われ、一方の加夜子も母(山口美也子)に、祖母に似てきたを言われる。添い遂げられなかった男女は、孫の代に姿をかえ逢瀬を重ねようとしているのか。
拓未の祖父が戦時中に、古代の都の発掘の面白さを語り興味を持った少年・よっちゃん(田中茜乃介)が、今は68歳の考古学者(麿赤兒)になっており、亡霊となった拓未の祖父と語らうシーンは感慨深い。
このあたりの時空を超えた展開は、映画だけでも理解はできた。
逢はなくもあやし
だが、分かりやすさはこの際、二の次だ。私をがっかりさせたのは、この祖父母同士の悲恋、そして古代へのロマンの描き方だ。正直いって、まったく心に訴えてこない。
遺跡の上で工場のように回転するベルトコンベアと吐き出される土の塊を写し出すだけでは、古代の世界に思いを馳せにくい。
◇
鑑賞にあたり、坂東眞砂子の『逢はなくもあやし』を先に読んでいたのだが、同作は、この祖父母の世代の戦時中ゆえの果たせぬ想いや、女性天皇だった持統天皇が愛する夫の意を継いで完成させた藤原京のエピソードなどが、丁寧に描かれていた。
作品として深みもあったし、歴史を巡って奈良に訪れたいという気持ちにもなった。使われる万葉集の歌の意味と、それが作品のなかでどういう役割を担っているのかも、きちんと読者に伝わってきた。
本作はあくまで原作の映画化ではなく、原案として一部のプロットを使っているだけだと思う。小説では映画と異なり主人公はもっと現代的な女性だし、原作通りに撮れば、奈良の集落ロケだけでは収まらずロケ地を都会に広げる必要もあるだろう。
そもそも愛する人を<逢はなくもあやし>と思う原作通りの女性主人公では、今時の恋愛映画の風合いが強すぎて監督は敬遠したのかもしれない。
◇
本音をいえば、『逢はなくもあやし』をしっかり映画化してくれたら、良かったのにと思う。
本作で哲也を演じた明川哲也(叫ぶ詩人の会のドリアン助川)の原作を映画化した『あん』でも、辻村深月の原作の『朝が来る』でも、原作をしっかりと完成度の高い作品に仕上げている河瀨直美監督だけに、『朱花の月』ではなく、『逢はなくもあやし』の映画が観てみたかった。
終盤で湧き上がるモヤモヤ感
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
本作の終盤はまた、解釈が難しい。加夜子が妊娠したといっても、隠遁して木工に精を出すだけでけして能動的に加夜子に会いに来るでも、哲也と話をつけるでもない拓未。
祖父の代と同じように、待っているだけの男に対して、感情をむき出しにする加夜子。そして家に帰れば、何も言わない彼女に、混乱する哲也。いつの間にか、血だらけの風呂につかって、その哲也が死んでいる。
これは、自殺なのか。それにしては、発見してもまったく驚かない加夜子が怖い。子供は堕胎したのか、誰の子なのか、そもそも本当に妊娠しているのか。いろいろな解釈も可能だが、そうする気も起こらない監督の自由気ままな演出。
◇
加夜子が哲也と徒歩で買い物に出かけた町からなぜか自転車で帰ってきたり、拓未に会いに行く途中で足を入れる川に入る前から、ロングスカートの裾が水にぬれて色が変わっていたり(この直後に乾いている)。
通常、私は細かいことは気にせずに鑑賞できる性分だが、珍しく気が付くほどずさんな編集か、或いは些細なことに気づかせないだけの牽引力が映画には不足していたのだと思う。