『愛がなんだ』
今泉力哉と角田光代のタッグで、正解のない恋の世界へ誘う。ストーカーっぽい岸井ゆきのがハマリ役。愛とか恋とかを余裕で超越している話は、恋愛ものといえるのか。
公開:2019 年 時間:123分
製作国:日本
スタッフ 監督: 今泉力哉 原作: 角田光代 『愛がなんだ』 キャスト 山田テルコ: 岸井ゆきの 田中マモル: 成田凌 坂本葉子: 深川麻衣 仲原青: 若葉竜也 塚越すみれ: 江口のりこ カンバヤシ: 中島歩
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
あらすじ
28歳OLの山田テルコ(岸井ゆきの)は、猫背でひょろひょろのマモちゃん(成田凌)に出会い、一目ぼれしてから、マモル中心の生活となった。
仕事中・真夜中と、どんな状況でもマモルが最優先。仕事を失いかけても、友だちから冷ややかな目で見られても、とにかくマモル一筋の毎日を送っていた。
しかし、そんなテルコの熱い思いとは裏腹に、マモルは彼女にまったく恋愛感情がなく、単なる都合のいい女でしかなかった。
テルコがマモルの部屋に泊まったことをきっかけに、二人は急接近したかに思えたが、ある日を境にマモルからの連絡が突然途絶えてしまう。
レビュー(まずはネタバレなし)
好きと言えないすべての人へ
思えば、この作品がマイ・ファースト今泉力哉だった。ここから、ほんの半年くらいの間に、むさぼるように彼の監督作品を観た。
今回改めて観直してみると、本作はそれまでの作品群とはやや系統の異なる作品だということが分かる。主人公が人を想う気持ちの熱量が、これまでよりも断然高い。
そのくせ、これまで監督があれほどこだわり続けてきた、「告白する」勇気とか、「告白しない」美学みたいなものを捨て去り、また、これまでのような洒脱な会話も気の利いたセリフも抑えて、ひたすらオレサマ男に尽くしまくる女性主人公を描いている。
テルコの熱いキャラがけん引する
この主人公テルコのキャラクターが地味に強烈なので、彼女には全く共感できないが、映画はすこぶる面白い。
いつ来るかわからないマモちゃんの電話をひたすら待つ。自宅で夕食も入浴も終わっていても、電話が来れば「私もまだ残業中だよ。今から?しょうがないなあ」とか言いながら、誘われるがままに出ていく。
風邪気味の男の部屋に行けば、味噌煮込みうどんで体調を悪化させ、部屋中掃除して煙たがられ、気を使い過ぎてかえって敬遠されるタイプの女。だから、マモちゃんからは、ただの都合のいい女としか思われていない。
◇
物語は、この二人ともう一組の男女、テルコの親友・葉子(深川麻衣)とそれを慕い家来のように扱われる男子・仲原クン(若葉竜也)、そして、後半から登場する破壊力満点女のすみれ(江口のりこ)の五名を中心に構成されている。
とにかく配役が冴えている
いつもは敬遠気味なぞっこんLOVEの女子とずるい男の話だが、岸井ゆきのと成田凌の配役が絶妙で嫌悪感なく見入ってしまう。
主人公テルコを演じた岸井ゆきのは、まるで原作の角田光代がアテ書きしたのではないかと疑うほどに、キャラクターに溶けこんでいる。
この映画のパワーと説得力は、ひとえに彼女の存在によるものだ。あのいたずらっ子のような笑みがちょと不気味だし、適度な匙加減のエキセントリックさも良い。
◇
勝手気ままにテルコを振り回しながら、自分も他の好きな女に尽くしているカッコよいけど頼りない感じのマモちゃんは、どんな役でも器用にこなす成田凌にしては楽勝でいけそうな得意分野の役だろう。
黙っていればカッコいいくせに、ちゃんとダメ男に見えるところがさすがプロ。
テルコの親友・葉子の深川麻衣は、『パンとバスと2度目のハツコイ』に続くメインキャスト。今回は全然違うキャラの役だったので、はじめは気づかなかった。
パンバスの出演者たちは、みんなその後の今泉作品に登場している気がする。
◇
葉子を慕うヘタレ男子の仲原クンを演じた若葉竜也を、本作で私は一番買っている。チビ玉三兄弟の俳優らしいが、彼の演技には心を打たれた。
夜のコンビニ前の駐車場で、彼がテルコと愛について意見をぶつけ合うシーンがいい。
◇
そして、常時喫煙のガサツ女すみれの江口のりこ。当然『半沢直樹』でのブレイク前だが、こういう役も実にうまい。
気遣い女子のテルコとは、たしかに真逆の傍若無人ぶりである。まあ、なぜマモちゃんが彼女に夢中になるのかは、イマイチ理解できなかったけど。
レビュー(ここからネタバレ)
湖畔の別荘から夜のコンビニへ
ひょんなことから、すみれ・マモちゃん・テルコ・仲原クンの四人で河口湖の別荘に行くことになる。
何でもズケズケと言い放つすみれは、その場にいない、見ず知らずの葉子を、仲原を振り回す最低の女だとディスる(本当は横にいるマモちゃんも同様に最低の男なのだが、そのことをすみれは知らない)。
「葉子さんは最低じゃないんで」
とソフトに反論する仲原クンだったが、後日、その口論がきっかけで、葉子から離れようと決意する。自分がつきまとうから、葉子さんが悪く言われていると気づいたのだ。そんな仲原クンをテルコが責める。
「手に入らないから、もう諦めましたって正直に言えばいいじゃない!」
でも、本当に好きなのに、誰でもいい存在でいることに仲原クンはもう限界だったのだ。
「あきらめることくらい、自分で決めさせてくださいよぉ」
そして、夜のコンビニ前で、テルコと仲原クンは訣別する。
愛がなんだってんだ
テルコと仲原クンは、ともに愛するひとにつきまとうストーカー同盟のようにみえて、求めているものがだいぶ違う。
仲原クンは、葉子に冷遇されていて、傍からは同情されているが、<葉子さんが夜にふと寂しくなったときに、頭に浮かんで呼び出してくれる存在>であればよいと思っている。両想いなど、期待もしていないのだ。
だが、葉子のような人には、寂しいときなどないのだと気づく。愛って何だろうと、仲原クンは悩む。
テルコは、愛だの恋だのといったキレイごとは、とっくに超越してしまっている。
「愛がなんだってんだよ!」
彼女はマモちゃんに夢中だが、それは<マモちゃんになりたい>という意味なのである。それが無理なら、彼の家族でもいい。恋人でなくたっていいのだ、近くにいられれば。
たとえマモちゃんがすみれに夢中で自分は相手にされなくても、そばにいることが大事。
「そこまでして一緒にいたいの?」と小学生時代の自分の幻影に聞かれても、平然としている。
◇
宮大工⇒ 野球選手⇒ 象の飼育係、と思い付きでコロコロ変わるマモちゃんの将来の夢につきあい、最後には動物園で象の飼育係になってしまうテルコ。まだ、マモちゃんになる夢を捨てていないのだ。
原作を読んで感じたこと
原作は角田光代。今泉監督にとって『鬼灯さん家のアネキ』以来二度目の原作ものだが、メキメキと腕を上げた。同時期の監督の原作もの『アイネクライネナハトムジーク』と比べても、本作のアレンジが優っている。
◇
初見で本作を観たあとに原作を読んだせいだろう。テルコのセリフの一つ一つが、岸井ゆきのの声で届いてくるし、マモちゃんの猫背姿も、すみれのべらんめえ調の物言いも、成田凌や江口のり子でしか考えられない。
原作だけ読んだとしたら、これだけの深い読後感が得られたか。映画によって原作の味わいが深まった好例と思う。
◇
原作に忠実でありながら、映画ならではの味付けも多い。
例えば、湖畔の別荘への旅行に仲原クンを参加させたり、彼の個展を葉子に観に行かせたり、テルコにゾウの飼育係をさせてみたり。例のコンビニ前の名シーンだって、原作では淡泊なのだ。
テルコのキャラは原作でも十分読み取れるが、マモちゃんのずるさ、葉子の屈折した優しさ、仲原クンの葛藤、そういった周辺の人物描写は映画のほうが分かりやすい。読解力のなさによるものかもしれないが。
そしてラスト、幸せになりたいっすね
去っていく仲原クンを不憫に思ったテルコは、後日、葉子に冷徹さを非難する。それが効いたか、別れた仲原クンの写真個展に葉子が赴く。
二人には新たな展開があるのかもしれない。「幸せになりたいっすねえ」の仲原クン、陰ながら応援したい。
◇
一方、その葉子は、テルコの思いを無視してすみれと三人で遊ぶマモルに抗議し、結果彼はテルコに別れを告げに来る。
「別に付き合ってないけど、もう会うのやめよっか」
なんとも悲しい関係だ。
◇
結局強がって本心をみせないテルコ。両想いではなくマモちゃん本人になりたいという気持ちは、LGBTなどとはまた違う、独自の感性なのだろうか。ここの理解は、難しい。
今泉監督は、ラストの象の飼育係は、ウディ・アレンの『ブル―ジャスミン』に影響されたという。ケイト・ブランシェットが公園でぶつぶつ呟くのと同じなのか。それなら、無理に理解しようとしないのが正解なのかもしれない。
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以上、お読みいただきありがとうございました。原作未読な方は、映画のあとに、ぜひこちらも。