『時をかける少女』
公開:1983 年 時間:104分
製作国:日本
スタッフ 監督: 大林宣彦 脚本: 剣持亘 原作: 筒井康隆 『時をかける少女』 キャスト 芳山和子: 原田知世 深町一夫: 高柳良一 堀川吾朗: 尾美としのり 神谷真理子: 津田ゆかり 福島利男: 岸部一徳 立花尚子: 根岸季衣 芳山紀子: 入江若葉
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
あらすじ
高校生の芳山和子(原田知世)は、学校の実験室で白い煙とともに立ちのぼったラベンダーの香りをかいだ瞬間、意識を失い倒れてしまう。
それ以来、時間を移動してしまうような不思議な現象に悩まされるようになった和子は、同級生の深町一夫(高柳良一)に相談するが……。
今更レビュー(ネタバレあり)
尾道三部作が作られていく
大林宣彦監督の代表作のひとつであり、尾道三部作としては二作目にあたる。概ね台詞を諳んじているほど観ている作品だが、久しぶりに観直してみた。
思い入れが強いので、評点はオススメとしたものの、うかつに人に薦められる作品でもない。当時観た者同士で盛り上がるにはふさわしいのだが、今の時代に初めて観る人には、独特の棒読み台詞から生まれる大正浪漫のような雰囲気に抵抗があるかもしれない。
◇
この作品は、なぜ当時、私も含めて多くの若者たちを魅了してきたのだろう。映画の評価を客観的かつ公正に行えるような詳細な基準がもしあったとすれば(それはそれで興ざめだが)、本作の評価はけして高くないように思う。けれど、何か心に引っかかるものがあり、いつまでも忘れられない作品になっているのだ。
◇
筒井康隆の同名原作はNHKで『タイムトラベラー』としてドラマ化され、本作で映画化もされた。未来人、タイムリープ、テレポーテーションと、素材としてはSF的要素を含むが、あくまで高校生の恋愛がメインに描かれている。
大林監督が音楽の松任谷正隆にイメージの参考として示した、クリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』と同じく、SF映画ではなく恋愛映画を目指したのだ。
原田知世第一回主演作品
その恋愛の相手は、本作を第1回主演と銘打つ原田知世と、その相手役である高柳良一の二人。原田知世は初主演でめいっぱいだろうから、まだまだ演技は固い。
高柳良一はすでに『ねらわれた学園』を経験したのに、なぜにこれほどと驚嘆するような棒読みだ。監督は、わざと棒読みするよう指導したと後に語っているが、これは意味不明だ。みんな、原田知世しか見ていないから、手抜きでよいということか。
ついでにいうと、原田知世の体操着姿に気を取られてなかなか気が付かないが、体育館の高柳良一の元祖壁ドン風なポーズは、めちゃくちゃ不自然でツボである。
◇
ともあれ、映画が曲がりなりにも作品として成立しているのは、幼馴染の堀川吾朗を演じた尾美としのりの演技力の賜物である。
主演の男女の演技力によらず本作が支持されるのは、何だか高校の学園祭で演劇部の芝居を観ているような気持になるからか。
私も今となっては出演者の父親気分だが、当時はちょっと気になるクラスメイトの出演舞台を、陰ながら応援して観ているような心持だったのかもしれない。
オヤジたちからの解放
さて、今や父親気分と書いたが、当時の大林宣彦監督や製作の角川春樹は、もう少し踏み込んでいる。真田広之に会いたくて相手役オーディションに長崎から応募した13歳の原田知世に惹かれた角川春樹は、特別賞を授けて角川事務所に彼女を引きこむ。
◇
本当は自分が結婚したいくらいだけど、年齢の差で無理だから、息子の嫁にしたいくらい。だが、なかなか芽が出ないから、本作を引退記念に、採算度外視で作ってあげたい。
なので、興行収益は併映の『探偵物語』に委ねて、本作は角川春樹のポケットマネーで作られたとか。それが、蓋を開けたら大ヒットするのである。
この辺の事情を、当時、多感な年ごろの原田知世はどう感じていたのだろう。時代的にも、結構大人のオヤジたちの圧が強そう。
◇
アイドル映画王道の薬師丸ひろ子『ねらわれた学園』に比べると、主演女優の素人っぽさ含めて諸々規格外の本作が、愛すべき作品になったのは大林監督の手腕であろうし、原田知世という女優を見出したのは、角川春樹の慧眼であろう。
だが、私には、当時の彼女には、求められるイメージを崩さないよう枠にはめられている息苦しさを感じた。彼女が角川映画から脱し、『私をスキーに連れてって』に主演したときには、そののびのびとした演技に喜んだものだ。
だが、大林監督が同様のことを感じたのは、女性監督の三島有紀子『しあわせのパン』に彼女が主演したときらしい。やはり監督の性別というのは、見えない影響を与えるものなのか。
深町君はゲス野郎じゃないですか
SF的要素が薄まったので、あまりタイムリープものとして熟考したことはなかったが、深町君が現代に来てこの1週間でどう動いて、どこで和子にみつかって、みたいなことは、あまり考証されていないように思う。
そこは恋愛映画だから捨象したとしても、深町君は結構ゲス野郎なのではないかと思う。彼は、ラベンダー目当てで未来から1週間くらい過去に出張してきただけで、周囲の記憶を都合よく書き換えて居座る実利主義者なのだ。
和子と相思相愛だったはずはない。結局、深町君にうまく丸め込まれて頬に煤を塗られた和子は、理科室で失神させられている。
◇
災難なのは、吾朗ちゃんだ。気の優しい憎めないヤツなのに、甘い思い出は深町君にかすめ取られて、結局大人になっても、和子には恋愛対象として認知されていない。
和子はラストに、長い廊下でゲスな深町君とすれ違って振り返り合うよりも、吾朗ちゃんの存在に気づいてほしかった。本作が尾道三部作である以上、尾美としのりが主演であるべきではないかと、言いたい。
エンドロールが与える効用
女優業に順応してしまう前の原田知世の青春の数か月をフィルムに収められたこと、もはや失われてしまった古里としての尾道の情景、全編にわたり見事に会話と一体化した松任谷正隆の劇伴音楽、スチール写真の多用や逆ズーム、カラーとモノクロの融合などの実験的取組。
本作は、欠くことのできない要素が奇跡的に組み合わさることで、生まれた作品だ。
◇
松任谷由実による同名の主題歌は、さすがに『守ってあげたい』に比べたらベタ過ぎではないかと思ったが、エンドロールで、映画の様々な名シーンのあとで出演者がみんなで歌う様子をみると、不思議なフィット感に感心する。
エンドロールでNGシーンを見せるのはジャッキー・チェンでもお馴染みだが、本編中ではなかなか笑顔を見せてくれない原田知世が、最後に親近感のある自然な表情を披露してくれるのは、とても和む。この演出で、若者たちの鑑賞後の幸福感は大きく上振れしたに違いない。
◇
筒井康隆が自ら「銭を稼ぐ少女」というだけあって、彼の原作をベースに角川春樹自身が監督作品を作ったり、細田守がアニメ化したり、テレビドラマも含めて多くの作品が生まれている。
見る人の世代によって、違うお気に入りが存在するのだろう。私にとって、ドラえもんは大山のぶよで、コナンは未来少年で、芳山和子は原田知世なのである。