『東京战争戦後秘話』
東京戦争といえば、1969年4月の沖縄デーにおける闘争のことらしい。大島渚監督の前衛志向が炸裂。学生運動に明るくない人でも、さほど難解ではないが、覚悟がないと入り込めない作品かと。
公開:1970 年 時間:94分
製作国:日本
スタッフ 監督: 大島渚 脚本: 原正孝 佐々木守 音楽: 武満徹 キャスト 元木象一: 後藤和夫 泰子: 岩崎恵美子 谷沢: 福岡杉夫 晶子: 大島ともよ
勝手に評点:
(私は薦めない)
コンテンツ
あらすじ
映画製作に没頭する元木象一は、自分の友人である「あいつ」がカメラを持ち出し、東京の風景を撮影しながら飛び降り自殺する、という幻想にとりつかれてしまう。
象一は自分の恋人である泰子を「あいつ」の恋人と思い込むようになり、泰子も「あいつ」の恋人として振る舞うことにした。
象一は「あいつ」の影を追って「あいつ」が撮影した東京をさまよい、やがて「あいつ」と同じ風景を撮影することにする。
今更レビュー(ネタバレあり)
学生映画だと思えばいいのだ
<映画で遺書を残して死んだ男の物語>というサブタイトルがつく。その名の通り、映画制作を通じて学生運動の記録を残している大学生の主人公が、そのフィルムを残してビルから飛び降りる話である。
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これは大島渚監督の中でも、前衛的な作品。そういえば聞こえはいいが、学生の自主映画のような人を選ぶ作品だ。出演者はグループポジポジという映像制作集団の学生たちで固められている。
学生の自主映画のようだと書いたが、大島渚監督や撮影監督の成島東一郎、共同脚本の佐々木守らを除けば、脚本の原正孝(原將人)も出演者もみな若く、本当に学生の手によるものと思って観た方が違和感がない。
東京战争とはなにか
タイトルに使われる<战争>の战(せん)の字は中国簡体字であり、東京战争とは1969年4月28日の沖縄デーにおける東京闘争を指すらしい。
この日は1952年のサンフランシスコ条約発効によって沖縄が日本から切り離された日であり、代々木公園で早期返還を求め革新系団体による集会が開かれていたそうだ。千駄ヶ谷駅前でこの様子を撮影しようとする、主人公たちの姿が本編にも登場する。
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この学生運動について予備知識がある人なら、映画のとらえ方もだいぶ異なるのだと思う。正直いって、私は沖縄デーが何たるものかもよく分かっていないし、映画の中で若者たちが終始口角泡をとばしてぶつけ合っている議論についても、チンプンカンプンだ。
小難しい単語を並べ、相手を言い負かして悦に入っているようだが、本当のことは当人にも理解できていないように見える。
学生運動は忘れてもいい
本作は幸いなことに、学生運動を理解できずとも何とかなるストーリーが存在する。
主人公の元木象一は、身近な友人が、自分から無理やり借りていった8mmカメラで何かを撮影しつつ、そのフィルムを遺書に残して平河町のビルの屋上から自殺してしまったのを目撃する。
警察官が検証する中、象一は遺体が掴んでいた自分のカメラを奪取しようとするが失敗し、カメラを押収したパトカーを走って追いかける。
◇
いかにも素人然の台詞回しは馴染みにくいが、この導入部分は謎めいていて悪くない。ただ、手持ちカメラで走りながら撮る揺れまくりの映像は、三半規管がおかしくなって吐きそうになった。
主人公がクルマを追いかけて大きな車道を走っていくのだが、白昼堂々あまりの車両の少なさに驚く。車両通行を制限したのか、1970年の交通事情はこんな感じなのか。日比谷地下道あたりも車道の真ん中を走っていて、今では考えられない光景に驚く。
◇
沖縄デーの闘争記録を仲間と撮影に行った象一は、8mmカメラを奪った私服刑事を追いかけて消えたはずで、仲間たちは、自殺にからむ彼の話を訝しんだ。
しかし、あいつが自殺したと思っている象一は、「あいつの恋人」であるはずの泰子を、ついには強姦同然に犯してしまうのだ。
あいつは幻影か、本物か
話は混乱を招くように構成されていくのだが、象一は泰子の間で何度も繰り返される問いかけは、自殺したはずのあいつは、幻想だったのか、本物だったのか。
挙句の果てには、あいつは幻想だったのだから、おまえはもうあいつの恋人ではない、俺の恋人になれ、的な展開になっていく。この辺が論理的なのか、直情的なのか、よく分からないが、二人はだんだん深い仲になる。
◇
あいつが残したフィルムには、町の風景のようなシーンがいくつかあるばかりで、遺書といっても意味不明だ。
幻想を断ち切ろうと、象一は泰子とともに、あいつの撮ったロケ地を探し回る。そして、最後にたどりついた家こそ、象一の実家であった。これはどういうことなのか。
◇
象一は、あいつが撮ったのと同じ場所でカメラを回し、遺書と同じような映像を撮ろうとする。
あいつと同じ風景を撮れば、あいつの幻は消えてしまい、俺が残る。だが、泰子は反論する。同じ映像を撮れば、あの人がよみがえってあなたに取って代わるのだと。
バイオレンスに満ちた町・東京
うーん。正直いって幻がどうなろうと、あまり関心が湧かない。というか、かなり初期の段階でオチが見えてしまっているし。
ただ、遺書代わりに撮った映像の中の町の風景は興味深い。何の変哲もない風景なのだが、1970年の町の様子はそれだけで懐かしく面白いのだ。大島渚監督の『少年』の時と同じような感覚になっている。
ありふれた街の商店街や、立体交差の交差点脇の赤い郵便ポスト。線路脇の煙草屋のおばあちゃん。これはどの辺がロケ地なのだろう。
裸になった泰子の身体の上に、あいつの撮った遺書という名の映像が投影されるのが芸術的だ。たしか、ボンドガールの裸体に映像を映すタイトルバックがあったと思うが、どの『007』作品だったか。本作の方が早いのか。
◇
さて、あいつの作品をこえる映画を作ろうとする象一を、泰子がいちいち邪魔するのだが、その様子がまた過激だ。
ポストの前に仁王立ちする泰子は、郵便物収集の局員と口論になり、通りがかりの警察官ともみあいになる。また煙草屋の前では長電話のフリで公衆電話を占拠し、順番を待つ男性が怒って平手打ちを食らわす。
最後には、国道で衝突事故を引き起こしそうになった泰子が、白昼の往来で強引に男どものクルマに乗せられて、襲われる。うーん、この時代の東京には、かくもバイオレンスが満ちていたのか。
おれがあいつで、あいつがおれで
結局、泰子は、あいつが自殺したのと同じビルの屋上にまで追いつめられ、自分の自殺体まで見てしまうが、どうにか引きこまれずに済む。
だが、その後、あいつに誘われるようにしてビルの屋上に現れた象一は、泰子とは異なり、そのまま身を投げる。まさに、冒頭で象一が見たあいつの自殺に、自分が追い付いたのだ。
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あいつとは象一自身のことだったのか。自殺からカメラを追いかけてここまで動き回っていたのは、象一の魂だったのか。どうりで、屋上から落としたカメラが壊れないはずだ。
多くは語られないが、地面に叩きつけられた象一の死体から8mmカメラを奪っていく、第三の象一が現れて映画は終わる。無限ループの始まりなのかもしれない。
楽しみ方はひとそれぞれ
前衛的ゆえ、ストーリーについてもいろいろな解釈ができるようにも思うが、正直芝居が青臭すぎて、あまり鑑賞に身が入らなかった。主演の二人の肌荒れが気になってしまったのも、作品に没入できていない証しだろう。
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どちらかというと関心は、東京の風景を満喫する方に向いていた。例えばラストの赤坂見附の俯瞰ショット。鹿島建設本社ビルや赤坂東急ホテルの軍艦パジャマな建物はもう既にあったのか、とか、マツダ自動車(東洋工業)の看板の小文字の ’m’ のロゴが懐かしいな、とか。第一銀行の支店が見えるのも、時代を感じる。
それから、拉致された泰子を乗せたクルマが走る高速道路の風景を、彼女目線で上下逆さまにとらえた映像が、それだけで妙に未来的でスタイリッシュに見えてしまうのは驚きだった。
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万人受けはしない映画と思うが、前衛的なのだから、それは大島渚監督も承知のうえの作品なのだろう。ちなみに、私の楽しみ方だって、けして一般的ではないことは自覚している。