『ノック 終末の訪問者』
Knock at the Cabin
M・ナイト・シャマラン監督作品。家族か人類か、その選択は難しい。
公開:2023 年 時間:100分
製作国:アメリカ
スタッフ
監督・脚本: M・ナイト・シャマラン
原作: ポール・G・トレンブレイ
『終末の訪問者』
キャスト
<山小屋に住む家族>
アンドリュー: ジョナサン・グロフ
エリック: ベン・オルドリッジ
ウェン: クリステン・クイ
<訪問する四人組>
レナード: デイヴ・バウティスタ
エイドリアン: ニキ・アムカ=バード
サブリナ: アビー・クイン
レドモンド: ルパート・グリント
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
ポイント
- ネタバレせずには語りにくいが、シャマラン監督にしては気の抜けたサイダーのような作品にしか思えなかった。でも世間には微炭酸が好きなひともいるから、一刀両断してもいけないし。
あらすじ
三人の家族が山小屋で穏やかな休日を過ごしていると、突如として武装した見知らぬ謎の男女が訪れ、家族は訳も分からぬまま囚われの身となってしまう。彼らは家族に、世界を救うために、家族から犠牲になる一人を選べと言う。
レビュー(まずはネタバレなし)
大きい背中のバウティスタ
M・ナイト・シャマラン監督の新作。前作『オールド』(2021)でもそうだったが、最近のシャマラン監督はせまい世界で起こる不可解な超常現象めいたものをテーマに、彼らしいアプローチと世界観で仕上げる作品が多い。本作もその例に漏れない。
◇
彼の作品はネタバレしては意味がないので、慎重に語ろうと思う。
出演者のなかで、ただひとり目立っている刺青だらけの大男がデイヴ・バウティスタ。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の心優しき青き巨人ドラックスがあまりに有名。
だが、彼は元はプロレスラー。体躯を活かして『007 スペクター』や『ナイブズ・アウト: グラス・オニオン』などで、風変りな大男キャラを演じることが多い。
彼の身体能力と強さをきちんと映像化しているのは『イップ・マン外伝 マスターZ』で、俳優としては『ブレードランナー 2049』が秀逸だったと思う。
◇
前置きが長くなったが、M・ナイト・シャマラン監督はこの『ブレードランナー 2049』でのデイヴ・バウティスタをを観て、出演をオファーしたらしい。だから本作でも、肉体的な屈強さを売りにしていないところは好感が持てる。
私にはパパが二人いるの
さて、そのデイヴ・バウティスタが演じるレナードが、山間の別荘地でバッタ取りに興じている韓国系の少女ウェン(クリステン・クイ)と出会うところから物語は始まる。
二人で仲良くバッタを捕まえては捕虫ビンに入れる。七匹のバッタの生殺与奪を握るのはこの二人だが、彼らもまた、何者かによってビンの中に入れられているという暗喩なのだろう。
レナードは温和だが、ウェンの家族に大事な話をしに来たという。やがて古めかしい武器を携えた男女が現れ、ウェンの家に押しかける。
ウェンはレナードに「私にはパパが二人いるの」と語っていたが、彼女はゲイのパートナーであるアンドリュー(ジョナサン・グロフ)とエリック(ベン・オルドリッジ)の養女なのだった。
山荘を訪ねてきた連中は礼儀正しい訪問者とはいえ、素性の分からない武装集団。アンドリューとエリックは当然入室を拒むが、彼らは強引に入り込んでは、二人を拘束する。
まるでジョーダン・ピール監督の『アス』(2019)みたいな恐怖だ。あれは逆光だったから怖かったのだけれど。
犠牲になる者を選べ
「私たちは終末を防ぎに来た。君たちの選択にかかっている」
それはどういうことか。
「家族三人の中で、犠牲になる一人を自分たちで選べ。その者が死ねば、世界の終末を止めることができる」
もし拒絶したら。
「誰も選ばなければ、三人は無事だが、残りの全人類は死滅する」
はい、ここまでは公式サイトでも堂々と書いているので、許容扱いなのだろう。
なんとも荒唐無稽というか、こいつらイカれてるぞという反応も無理もない、無茶な理屈で攻めてくるレナードたち。
レナードの仲間たちは、自己紹介を始める。
レナード(デイヴ・バウティスタ)は小学校教師、金髪男のレドモンド(『ハリポタ』のルパート・グリント)はガス会社の技術者、アフリカ系女性のサブリナ(アビー・クイン)は看護師、そして白人女性のエイドリアン(ニキ・アムカ=バード)はメキシカンダイナーのコック。
みんな、同じビジョンが頭に閃き、同じ掲示板で知り合ってここに来た。彼らに人類を救済してもらうために。
そして、「人類の一部は、今裁かれた」という宣言とともに、一人ずつ殺され、そして人類滅亡に近づいていく証拠が明らかになっていく。
ネタバレせずに語れることには限界がある。観たあとに鬱積した思いをガス抜きしたい方は、ぜひこの先もお付き合いいただきたい。少しくらいは共感できる部分があるとよいのですが。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
どんでん返しと本人出演
M・ナイト・シャマラン監督といえば、良くも悪くも、どんでん返しと本人出演というのがお約束になっている。
後者の本人出演については、どうでもいいと思っている。ご自分の映画なのだから、出たければどうぞ好きに出演すればよい。先達であるヒッチコック監督の洒脱な登場シーンに比べれば、話題にするほどのことでもないし。
前者のどんでん返しについては、同情の余地がある。確かにどんでん返しを好む監督ではあるが、毎度やっていては、観る方の裏をかけないのも無理はない。
いまだに『シックスセンス』(1999)の監督と紹介されるシャマラン。同作自体の出来が良いことも勿論あるが、当時はまだ監督の知名度が低かったため、どんでん返しが読まれずに奏功したことが大きい。
ビギナーズラックとは違うが、無名時代に一度だけ使える決め技が見事にハマったのである。
それに本作は、ポール・G・トレンブレイによる『終末の訪問者』という原作もあり、はなからどんでん返しに向く環境ではなかった。だから、どんでん返しがないことに関しては、私は擁護派の一人だ。
家族の設定はうまい
では、それがなくても面白い作品かとなると、これは厳しい回答にならざるを得ない。
ウェンの一家をゲイの男性二人にしたことは、原作踏襲のようだが、うまい設定だと思った。
これが普通に父母娘の三人家族なら、誰が犠牲になるかを選ぶ局面になったら、まず父親ということになるだろう。国の東西を問わず、よほど個別事情がなければ、父親が家族のために率先して手を上げる。
◇
でも、本作では、養女を本当に実の娘のように愛しているか、ゲイのカップルはどちらが名乗りを上げるか、というのがいずれも読めない展開になり得るため、ドラマとしての面白味が増す。
ちなみに、犠牲とは自殺しただけでは認められないらしい。つまり、相手に殺してもらう必要があるのだ。これもまた、設定の妙といえる。
人類の一部が今、裁かれた
以下、完全にネタバレになるのでご留意いただきたい。訪問者の言っていることの真偽はどうなのか。その証左として、彼らは順番に一人ずつ殺されては、「人類の一部が今、裁かれた」と災害に見舞われる。
それはニュースでしか知り得ないのだが、地震による大津波であったり、謎の致死性ウィルスの感染拡大であったり、飛行機700機の一斉墜落であったり。
それぞれが一本ディザスター映画になるような大ネタを、さらっと報道番組を通じて見せるシャマランの手法は、製作費も抑えられるし、相応にそれっぽくも見える、生活の知恵。
だが、アンドリューとエリックは容易にそれを信じない。これは録画番組じゃないかとか、地震発生のあとなら津波の時間が予測できるはずだとか、レドモンドは以前にバーで殴りかかってきた酔客ではないかとか。
私は、彼らの推理から、これは徐々に訪問者たちの嘘が暴かれる話だと想像した。
荒唐無稽な嘘に観客も騙され、あとでそれが暴かれる話など映画の鉄板パターンだし、そうとは知らずに騙されて主人公が殺人を犯してしまうケースも多い。
それ自体、けしてつまらないものではない。というか、私はそういう展開を期待していた。
同調圧力に屈するな
「お前たち、本当はレドモンドの知り合いで、ヤツに頼まれて一緒に俺たちに復讐にきたんだろ?」
そういう流れでも良かったかもしれない。だが、何と訪問者たちの言っていたことは正しかったのだ。
訪問者は順番に殺されていき、最後の一人レナードが自決すると、いよいよ全人類に危機が迫る。これを回避するために、アンドリューとエリックはどちらが犠牲者になるか話し合い、そして残された者が、愛する人を撃つ。
◇
殺してしまったあとで、カーテンコールのように、訪問者がみな生き返ってきたらどんなにか良かったか。
だが本作は、一人の父親と娘が生き残る映画なのである。そこにサプライズはない。ゲイの主人公でも、映画はストレート。それもまた、シャマランが観客の裏をかいたどんでん返しというのは考え過ぎか。
原作は未読なのだが、本作の終わり方は原作と異なるようだ。映画では、ゲイのカップルは人類のために同調圧力で死を選ぶように見えた。
(追記:その後原作を読んだが、個人的には映画の方が、まだ理解できたように思う。シャマランだからなあ、という前提があるからだと思う)
「俺たち(同性愛者)を散々蔑んできた奴らのために、犠牲になることなんかない!」
その主張にこそ、私は共感できた。だから本作の優等生的な終わり方は、どこか息苦しい。