『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』
公開:2009 年 時間:155分
製作国:日本
スタッフ 監督: 堤幸彦 脚本: 長崎尚志 原作・脚本: 浦沢直樹 『20世紀少年』 キャスト ケンヂ/遠藤健児: 唐沢寿明 オッチョ/落合長治: 豊川悦司 ユキジ/瀬戸口雪路: 常盤貴子 カンナ/遠藤カンナ: 平愛梨 ヨシツネ/皆本剛: 香川照之 マルオ/丸尾道浩: 石塚英彦 カツマタ/勝俣忠信: 黒羽洸成 フクベエ/服部哲也:佐々木蔵之介 モンちゃん/子門真明: 宇梶剛士 ヤマネ/山根昭夫: 小日向文世 ドンキー/木戸三郎: 生瀬勝久 ケロヨン/福田啓太郎: 宮迫博之 コンチ/今野裕一: 山寺宏一 サダキヨ/佐田清志: ユースケ・サンタマリア ヤン坊・マー坊: 佐野史郎 キリコ/遠藤貴理子: 黒木瞳 漫画家・角田: 森山未來 漫画家・金子: 手塚とおる 漫画家・氏木: 田鍋謙一郎 万丈目胤舟: 石橋蓮司 神様: 中村嘉葎雄 ヤマさん/山崎: 光石研 田村マサオ/13番: 井浦新 敷島ミカ: 片瀬那奈 敷島鉄男: 北村総一朗 市原節子: 竹内都子 蝶野将平: 藤木直人 春波夫: 古田新太 高須: 小池栄子 小泉響子: 木南晴夏 仁谷神父: 六平直政 中国マフィア・王: 陳昭榮 タイマフィア・チャイポン: Samat Sangsangium <本作限りの出演> ビリー: 高橋幸宏 磯乃サナエ: 福田麻由子 磯乃カツオ: 広田亮平 厳道館師範代・大垣: 武蔵 カンナ一派副官: 谷口賢志 エロイムエッサイムズ(G):武内享 カツマタ/勝俣忠信: 神木隆之介
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
あらすじ
「世界大統領」として君臨する“ともだち”に支配された西暦2019年。殺人ウイルスが蔓延した東京は巨大な壁によって分断され、市民の生活は制限されていた。
そんな中、“ともだち”が「世界の終わり」を予言。地下に潜りレジスタンス活動を続けていたカンナは市民に武装蜂起を呼びかけるが、そこへ矢吹丈と名乗る謎の男が現れる。
一気通貫レビュー(ネタバレあり)
最後は思い切ったアレンジ
ついに最終章、ともだちは世界大統領になっている。時代設定は2019年だが、西暦はともだち暦に変わったのではなかったか。
そして、太陽の塔でおなじみEXPO70の大阪万博が「人類の進歩と調和」の象徴としてフィーチャーされ、このディストピアで永久開催されている。
現実社会では、2025年の大阪万博が開催されるかどうか、執筆時点では多額のコストと建設の遅れで騒がれているなか、こういう取り上げ方をされているのを観るのは感慨深い。
東京オリンピック開催とウイルス騒動を予期していたように描かれた、大友克洋の『AKIRA』を思い出す。「ばんぱくばんざい」か。
さて、三部作構成とはいえ、浦沢直樹の原作は大長編であり、2時間半でまとめあげるのには相当の苦労があったと想像する。
奇想天外な物語が始まる導入部分の第1章は盛り上げやすく、その後の時代と成長したカンナを中心に描いた第2章とともに、わりと原作に忠実に(第1章などは原作が絵コンテのよう)撮られている。
だが最終章は、大風呂敷を広げまくった過去作をすべて収束させなければいけない。これは難儀だ。
原作でも迷走している感じが拭えない。映画をこれまで同様に原作に忠実な構成にしたら、きっとおそろしく難解で盛りあがらないものになってしまっただろう。
だが、最終章は、相当に原作とは構成を変えてきているし、切り捨て可能と見たエピソードは、大胆にカットしている。
これは単に尺を短くしたいという理由だけではなく、物語を寄り道せずにストレートに進行させることで、コアなファン以外にも伝わる映画にしている。
淡泊な感は否めず
詰め込む内容が多い最終章は、おのずと内容が駆け足かつ説明的になり、良いシーンの演出がどれも淡泊になってしまった感は否めない。
- カンナ(平愛梨)が<氷の女王>となり地下組織を統率するまでの流れ
- 春波夫(古田新太)が焼鳥屋のビリー(高橋幸宏に涙!)に会いに行きバンドを再結成
- みんなが絶望しかけた瞬間にトランジスタラジオからケンヂの歌が流れた瞬間
- ワクチンを自身の身体で実験し「24時間以内に何もなければ、人類の勝ち」と呟くキリコ(黒木瞳)
- 北海道で孤独にケンヂの曲を流し続けるDJの正体が転校したコンチ(山寺宏一)
- オッチョの因縁の敵・13号(井浦新)が真実に目覚めて身を挺して円盤を撃墜
- そしてカンナにワクチンを射たせるために自分たちが犠牲になり死んで行く中国・タイのマフィアたち
どの場面も原作にはあった深みが映画には乏しい。それは残念なことではあるが、本作は物語を分かり易く伝えることに重きを置いたのだろう。そういう判断もアリだと思う。
原作で成功していたマンガならではの表現も、ともだちの嘘くささや加工した音声の違和感、そして円盤やロボットの作り物感など、映画では残念なものは相変わらず多い。
音楽フェスは良かった
だが一方で、ともだちのバーチャルな世界の中でのケンヂたちの駄菓子屋やボウリング場はじめ昭和の町並みの再現は良かった。
また、原作ではなしえなかった、ケンヂのカレーライスの歌「Bob Lennon」の「グ~タラ~ラ~ス~ダララ~」が、曲として聴けるのは感動といえる。
コミックで読んで自分の頭のなかに描いたメロディとは当然イメージが若干違うのだが、まあそれはよい。
終盤、音楽フェス会場を埋め尽くす聴衆(この大量の人数はエキストラなのかCGなのか)を前に、長い物語のエンドロールにかぶせてケンヂがこの歌を演奏するのは、じーんとくる。
原作では彼はあえてステージでこの曲を歌わなかったはずだが、映画の締めには必要だった。
ついでにいうと、原作では春波夫もあえて演歌を歌わず、フェスにはロックバンドのドラマーとして参加するのだったが、映画では歌い放題、しかもなかなかケンヂが登場しないのでブーイングを浴びる流れになっていた。
ともだちの正体と原作との差異
最後にネタバレになるが、ともだちの正体について一言。
原作の読者には、ともだちの正体はフクベエ(佐々木蔵之介)だが、途中で死んでしまった後、何者かがともだちになりすまし、それが、子供の頃に死んだはずの理科の実験大好きカツマタ君だという予備知識がある。
そのつもりで映画を観ていると、終盤でとんでもない話になってくる。映画では、フクベエは子供の頃に死んでいるのだ。
人の記憶など曖昧なもので、当時、駄菓子屋での万引きの冤罪で「死んだもの」とされていたカツマタ君が、小学校卒業後も、死んだのはフクベエではなくカツマタ君と認知されてしまっていたというわけだ。
だから、ともだちの正体は、初めからカツマタ君だったのである。
この大きな設定変更には功罪がある。
原作では、ハットリくんのお面が服部であることをはじめ、フクベエがともだちであることの伏線が丁寧に仕掛けられていた。はじめから死んでいたのでは、内容的に深みも失われ、破綻もあるように思う。
中学時代のカツマタ君を神木隆之介にしたのはうまい配役だが、小学生で死んだフクベエを佐々木蔵之介が演じているのはなぜ。カツマタは整形したのではなく、元の顔がそうだったのか。
一方、いい点というのは、カツマタ君の犯行動機に説得力が得られること。
原作のラストに彼が登場したとき、カツマタ君には、フナの解剖実験好きで、死んでしまった程度の情報しかないレアキャラ。
回想シーンでもほぼ一瞬しか出ないコンチでさえ、終盤にDJの大役を与えられたことを考えると、カツマタ君の登場も不思議ではないが、真犯人となる根拠も弱く、唐突感が強かった。
映画でのカツマタ君は、原作のようにケンヂの万引きの濡れ衣を着せられたのみならず、いじめられてたフクベエの代わりに、死んだ人間として皆に記憶されるのだ。これなら、多少は犯罪動機も強まり、唐突感も薄らぐ。
エンドロール後のラストは、バーチャルワールドの中学校屋上で、大人のケンヂの指導のもとで、中学時代のケンヂとカツマタ君が、友だちになる。
ケンヂの曲に、カツマタ君が「グータララー」と詩をつけるのだ。現実は変わりようがないが、ケンヂにとってのけじめはついた。