『ヌードの夜』今更レビュー|盗んだゴルフで走り出す何でも代行屋のロマン

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『ヌードの夜』 

石井隆監督が竹中直人と余貴美子の主演で撮った、村木と名美の運命の物語。

公開:1993 年  時間:110分  
製作国:日本
 

スタッフ 
監督・脚本:     石井隆

キャスト
紅次郎(村木哲郎): 竹中直人
土屋名美:      余貴美子
行方耕三:      根津甚八
仙道達:       椎名桔平
正子:        清水よし子
志村:        岩松了
広瀬:        小林宏史
健三:        田口トモロヲ

勝手に評点:3.0
  (一見の価値はあり)

ポイント

  • 石井隆監督と竹中直人の再タッグで17年ぶりに続編が撮られたものの、やはり本作の昭和テイストが忘れらないという声は多い(平成作品だけど)。
  • 村木と名美により描かれ続ける悲しい愛のカタチ。バブルの残り香を感じさせる、石井隆ならではの劇画の世界に酔うべし。

あらすじ

なんでも代行屋の紅次郎(竹中直人)は名美(余貴美子)という美人の客に頼まれ、東京各地を案内する。

その夜、紅次郎は名美が泊まっているホテルから荷物を引き取るよう依頼されるが、そこに行くと何者かに刺し殺された行方(根津甚八)という男の遺体があった。

次郎は遺体を名美に返すが、ホストクラブの支配人である行方は名美の愛人で、名美は腐れ縁が続く行方を殺してしまったのだった。

行方が殺されたことを知った行方の弟分、仙道(椎名桔平)は名美への報復に動き出す。

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今更レビュー(ネタバレあり)

名美と村木の物語

2022年5月に逝去した石井隆監督の作品群において中核をなす、村木と名美のシリーズに属する作品。

石井隆はそもそも劇画漫画家が本業であったが、ヒットした『天使のはらわた』がロマンポルノで映画化されるなどの縁で、自ら脚本も手掛けるようになり、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)で監督としてもデビューを果たす。

土屋名美という女性キャラクターは当時から彼の物語の核であり、不運だけれど不幸ではないファム・ファタールとなっている。それに対をなすのが、村木哲郎という男の存在で、彼女と出会ったばかりに運命を狂わされてしまうのが定番だ。

複数作品において職業や設定は異なり、本作において村木は紅次郎(竹中直人)を名乗り、なんでも代行屋をやっている。そして名美(余貴美子)はその依頼人として、厄介な仕事を彼に押し付ける。

石井隆の夜は優しい

冒頭、営業時間外のホストクラブのシーンから石井隆ワールドが始まっている。

店のオーナーの行方耕三(根津甚八)はジャンキーのゴロツキだが、経営が苦しい。名美から毎月巻き上げるカネも、全てクスリ代に消えている。店に現れた名美を脱がせ、そばにいる舎弟の仙道(椎名桔平)などお構いなしに、事を済ませる。

『ヌードの夜』などというから、余程過激な描写なのかと思っていたが、想像以上にマイルドで、近年の石井隆監督作品に比べてもおとなしい。

勿論、余貴美子の濡れ場はあるものの、このタイトルにしない方が、女性客層などの動員がねらえたのではないか、などと余計なお世話を言いたくなる。

そして竹中直人紅次郎。冒頭、葬儀場で自分の写真を撮って何をやっているのかと思えば、なんでも代行屋として一仕事しているのだ。

バブルがはじけた廃ビルの中、アジア諸国から出稼ぎに来ていた若い女たちの残した二段ベッドが並ぶ部屋に住むこの男。愛車はオンボロのVWゴルフ(懐かしい旧型)。

通常なら私立探偵に設定するところを、なんでも代行屋にするセンスは新しい。本作以降、『まほろ駅前多田便利軒』をはじめ、多くの同業者が映画やドラマにも出始めた気がする。

夜の繁華街、スタイリッシュなタイトルロゴ(監督は縦文字が好きなのか)、そしてジャジーな” I’m a Fool to Want You”の調べ。ああ、カッコイイ、大人の世界。

石井隆監督が劇画作家だからなのか、カット割りの仕方や構図など、随所に(そのまま劇画で通用しそうな)絵コンテが頭に浮かぶ。計算されつくした感があるのだ。

石井隆版『サイコ』シャワーシーン

「なんでも代行屋さんって、東京案内とかもお願いできるんですか。トレンディなところとか」

街の看板をみて、紅次郎に依頼してくる名美。二人で出かけるのは、六本木を素通りして八景島シーパラダイス有楽町のガード下。これは時代を反映してるのか。

だが、彼女の本当の依頼はもっと厄介だ。その晩、もう別れてほしいとホテルに呼んだ行方(根津甚八)とは交渉決裂し、いつもの通り情事に耽ったあと、名美はついに男を刺殺する。

シャワーカーテン越しにナイフを向けて突っ込む様子は、ヒッチコック『サイコ』の男女逆バージョンのよう。

そして翌朝、故郷に急遽戻ったので荷物を送ってほしいとの電話で部屋に来た紅次郎は、彼女の置き土産の遺体をみつけ、ようやく嵌められたことに気づくのだ。

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キャスティングについて

本作は90年代初期の作品ということもあって、出演者がみんな今とは違う芸風(見た目ではなく演技)なのが新鮮でもあり、また見応えがある。

身体を張って名美を演じた余貴美子は、なるほど紅次郎が翻弄されるのも分かる妖艶さ。最近の彼女の演じる役しか知らない人には、ちょっと驚く役柄かもしれない。

ギャップという点では、紅次郎の竹中直人も、まだ彼の得意とする、真顔でふざけた演技が影を潜めており、個人的にはこっちの路線の方が好きだ。

本作で彼のおふざけの片鱗がみえるのは、ラストの甘い夜を過ごす際にみせる、三半規管が丈夫だとグルグル回ってみせるシーンくらい。あとは真っ当にハードボイルド探偵のような役を演じている。

行方役の根津甚八はすぐに死んでしまうが、石井隆ワールドにおいて彼は善人ではなく、本作のような悪い男を演じることが多い。

舎弟の仙道役を演じた椎名桔平は、若さが漲っている。当時なかなか芽の出なかった椎名桔平にとって、本作はまともな役が初めてもらえて、とても喜んだ思い出の作品だと語っているが、その熱気がビンビン伝わってくるようだ。『GONIN』(1995)ではキャラが奇抜すぎたが、彼の演技は本作の方が堪能できる。

その他意外なところでは、紅の幼馴染でゲイバーをやっている健三役の田口トモロヲ。彼の肉体も絞り込んでいて、今のソフトなイメージとは別人のようなシャープさ。

そして、行方に貸した金が返ってこないと困窮している男役に岩松了。彼も竹中直人同様、本作では一切おふざけなしなのが新鮮。

魔性の女にのめり込む

さて、死体をスーツケースに入れて運び歩き、どうにか名美をみつける紅次郎。地下鉄の車内で彼女に荷物を渡そうとする展開がシュール(しかもドライアイスで霜が降りている)。

一方、兄貴がいなくなったことで、彼女の自宅を探しあてる仙道。ついに、腐臭を放つ死体は仙道にみつかり、彼女は窮地に立たされる。

本作は、魔性の女である名美に惹かれ、振り回される男の物語だ。嵌められた女に死体を突っ返したものの、紅次郎は彼女を放っておけない。

一度は殴り殺されかけた仙道を相手に、苦労してトカレフを入手し、彼女を助けようと乗り込んでいく。

時節柄、バブルの残り香を感じさせる。紅次郎は本名を村木といい、かつては一流大を出て証券マンとして活躍したようだが、落ちぶれた今は、人の役に立とうと何でも代行屋を始めたという。

その経歴は、竹中直人が同じく村木を演じた、石井隆のデビュー作『天使のはらわた 赤い眩暈』の設定と符牒が合う。

一方の名美は、高校生の頃から行方に体と金を搾取され続けているが、バブルをひきずる成金っぽい婚約者の広瀬(小林宏史)と結婚するため、今回の犯行を思いついた。

だが、悲しいかな、名美は心のどこかで、危険な匂いのする行方という男に、惹かれ続けていた。広瀬にフラれた彼女は、紅次郎の愛車ゴルフに死体を積んだままハンドルを握り、一人で埠頭から海に飛び込んでいく。

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恋人の代行をたのむ浄土の夜

ここから先はネタバレになるが、ラストシーンを含め解釈が分かれるところだ。

海に飛び込んで、沈むクルマから名美を救い出した紅次郎。だが、彼女は救急車を呼ぶ間に姿を消し、後日、仙道が引き継いだホストクラブに顔を出し、もう紅次郎に報復しないよう懇願する。

ところが、そこに折り悪く借金を踏み倒された男(岩松了)が現れ、仙道を射殺し、行方と間違われた名美まで撃たれてしまう。

そして舞台は変わり、紅次郎の住む廃ビルに名美が現れ、「恋人の代行をして」キスを交わし、裸になって結ばれたのちに、血だらけの死体と化す。

射殺された名美がお世話になった紅次郎にほのかな愛情を感じ、成仏する前に幽霊となって一夜を共にした。<ヌードの夜>ならぬ<浄土の夜>だ。

そう思っていると、何やらエンドロールで海中からクルマが引き上げられ、その助手席ドアに引っ掛かった名美の服がアップになるではないか。

ラストシーンの解釈

このカットが何かを伝えたいとすれば、名美はクルマとともに沈んで死んでいたということになろう。

つまり、紅次郎は彼女を救出したつもりでいたが、それは彼の願望でしかなく、仙道の店にいったのも、もう紅次郎に手を出すなと釘を刺したのも、幽霊の名美だったという訳か。

ただ、その解釈には無理がある。幽霊の名美が、なぜ更に凶弾に倒れなければならなかったのか。そして、クルマの助手席側のドアは開閉していないのに、なぜ服が挟まっていたのか。

実は、これには正答がある。石井隆監督自身がインタビューで、名美はクルマが沈んだ時点で死んでいると証言しているのだ。もしそうなら、服を挟むドアをどちらにするか凡ミスだったのではないか。

観る人によって、いろいろな解釈の仕方もあるとも言ってはいるが、私はラストのカットは余計だったと思う。

もし意味を持たせたいなら、『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)のラストカットくらいに、鮮やかに決めてほしかった。