『空気人形』
是枝裕和監督には珍しいファンタジー作品。心を持ってしまったラブドールは、生きることに意味を見出せるか。
公開:2009 年 時間:116分
製作国:日本
スタッフ 監督: 是枝裕和 原作: 業田良家 『ゴーダ哲学堂 空気人形』 キャスト 空気人形・のぞみ: ペ・ドゥナ 人形の持ち主・秀雄: 板尾創路 レンタルビデオ店員・純一: 井浦新 レンタルビデオ店長・鮫洲: 岩松了 人形師・園田: オダギリジョー 元国語教師の老人・敬一: 高橋昌也 受付嬢・佳子: 余貴美子 過食症・美希: 星野真里 少女の父・真治: 丸山智己 少女・萌: 奈良木未羽 浪人生・透: 柄本佑 未亡人・千代子: 富司純子 派出所警官・轟: 寺島進
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
あらすじ
女性の「代用品」として作られた空気人形ののぞみ(ペ・ドゥナ)に、ある朝「心」が芽生え、持ち主の秀雄(板尾創路)が留守の間に街へ繰り出すようになる。
そんなある日、レンタルビデオ店で働く青年・純一(井浦新)に出会い、密かに想いを寄せるようになった彼女は、その店でアルバイトとして働くことになる。
今更レビュー(ネタバレあり)
是枝裕和とペ・ドゥナのケミストリー
ドキュメンタリー色の強い作風の是枝裕和監督にしては、相当の異色作だと思う。何せ、ラブドールが突然に心を持った人間になってしまうファンタジーなのだから。
だが、是枝作品としては亜流に属するであろうこの作品が、私は好きだ。まず、主人公の空気人形を演じたペ・ドゥナが素晴らしい。彼女あってこその映画だ。
人形のような均整のとれた肢体、きょとん顔のあどけない表情、そしてその清純そうな雰囲気とのギャップが悲しい、性欲代用品としての葛藤。
◇
『リンダ リンダ リンダ』(山下敦弘監督)で邦画に出演はしているものの、たどたどしい日本語はどうかと思ったが、むしろそのスローな話し方は、人形らしさを一層引き出していた。
『ブルーアワーにぶっ飛ばす』(箱田優子監督)や『新聞記者』(藤井道人監督)のシム・ウンギョンと同じように、この母国語ではない喋りを設定に活かすやり方だ。
ローテクだからこそ沁みる演出
冒頭、ゆりかもめに乗って家路に向かう秀雄(板尾創路)。コンビニで食料やシャンプーを物色するところから、独身タワマン暮らしを想像するが、帰りつくのは昭和の雰囲気を残す古い町並みの家。
「ただいま!」
家族がいるのかと思えば、食卓に向かいあって話をする相手はラブドールののぞみ。その後、同衾で夜の営みに入る。
文字にするとキモイ感じのする、この秀雄のマニアックな私生活を、板尾創路は人形への細やかな愛情表現によって、ギリギリ「そういうものかもな」と思えるシーンに変えている。
そして翌朝秀雄が出勤すると、人形は突然心を持って、動き出す。そこに何の説明もないが、無理な理屈もいらない。窓から手を伸ばし小雨を手のひらに受けると、ビニール人形は生身の人間に変貌している。
日本ならではの先進技術による特撮かと思ったら、思いっきりローテクだったと、ペ・ドゥナが語っていたと記憶するが、このシーンも、再びフレーム・インする手が生身に替わっているだけだ。
そもそも、本作にはおよそ特撮といえるシーンはなく、ローテクとも呼べないような小技で彼女を人形らしく見せているだけなのだが、どれも、それらしく見えるし、カネをかけた特撮よりも余程本作の世界に合っている。
『サンダーバード』や『きかんしゃトーマス』が、あの手作り感を失ったら、世界観が台無しになるのと同じだ。
◇
心を持ってしまったのぞみ。学校のチャイムが聞こえてくる夕暮れの町、湾岸のタワマン群と、焼け残ったような狭く猥雑な町の一角。エメラルドグリーンに統一されたような町々の灯りが、言いようのないほど美しい。
これは『恋恋風塵』(ホウ・シャオシェン監督)や『花様年華』(ウォン・カーウァイ監督)などを手掛けた、撮影監督リー・ピンビンの仕事だろうか。湾岸夕景を鮮やかに撮る作品は数多いが、本作ほど繊細な仕上がりを見せる作品を他に知らない。
心を持ってしまった喜びと悲しみ
さて、のぞみは偶然入ったレンタルビデオ店で店員の純一(井浦新)に出会い、その優しさに惹かれていく。彼女はその店でバイトを始め、次第に親密になっていく。
好きなひとのために、人間の女の子に少しでも近づきたくて、自分好みのヘアスタイルやファッションを採り入れ、首筋の線をファンデで消し、ついに純一と台場でデートする。ただ、食事を楽しむこともできないし、地面に映った自分の影は半透明で、並んで歩くこともままならない。
◇
でも、それよりも彼女にとってつらいことは、そんな恋愛の最中でも、家に帰れば性欲処理の代用品にならなければいけないことだ。これはキツイ。
ともすれば、恋愛ファンタジーのように錯覚してしまうが、心を持った彼女は厳しい宿命も背負っているのだ。是枝監督は、従軍慰安婦問題と同一視されないよう意識しながら本作を撮ったという。
だが、レンタルビデオ店長(岩松了)がのぞみに脅迫まがいに身体を求めたこと(しかも空気人形はそれを断れない)など、明らかに嫌悪感を抱くシーンがあったことは否めない。
息を吹き込む行為の官能
本作はBGMのように意識的に息遣いの音を入れているが、吐息というものが、こうも官能を呼び起こすのかと感動するのがビデオ店内での抱擁シーンである。
飾り付けの最中に切り傷を作ってしまったのぞみは、体内から空気が抜けていき、人形に戻っていってしまう。彼女の正体に気づく純一。
「見ないで」だらしない格好で床に崩れるのぞみのスカートをさりげなく直してあげた純一は、セロテープで傷を塞ぎ、「栓はどこ」と彼女のおへそから息を吹き込む。
息に合わせて身体が膨らんでいくのぞみ。それはビニール人形とペ・ドゥナを途中で差し替えたカットとは思えない、官能的なシーンだ。
◇
自分の体内が、愛する男の息で満たされているというのは、幸福な気分なのだろう。のぞみは、家の空気ポンプを捨て、風鈴に息を吹きかけるのも思いとどまる。純一の吐息が減ってしまうから。
だが、幸福もつかの間、のぞみは純一の彼女の写真をみつけ、傷つく。心をもつことは、せつないことだ。
そして家に戻れば、秀雄は新しいドールを買って浮かれている。心を持ったのぞみと対峙した秀雄は驚く。「ただの人形に戻ってくれへんか。こういうの面倒なんや」という彼にとって、心は邪魔ものだったのだ。
生んでくれてありがとう
苦しんだ末、彼女は秋葉原に自分の作り手の人形師(オダギリジョー)を訪ねてみる。「おかえり」と温かく迎えてくれる。『ロマンス・ドール』(タナダユキ監督)の人形師・高橋一生とはまた違う雰囲気。
是枝監督の作風はよく小津安二郎と比較される。小津ならぬ「オズの魔法使い」に出てくる、心が欲しいブリキ人形、或いは本作で近所に住む少女が好きなアリエルから「人魚姫」あたりも影響しているのかと思ったが、今度は「ピノキオ」だ。オダジョーのゼペット爺さんまで登場してきた。
ここから先は更にネタバレになる。
どんな人形にも心はあると教えられ、「生んでくれてありがとう」と納得したのぞみ。だが、その後に悲劇が待っていた。
君の空気を抜き、もう一度入れてみたいという純一の願いを受け入れたのぞみは、自分もお返しに彼の身体の空気を抜いてみたくなり、傷をつけてしまう。
のぞみの正体を知った純一は、以前に「僕も同じようなものだ」と彼女に語っていた。「心がなく、ただ生きているだけ」という意味だったのだろうが、彼も人形だと誤解した彼女は、結局純一を死なせてしまうのだ。何という悲恋。
自分も誰かのための風であろう
死を予感する元代用教員の老人(高橋昌也)、還らぬ母の帰りを待つ女の子(奈良木未羽)と父(丸山智己)、執拗に若さを求める受付嬢(余貴美子)、過食症から抜けられない女(星野真里)、『フィギュアなあなた』を地で行く浪人生(柄本佑)、自首したがる孤独な未亡人(富司純子)と町のお巡りさん(寺島進)。
この町の人々は、みんな、のぞみと同じように<空っぽ>な人生を送っている。
ビニール袋に入れてゴミ捨て場に置いた純一の死体の脇に、のぞみも横たわる。
そして彼女は夢の中で、この<空っぽ>な町の人々に囲まれレストランで誕生日を祝ってもらう。初めての経験に涙する。役者全員登場のパーティは『スープオペラ』(瀧本智行監督)のようだが、本作の方が泣ける。
のぞみが夢の中で蝋燭の火を吹き消すと、それは現実ではタンポポの綿毛になって舞っていく。ビニール人形が息を吹くのは、自らの生命を縮めることと同義だ。
◇
そして彼女の命は綿毛となって、<空っぽ>だった町の人々の人生に少しだけ彩りを与える。これは、劇中でもペ・ドゥナに朗読される吉野弘の詩「生命は」に繋がっている。
<生命は自分自身だけでは完結できない。花が咲くにも、虫や風が必要だ。自分も誰かのための虻や風でありたい>といった趣旨の内容だ(やや乱暴だが)。
最後は「マッチ売りの少女」になったような流れであるが、のぞみも最後は天国に召されたと思いたい。