『ディア・ドクター』
西川美和監督が笑福亭鶴瓶とタッグを組んだ、山間の村の住民たちに信頼される唯一の診療所の医師の物語。一筋縄ではいかないヒューマンドラマ。スジはある。
公開:2009 年 時間:127分
製作国:日本
スタッフ 監督: 西川美和 キャスト 伊野治: 笑福亭鶴瓶 相馬啓介: 永山瑛太 大竹朱美: 余貴美子 斎門正芳: 香川照之 鳥飼かづ子: 八千草薫 鳥飼りつ子: 井川遥 波多野巡査部長: 松重豊 岡安警部補: 岩松了 曽根村長: 笹野高史
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
山間部に位置する小さな村・神和田村にある村営診療所から村の唯一の医者・伊野治(笑福亭鶴瓶)が失踪する。
伊野と数年来コンビを組んできたベテラン看護師の大竹朱美(余貴美子)や、地域医療を現場で学ぶため2ヶ月前から神和田村診療所で働いていた研修医の相馬啓介(永山瑛太)は突然の伊野の失踪に困惑するばかり。
僻村で唯一の医師・伊野は、高血圧、心臓蘇生、痴呆老人の話し相手まで一手に引きうけ、大らかな人柄から村人に慕われていた。
だが、かづ子(八千草薫)という独り暮らしの未亡人から頼まれた嘘を突き通すことにしたことから、伊野自身が抱えていたある秘密が明らかになっていった。
レビュー(まずはネタバレなし)
想像するヒューマンドラマとは違う
『すばらしき世界』の西川美和監督が、笑福亭鶴瓶を主演に迎え、僻地医療を題材に描いたヒューマンドラマ。
久しぶりに観たが、やはり鶴瓶の存在感に尽きる。吉永小百合と共演した『おとうと』より本作公開の方が早いし、何より初の主演作ではないか。だが、力んだ感じもなく、実に自然体で医師を演じている。
◇
田舎の街に鶴瓶とくれば、NHKのバラエティ『家族に乾杯』のような人情味あふれる感動ものに違いない。
いかにも都会の若造である永山瑛太演じる研修医相馬が、赤いBMWで僻村に乗り込んでくる導入部分も、これから伊野先生に学び成長していく話なのだと想像するに難くない。
だが、西川美和監督が、そんな定石通りにドラマを運ぶわけがない。だって、冒頭で伊野先生は失踪しているのだ。
◇
無医村だったこの田舎で苦労を重ねた高邁な志の先生が、彼を頼る村人たちを置き去りにしたのはなぜか。単なるヒューマンドラマではない。
失踪した伊野の捜査を続ける波多野(松重豊)と岡安(岩松了)の二人の刑事が、事件の外堀を埋めていく。「夜が深いな」だったか、岩松の開口一番の台詞が、どこか芝居がかっていて良い。
キャスティングについて
笑福亭鶴瓶に関しては、演技力云々とは別の次元で、きっちり映画を回しているし説得力がある。改めて彼をよく見ると、『ヤクザと家族 The Family』でも好演していた、彼の息子である駿河太郎には、父親の面影が色濃くあることに気づく。
◇
若き研修医役とはいえ、本作出演時の瑛太はもう経験十分のベテランだが、鶴瓶が役者を本業としていないのをカバーするかのように、看護師・大竹役の余貴美子や薬品卸の香川照之をはじめ、助演俳優陣は層が厚い。
◇
警察側などは、松重と岩松のコンビしか出ないのに、それなりに捜査が進行している風に見える。
極めつけは、医者にかからない老女かづ子役の八千草薫だろう。遠景の農作業着姿でもあれだけ清楚な雰囲気をだせ、老いてなおの魅力が溢れる女優だ。日本の映画界にとって、かけがえのない存在だったと思う。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
伊野先生の正体は
さて、お察しの通り、この伊野という男はニセ医者だった。刑事たちも途中から容疑者扱いに変わっている。
このような田舎町で(或いは都会でも)、医者を名乗って看板を掲げるのはさほど難しくないのかもしれない。手術でもしない限り、ある程度の知識と厚顔さがあれば、疑われたり確認を求められたりすることは稀だ。
伊野を招致した村長(笹野高史)が、村に巡回してきた健康診断医の彼を、苦労してようやく説き伏せたのだ。見抜けるものではない、というより、見抜きたくないだろう。
◇
全容を知っていたのは、薬品卸の営業マン・斎門(香川照之)だけだ。ペースメーカーの営業マン時代から伊野を知っているが、医者になりすました彼が薬の売り上げに協力してくれるため、騒ぎ立てはしない。
『ゆれる』に続き、西川作品には欠かせない、謎めいた存在の香川照之。彼や松重豊は、この当時はまだ、さほどアクの強い演技をしないところが、私は気に入っている。
なぜニセ医者になった
伊野はなぜ、ニセ医者になりすましたのか。
斎門が言うように、医療業界にいると、人の生き死にに直接携わり役に立ちたいとたまに思うものなのか。或いは固定給二千万円という好条件に惹かれたか。
医者であった、痴呆状態にある伊野の父から大学病院名の入ったペンライトを拝借できたことが、彼の犯罪の背中を押したのかもしれない。
◇
看護師の大竹は、伊野の無免許に薄々気づいていただろう。緊急医療の勤務経験から、土砂崩れで運ばれた気胸の患者の胸に太い針を刺して空気を抜けと的確に指示したのは彼女だ。
自分で針は刺せないため、無免許と感づいていても、伊野に処置させる。幸い応急処置は奏功し、伊野の適切な処置は、救急病院の医師(中村勘三郎!)に高く評価されることになる。
伊野は、ニセモノである自分が村の人々に神のように扱われ、また、このように意図せず高い評価をうけたことで、罪悪感に追い詰められていく。
みんなが彼をそう仕立てた
ついにある時思い立って、スイカを自室に持ってきた相馬に、自分はニセ医者だと吐露する。
だが、そんな自虐ネタはみんなを不安にさせるだけだと、相馬は聞く耳を持たない。相馬だけではない。村の誰もが、彼を頼れる医者として、信じていたいのだ。
◇
誰にも、自分の苦しみが伝えられずにいる伊野だったが、その綻びが意外なところから生じた。
胃痛で悩み胃がんを疑うかづ子が、都会で医者として働く娘りつ子(井川遥)には心配をかけたくないという理由で、通院すら我慢している。
伊野はかづ子の心を開き、胃がんだった検査結果を隠し、胃潰瘍という嘘を信じさせてあげるのだ。
◇
ニセ医者であろうと、この行為自体は腑に落ちないが、その後独学で知識を得た伊野は、後日彼の診察内容を不審に思い、押しかけたりつ子と対峙する。
胃カメラの写真を前に(実際には斎門の体内を撮った偽装なのだが)、次々と専門的な質問を浴びせるりつ子と、意外に付け焼刃の知識と薬品名でもっともらしくその場を乗り切る伊野。
◇
この静かだがハラハラする場面は、しかし意外な結末を迎える。
胃潰瘍だと納得して引き下がったりつ子を前に、燃え尽きてしまったか、全ての証拠を置いたまま、伊野は失踪してしまうのだ。最後に農作業するかづ子に手を振り、白衣を田んぼに投げ捨てて。
田舎町の無免許医
本作では、この田舎の村の靄がかかった朝や、突然の夕立、そして走るクルマのない一本道をひたすら走る原チャリなど、風景の切り取り方が実にうまい。
だが、田舎礼賛の映画ではない。現に、村の人々は、伊野が偽物だと分かると、手のひらを返したように態度を豹変させる。
この映画の主役は村の人々ではない。またそこで医者を続ける伊野の姿に感銘を受け、引き続き働きたいと申し出た相馬でもない。あくまで失踪した伊野なのだ。
◇
話は脱線するが、手塚治虫の『ブラックジャック』に「古和医院」というエピソードがある。
無医村に開業し30年、村人の信頼を得た老医師の無免許をBJが見破るが、彼の人徳に惚れて手術を手伝う話だ。地味な作品だが私は気に入っていて、公開時に本作を観た時、すぐに思い出した。
本作では、だが、ニセ医者は最後に逃げ出してしまう。ずっと我慢してきた喫煙も、飛び出した途端に再開させる。彼を人徳者に仕立てた周囲の期待に、息が詰まりそうになっていたのだ。
終わり方がちょっと残念
根っからの悪人ではないが、人徳者でもない。そんな男の立ち位置に、鶴瓶はよく似合っている。駅のホームでニアミスする刑事たちとはお互いに気づかず、悪運強く逃げ延びる。ここで終わって良かったのにと私は思う。
かづ子の入院している病院と、配膳係になりすました伊野が再会するラストシーンに、西川美和監督はさほど思い入れがないようなことを語っていたが、ならば尚更不要だろう。
◇
彼に悪気がないことは分かるが、外部の人間が簡単にスタッフになりすまして病室に配膳する病院は、あまりに無防備すぎる。そこを風刺したい作品だったのか。
伊野の軽妙な印象を残そうとしたはずが、かえって重苦しくなった。これはラストの八千草薫の笑顔でも解消できないかも。