『美しい星』
三島由紀夫の異色原作を吉田大八監督が映画化。宇宙人であることに覚醒した家族たち。
公開:2017 年 時間:127分
製作国:日本
スタッフ 監督・脚本: 吉田大八 原作: 三島由紀夫 『美しい星』 キャスト 大杉重一郎: リリー・フランキー 大杉伊余子: 中嶋朋子 大杉一雄: 亀梨和也 大杉暁子: 橋本愛 黒木克己: 佐々木蔵之介 今野彰: 羽場裕一 中井玲奈: 友利恵 鷹森紀一郎: 春田純一 竹宮薫: 若葉竜也 栗田岳斗: 藤原季節 丸山梓: 赤間麻里子
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
予報が当たらないことで有名なお天気キャスター・大杉重一郎(リリー・フランキー)は、妻・伊余子(中嶋朋子)や二人の子どもたちとそれなりの暮らしを送っていた。
ある日、重一郎は空飛ぶ円盤に遭遇したことをきっかけに、自分は地球を救うためにやって来た火星人であることを確信。
さらに息子の一雄(亀梨和也)が水星人、娘の暁子(橋本愛)が金星人として次々と覚醒し、それぞれの方法で世界を救うべく奔走する。
今更レビュー(ネタバレあり)
吉田大八が熱望した三島原作
三島由紀夫原作を吉田大八監督が映画化する。それも、平凡な家族が突如として「宇宙人」に覚醒する姿を描いたドラマだという。
三島由紀夫は数多く読んできたし、映画化作品も観てきたが、これは完全に規格外だ。純文学作家がこんなSFじみた異色作を書いていたとは、本作の公開まで寡聞にして知らなかったので、当時慌てて読んでみた記憶がある。
吉田大八監督が特撮SFものを撮るのかと意外に思ったが、なにも宇宙人の家族が地球侵略を仕掛けてくる大仰なディザスタームービーではなく、どちらかと言えばヒューマンな家族ドラマに近い。
本人はいたって真剣だが傍目にはおかしいという主人公のキャラクターは、吉田監督作品では『クヒオ大佐』(2009、堺雅人主演)の系譜に入るかもしれない。
吉田大八監督は若い頃に三島由紀夫の小説や生き様に刺激を受け、『美しい星』を映画化したいと願っていたという。晴れて念願が叶ったわけだが、内容には大胆なアレンジが相当加わっており、ここは人によって好き嫌いが分かれるところだろう。
今回、レビューを書くにあたり原作を読み直したが、風合いは結構異なる。私は原作推しだなあ。そのあたりは後ほど詳述したい。
火星人の気象予報士
主人公は報道番組で「あたらない天気キャスター」を務める気象予報士の大杉重一郎(リリー・フランキー)。
職場の若手・中井玲奈(友利恵)と密会の帰路、夜道を運転中に怪しい閃光を見て記憶を失い、翌朝、田舎の田んぼでクルマを脱輪させている。その不思議な経験から、やがて、自分は火星人だと確信するようになる。
主人公を気象予報士にするという現代風な設定変更はうまい着想で、ここは原作の、講演活動に傾倒する裕福な家に育った高等遊民的な男よりも格段に面白い。
社会への発信力もあるし。冒頭では普通に天気予報をしていた男が、後半では天気そっちのけで、地球温暖化を憂い、社会に行動を訴えるようになる。それも不思議ポーズつきで(ここはまるでコントだが)。
メインキャスター今野彰(羽場裕一)との間抜けなやりとりもいい。原作の<核兵器の恐怖>を<地球温暖化>にすり替えたことで報道番組との相性は良くなった一方で、全体のテーマとしてはやや弱まった気もするが。
水星人と金星人の兄と妹
自転車便でメッセンジャーをしているフリーターの長男・一雄(亀梨和也)は、偶然に鷹森議員(春田純一)とその秘書の黒木(佐々木蔵之介)と出会い、事務所で働くことになる。
やがて、父親と時を同じくして、黒木によって一雄は、自分が水星人であることに目覚める。
ただの遊び人の大学生だった原作設定よりは、リアルに肉付けされている。亀梨和也が大学の後輩に、「もう野球やってないんすか?」って聞かれるとこなんて、『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)を思わせる。
プラネタリウムで巨大な水星に押しつぶされそうになる亀梨和也の映像は、なかなかユニークだ。
佐々木蔵之介扮する黒木が、地球人について無表情に一雄に語ってくる様子は、まんま『シン・ウルトラマン』のメフィラス山本耕史のそれである。
そして女子大生の長女・暁子(橋本愛)。この兄にしてこの妹ありの美形兄妹。
だが、自分の美貌に負い目を感じていることを、偶然路上ライブで出会ったミュージシャンのタケミヤカオル(若葉竜也)に指摘され、自分も武宮と同じ金星人だったと自覚する。
暁子の設定は家族の中では最も原作に近いか。人を寄せ付けないキャラが橋本愛に似合う。ついでに、彼女をミスコンに必死に勧誘する広告研のチャラい学生(藤原季節)も似合いすぎる。
金沢まで武宮を追いかけて、金星人同士は結ばれる。円盤を呼ぶヘンテコなお祈りポーズを淡々と繰り返す橋本愛がいい。
母さんは、人間だもの…
最後に、重一郎の妻・伊余子(中嶋朋子)。原作同様に専業主婦だが、どこか家庭の中でも孤独であり、ご近所の主婦(赤間麻里子)の巧みな勧誘にひっかかり、<美しい水>のマルチ商法に精を出すようになる。
自宅に100箱の水が届き、家中ペットボトルだらけになる様子は圧巻だ。『星の子』(大森立嗣監督)で聖水に囚われた新興宗教かぶれの一家を思い出す。
ところで、映画では伊余子だけが地球人のままだ。原作では木星人なのだが、覚醒した家族たちをつっこめる存在として、設定変更したという(まあ、でもさすがに木星に生命はいないか…)。
原作との相違
さて、このように本作には原作とは登場人物の設定にいくつか変更が施されている。原作はけして古典ではなく、出版された60年代初頭の時代背景を映し出したものだが、映画ではそれを現代風に焼き直ししている。
それは撮影の難易度や世間受けを考えれば、必然の処置なのだろう。原作で舞台となった、西武池袋線沿線の飯能や川崎市の東生田近辺が変更された寂しさは若干あるが、それも仕方ない。
◇
私が違和感を持ったのは、宇宙人への覚醒の描き方、そして家族のつながりについてだ(ここからネタバレとなりますのでご留意ください)。
宇宙人であることに覚醒する。それを小説で表現されると、真偽のほどはなかなか分からない。
いや、三島由紀夫が書いているとなれば、荒唐無稽なSF小説ではないであろうことから、自ずと想像はつくのだが、それでも私は最後まで、彼らの正体に思いを馳せながら読むことができた。
だが、映画ではその点は微妙だ。映像であるため、何かそれらしいものを見せなければ、宇宙人説は嘘くさくなるし、見せれば見せたで説明が必要となり、小説よりも対応が難しいのかもしれない。
その結果、この家族が宇宙人かもと思わせるに足る演出は、殆ど見当たらなかったように思う。母親を地球人設定に変え、家族たちをツッコむ視点を入れたのも、観客の<信じたい>願望には逆効果となった。
こんな星に救う価値がありますか
家族の繋がりも弱い。原作では、家族みんなで円盤の不思議な光をみたことでそれぞれが覚醒していくのだが、本作ではきっかけは個々で違う。
一体感はないため、「なんで同じ家族なのに、お兄ちゃんは水星人で、私は金星人なのよ」という疑問がイマイチ響かない。
地球温暖化への対策を訴える父に、息子は物事には順序があり、政治家にまずそれを優先させるべきだと反論する。
「手持ちのチップが少ないときは、でっかく張らないと勝ち目はないんだよ!」
よく分からないけど、亀梨和也が言うと説得力がある。
「こんな地球に救う価値がありますか」
そう問いかける黒木に、重一郎は「美しい星です」と訴える。
「地球人的な答えですね。自然は美しいか。だが人間はなぜか、自分たちを自然に含めない」
その理屈でいけば、このまま温暖化で地球人がこの星を滅ぼしてしまうのも、また自然の成り行きであり、美しいのではないか。黒木はそう言いたいのだ。
原作にあった「誰もいない、死に絶えて美しい星」という言葉のように。
ラストシーンの光
一雄を篭絡した黒木はただの口先だけの男にも見え、また、暁子を処女受胎させた武宮(若葉竜也)も、何のことはない、デートレイプドラッグ野郎だった。
もはや本当に家族が異星人なのかは、なにも確信が得られないまま、最後に重一郎は癌で死のうとしている。余命わずかな父を車に乗せて、家族は円盤とコンタクトしようと、夜の山道を進む。
◇
原作では、ここで家族は再びみんなで光をみる。小説の最初と最後の光だけで、宇宙人の物語を完結させてしまう三島由紀夫の筆力。
宇宙人の目線を使えば、日本国や地球全体をも俯瞰できる話だって書けると思いついたのだろうか。SF黎明期における、三島ならではの問題提起。
それがきちんと映画に反映されたかというと、正直、リリー・フランキーの演技の奇抜さに頼るあまり、本題がボケた気がする。
ラストに安っぽい円盤の内部を登場させたのも解せない。地上に本人が残っているのだから、幽体離脱して火星に戻るという意味なのかな。
それにしても、あの気象予報士の奇行を何度もオンエアしてしまうスイッチャー・ディレクター、余程の能無しなのか、数字が欲しい確信犯なのか。
◇
三島由紀夫の異色原作を映画化しようという意気込みや良し。また気象予報士やメッセンジャーといった職業設定で現代風アレンジを施した点も良かったとは思う。
だが、原作と違い映像では、この家族が宇宙人にはみえないし、見せようともしていない。お父さんの奇行だけが悪目立ちした。配役が良かっただけに、ちょっと残念。