『ゴッドファーザー最終章 マイケル・コルレオーネの最期』
The Godfather, Coda: The Death of Michael Corleone
フランシス・フォード・コッポラ監督が『ゴッドファーザーPARTⅢ』を30年目に再編集
公開:2020 年 (1990年)
時間:158分 (162分)
製作国:アメリカ
( )内は『ゴッドファーザーPARTⅢ』
スタッフ 監督: フランシス・フォード・コッポラ 原作: マリオ・プーゾ キャスト <コルレオーネ家> マイケル(ドン): アル・パチーノ コニー(妹): タリア・シャイア ケイ(前妻): ダイアン・キートン ヴィンセント(甥): アンディ・ガルシア メアリー: ソフィア・コッポラ アンソニー: フランク・ダンブロシオ <コルレオーネ・ファミリー> アル・ネリ: リチャード・ブライト B・J・ハリソン: ジョージ・ハミルトン アンドリュー・ヘイゲン:ジョン・サヴェジ ドン・トマシーノ:ヴィットリオ・デューズ カロ: フランコ・チッティ <対立するマフィアほか> ドン・アルトベッロ:イーライ・ウォラック ジョーイ・ザザ: ジョー・マンテーニャ モスカ: マリオ・ドナトーネ スパラ: ミケーレ・ルッソ ギルディ大司教: ドナル・ドネリー ドン・ルケージ: エンツォ・ロブッティ カインジック: ヘルムート・バーガー ランベルト枢機卿: ラフ・ヴァローネ グレース: ブリジット・フォンダ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
1979年、老境に入ったマイケル(アル・パチーノ)は、自分の犯してきた罪に苦悩していた。
彼は、資産を合法化するためバチカン銀行と大司教(ドナル・ドネリー)に接近し、寄付の見返りに叙勲を受け、その祝いの席で家族と再会。そこには、いまは亡き長兄ソニーの息子ヴィンセント(アンディ・ガルシア)の姿もあった。
かつてのコルレオーネ家の縄張りはジョーイ・ザザ(ジョー・マンテーニャ)によって牛耳られていた。ファミリーが犯罪から手を引き、合法的な仕事に移ることを宣言したマイケルはザザの配下にいたヴィンセントを自分のもとに置き、後継者として育てようとするが、そのことを契機にザザとヴィンセントの抗争が表面化する。
一気通貫レビュー(ネタバレあり)
公開30周年で念願の再編集
オリジナル版であるシリーズ三作目の『ゴッドファーザーPARTⅢ』(1990)は、フランシス・フォード・コッポラ監督の弁によれば、酷評されたそうだ。
『ゴッドファーザー』、『ゴッドファーザーPARTⅡ』がともに作品賞のオスカーを獲るほどの完成度であることが尋常ではない訳で、『PARTⅢ』にもそれに匹敵するレベルを求めるのは酷というものだ。それも、前作から16年も経過している状況下で。
◇
これだけ歳月が流れているのは、コッポラ監督自身、三作目を撮りたいとは考えていなかったのだが、監督自身大きな破産などを抱え、金銭面の必要性から引き受けたということなのだろう。
結果として、『ゴッドファーザーPARTⅢ』はさほど世間的には評価されず、偉大なるサーガの黒歴史となってしまった。正直、そこまで不評だったかは定かではないのだが、過去二作と異なり、あまり印象に残らない作品だったと記憶している。
その作品が、パラマウントの粋な計らいによって、公開30周年にあたる2020年に、コッポラ監督自身の手で再編集されたうえ、『ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』として生まれ変わる。
オリジナル版で不満だった点に手を加えて、というか無駄な部分を切り取って、物語をシンプルにしたということなのだろう。
不本意だった『PARTⅢ』というタイトルも、当初に却下された「最終章」という表現や、「マイケル・コルレオーネの最期」というサブタイトルが付き、より完結編であることが明確になっている。
再編集版の出来栄えについてコッポラ監督はご満悦のようだし、アル・パチーノやダイアン・キートンら俳優陣からも好評のようだが、そこは利害関係者からの意見であり、額面通り受け取ってよいものか。
シンプルになったストーリー
本作の冒頭は、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)がバチカンのギルディ大司教(ドナル・ドネリー)から資金に関する相談を受け、そこからすぐに、バチカンの支配するインモビリアーレ社の株を取得し、ファミリービジネスの合法化にシフトしていく話が進んでいく。
カメラがまずドン・コルレオーネに相談にきている者の嘆願する顔をとらえ、その後ようやくドンの顔が写るという構成は一作目のセルフオマージュか。
コッポラ監督によれば、バチカンとのやり取りを冒頭に持ってきたことで、観客は悩まずに物語に入り込めるようになるらしい。
それにしても、歳月の流れを考えれば当然ではあるが、『PARTⅡ』ではまだ若々しく精悍だったマイケルが、本作ではすでに大きな富と権力を手に入れた初老の紳士なのに驚く。
そして、この取引で受勲したマイケルは盛大な記念パーティを開く。パーティのシーンを長めに取り、ここで一機にドン・コルレオーネをめぐるファミリーの人間関係が分かるようにする。その手法も一作目ゆずり(マイケルの妹コニーの結婚披露ガーデンパーティ)といえる。
妻のケイ(ダイアン・キートン)とは前作で別れたままのようだ。長男のアンソニー(フランク・ダンブロシオ)は法学部を退学して音楽の道に進むといいマイケルを怒らせる。
長女のメアリー(ソフィア・コッポラ)は年頃の美しい女性に成長している。思えばソフィア・コッポラは一作目では乳児を演じていたのだ(アンソニー役だったけど)。
そして、メアリ―が首ったけになる、パーティに招待されずにやってきた、ガラの悪い色男ヴィンセント(アンディ・ガルシア)が、マイケルの兄でマフィアの抗争で死んだソニーの息子なのだ。
ヴィンセントがNYでトラブルを引き起こした、ジョーイ・ザザ(ジョー・マンテーニャ)もパーティに現れ、ここから今回の物語が広がっていく。
◇
マイケルが信頼を置いていた、兄弟分のトム・ヘイゲンは前作以降、既に死んでいる設定のようだ(後任弁護士役には色男ジョージ・ハミルトン!)。
代わりに、聖職者となる息子のアンドリュー・ヘイゲン(ジョン・サヴェージ)が登場する。但し、たまたまバチカンで働いていてマイケルと再会するなど、無理に引っ張りだす割には、存在が生きていない。
三代目もクリスチャン
本作が再編集で『PARTⅢ』より改善が見られたことは想像に難くないが、過去二作に比肩することはさすがに厳しい。
一作目ではヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)が銃撃で瀕死の重傷を負い、三男のマイケルに後継を託すまでを描く。
二作目では、そのマイケルが父にならって、厳しい掟を貫いてビジネスを守ろうとするが、皮肉にも兄弟の多くは死に、家族は離散していく。
三作目でマイケルは、家族のためにファミリービジネスを合法的でクリーンなものにシフトしていこうとし、一方で昔ながらの仕事は、甥であるヴィンセントに引き継ぐことになる。
ドン・コルレオーネの座をマーロン・ブランドから継いだ時のアル・パチーノの演技には痺れたものだが、同じような気迫が、この当時のアンディ・ガルシアからはまだ滲み出てこない。
本作においてヴィンセントの役割は大きいはずなのに、父親のソニー譲りで、すぐカッとなる単細胞イメージが強すぎるのだ。ヴィンセントはソニーの息子なのに、なぜドンを襲名するまでコルレオーネを名乗れなかったのかも、よく分からなかった(愛人の子だったからか)。
シリーズの主人公はマイケルなのだから、最後までドンとして毅然としたところを貫いてほしかったが、ジョーイ・ザザがヘリコプターからマフィア連中を一斉射撃するあたりから、だいぶ老いが強調される。マイケルが糖尿病で倒れてジュースやチョコレートを貪る様子など、ファンとしては見たくないのが本音だ。
良いところと残念なところ
映画としての見せ場が少ない訳ではない。マフィア映画としては、ヴィンセントが耳に噛みついたり騎馬警官に扮して銃撃したり、古くからファミリーに仕えるカロ(フランコ・チッティ)が丸腰で敵に近づき眼鏡で刺殺したり(必殺仕事人かい)、神父の格好をした殺し屋が銃撃したり。
ドラマとしては、禁断の恋のヴィンセントとメアリーが、重ねた手を転がしてニョッキ作りをするロマンティックな場面や、歌手になったアンソニーがギター弾き語りで、かの有名なメインテーマ曲を歌い上げる場面もいい。
◇
そしてクライマックスでは、アンソニーのオペラ歌劇の観客席に、マイケルと敵がそれぞれ集まり、いくつもの暗殺劇が繰り広げられる。
ただ、マイケルと敵対するマフィアやバチカンの連中の構成が複雑すぎる。
ギルディ大司教(ドナル・ドネリー)が悪人っぽいのは薄々分かってくるが、インモビリアーレ社のドン・ルケージ(エンツォ・ロブッティ)、銀行頭取のカインジック(ヘルムート・バーガー)、ザザを裏で操る老体ドン・アルトベッロ(イーライ・ウォラック)など、人物把握に忙しい。
そこに加えて、バチカンでは法王がなくなりコンクラーベが行われるのだが、立て続けに新法王も殺されるなど、難解さに拍車がかかる。
◇
標的の人数を増やすことで、終盤の暗殺攻防戦を盛り上げたかったのかもしれないが、本シリーズにサスペンス要素はあまり重要でない。話をシンプルにして、マイケル・コルレオーネの最期(Death)と呼べる、最愛のメリーが凶弾に倒れる場面に意識集中できる方がよい。
再編集で、ラストにシチリアで孤独に死ぬマイケルのシーンはカットされたようだが、とはいえあの静かなラストが壮大な三部作の最終章にふさわしいのかは、甚だ疑問である。