『フェラーリ』
Ferrari
マイケル・マン監督がアダム・ドライバー主演で描く、エンツォ・フェラーリの波乱に満ちた一年。
公開:2024 年 時間:132分
製作国:アメリカ
スタッフ
監督: マイケル・マン
原作: ブロック・イェーツ
「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」
キャスト
エンツォ・フェラーリ:アダム・ドライバー
ラウラ・フェラーリ: ペネロペ・クルス
リナ・ラルディ:シェイリーン・ウッドリー
アルフォンソ・デ・ポルターゴ:
ガブリエル・レオーネ
リンダ・クリスチャン: サラ・ガドン
ピーター・コリンズ:ジャック・オコンネル
ピエロ・タルッフィ:
パトリック・デンプシー
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
1957年。エンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)は難病を抱えた息子ディーノを前年に亡くし、会社の共同経営者でもある妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との関係は冷え切っていた。
そんな中、エンツォは愛人リナ(シェイリーン・ウッドリー)とその息子ピエロとの二重生活を妻に知られてしまう。さらに会社は業績不振によって破産寸前に陥り、競合他社からの買収の危機に瀕していた。
再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」に挑む。
レビュー(まずはネタバレなし)
美化せずに描くエンツォ・フェラーリ
アダム・ドライバーが『フェラーリ』の主演というので、駄洒落じゃないがレーシング・カーのドライバー役だと思ってしまいそうだが、そうではない。主人公エンツォ・フェラーリを演じているのだ。
エンツォ・フェラーリの名前だけ聞くと、2002年に発表された限定生産のスーパーカーの方をイメージしてしまう人もいるかもしれないが、あくまでフェラーリの創業者であるエンツォの物語である。
世界に冠たる最強・最速の自動車メーカー、フェラーリを1947年に一代で築き上げた伝説の人物だ。その輝かしい人生のサクセス・ストーリーを映画化したのかと思えば、そこはマイケル・マン監督、そんなものには興味がない。
ブロック・イェーツの原作「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」に従い、会社創設から10年目になり経営面では窮地に陥り、私生活でも愛人問題で追い詰められる59歳のエンツォが、起死回生をかけて「ミッレミリア」レースに挑む姿を描き出す。
冒頭、早朝のベッドルームで抱き合って眠る金髪女性を起こさぬように起床したエンツォは、幼い息子の寝顔を見て、猛スピードでクルマを駆って田舎道を仕事に向かう。
平和な家庭を持つクルマ好きな敏腕経営者の日常の始まりにしかみえないが、すぐに実態が浮き彫りになる。
◇
この金髪美女リナ・ラルディ(シェイリーン・ウッドリー)は愛人で、息子ピエロは隠し子。それを知らない正妻のラウラ(ペネロペ・クルス)は、夫が娼婦と遊び歩いているのだと思っている。
夫婦生活は冷え切っているが、ラウラにはかつて会社の権利を半分譲ってしまっており、またそもそも会社は最近のレースでも負けが込んで、売れ行きも芳しくなく、倒産まで秒読みの状態。
公私ともに課題山積のエンツォの生き様が、けして美化されずに描かれているところがいい。
アダム・ドライバーの老け役がいい
主演のアダム・ドライバーが見事にハマっている。長身であることもエンツォのイメージと合うが、毎日2時間以上かけて準備したというヘアメイクの効果もあって、実に自然な感じに年を重ねたエンツォが出来上がっている。いかにもといった特殊メイクではないのが好感。
彼は『ハウス オブ グッチ』(2021、リドリー・スコット監督)でも経営者を演じたが、こっちのが断然似合う。
当初はクリスチャン・ベールやヒュー・ジャックマンとも出演交渉があったようだが、ベールはマイケル・マンが製作を手掛けた『フォードvsフェラーリ』でフォードの天才ドライバー役を演じていたので混乱しそう。
ヒュー・ジャックマンも、公開時期が『デッドプール&ウルヴァリン』と被ったし、結果的にアダム・ドライバーは正解と思う。
◇
当時、レースで好成績を収めるジャガーは、クルマも売れて業績も好調だった。
「ジャガーは売るために勝つ。フェラーリは勝つために売るのだ。一緒にするな」
アルファロメオのレーサーからキャリアを始め、エンジンの設計も分かるエンツォにとっては、速く走ること、レースに勝つことが何よりも大事。
レースに勝つことがすべて
現代よりもはるかにレーシングカードライバーに生命の危険が多かった時代、何人もの同僚や友人を事故で亡くすが、いつしか感情も切り離してレースに没頭するようになる。
「(例え敵をコースアウトさせることになっても)コーナーで先にブレーキを踏んだ方が負け。それだけだ」
もはや、目の前で契約ドライバーがサーキットで事故を起こしても、動じることはない。そんな彼が唯一、病気で亡くした最愛の長男ディーノの墓前では、感情を包み隠さず表に出す。
◇
自動車業界では伝説の人物エンツォ・フェラーリは誰からも好かれるカー・ガイではない。息子の死を克服できず、現実を逃避しレースに没入し、会社を存続させるための手練手管もある、偏屈な人物。
彼がリナ・ラルディと私生児ピエロと暮らす別宅には明るい陽射しが溢れ、対照的に正妻ラウラと住む自宅の寝室は暗鬱で、精神を逆撫でするような壁紙が貼られている。
跡継ぎのディーノが病死したのはつい前年なのだ。そこに隠し子までいると分かれば、ラウラは夫に銃口を向け、今度ははずさないかもしれない。
イタリアでは当時、離婚が認められないというお国事情も、状況悪化に拍車をかけているのか。ラウラ役のペネロペ・クルスは、常連のペドロ・アルモドバル監督の作品でみるのとは、また違う芯の強さを見せる。
ミッレミリアのレース
家庭問題を抱えながら進める「ミッレミリア」レース。ドライバーのチームの中には、契約したばかりの成長株アルフォンソ・デ・ポルターゴ(ガブリエル・レオーネ)。
このレースでマセラティを打ち負かして勝てれば、会社には起死回生のチャンスとなる。
そして、レースと並行しながら、資本増強のために、フィアットやフォードといった大手資本を相手に、有利な提携を導き出そうと画策するエンツォ。レースと合わせて、この駆け引きも見ものとなっている。
フェラーリ好きならエンツォの物語に興味はそそるだろうが、登場するクルマは当然50年代のクラシックカーばかりである。
あなたがどの時代のフェラーリの実車が好きかにもよるが、私は70~80年代の美しきフェラーリがストライクゾーンなので、そこは残念。亡き愛息ディーノの話に触れるのなら、その名を付した名車ディーノ(1967~)の流麗な姿も見たかったが、無理な話か。
但し、CGなしの実写にこだわるマイケル・マンが、レストア車や3Gプリンターで作り上げた壮麗なフェラーリやマセラティ、アルファロメオの走行シーンをみるだけで、ムネアツになる。
レースの臨場感やゲーム感覚のスリル、戦略性などを考えれば、技術を駆使した『グランツーリスモ』(2023、ニール・ブロムカンプ監督)のがイマっぽいし面白いのだろうが、この時代のレースをここまで迫力ありで描いているのは、さすがというほかはない。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
本作のクライマックスになっているのは「ミッレミリア」レース。その名の通り1000マイルを走る耐久レースだ。近年ではクラシックカーのラリーとして復活し、日本でも開催されているが、1927年からイタリアで続いていた公道レースである。
『フォードvsフェラーリ』はル・マンの耐久レースを描いた作品だが、同作ではスポーツものの映画である以上、勝負の行方というものが大きな意味を持っていた。
だが、興味深いことに、本作はスポーツものではないために、同じ耐久レースを扱っていながら、レース結果には殆ど焦点があたらない。
その代わりに、もっと衝撃的なことが起きる。それは、30年続いたミッレミリアを開催中止に追い込むほどの出来事だ(事実に則している)。
ありがちなカーレースの映画だと思っていると、ここでポップコーンの容器を落とすほどの衝撃を受けるだろう(終盤まで食べ終わっていなければ)。
◇
そう。本作はあくまで、エンツォ・フェラーリの波乱にみちた1957年を描いた作品であって、レースの映画ではない。そう再認識する。
大のフェラーリ愛好家で知られるマイケル・マンが、輝かしい戦績以上に撮りたいものはこの人生の縮図だったのか。イタリア人にとって、人生は浪花節ではなくてオペラなのだとしみじみ思う。