『ドロステのはてで僕ら』
劇団「ヨーロッパ企画」の映画第1弾。テレビ画面の向こうには、二分後の俺がいる。
公開:2020 年 時間:70分
製作国:日本
スタッフ
監督: 山口淳太
原案・脚本: 上田誠
キャスト
カトウ(カフェ店主): 土佐和成
メグミ(床屋): 朝倉あき
アヤ(店員): 藤谷理子
コミヤ: 石田剛太
タナベ: 諏訪雅
オザワ: 酒井善史
フルヤ(ヤミ金): 角田貴志
ナリタ(ヤミ金): 中川晴樹
キンジョウ: 永野宗典
イシヅカ: 本多力
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
とある雑居ビルの2階。カトウ(土佐和成)がテレビの中から声がするので画面を見ると、そこには自分の顔が映っていた。
画面の中のカトウから「オレは2分後のオレ」と語りかけられるカトウ。どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが、2分の時差でつながっているらしい。
「タイムテレビ」 の存在を知った仲間たちは、テレビとテレビを向かい合わせて、もっと先の未来を知ろうと躍起になる。
今更レビュー(ほぼネタバレなし)
俺は、未来の俺。2分後の俺
人気劇団「ヨーロッパ企画」が手がけた長編映画第1弾。
京都にある雑居ビル。1階には小洒落たカフェ。店主のカトウ(土佐和成)は片付けを店員のアヤ(藤谷理子)に任せて、2階にある自室に上がる。
そこでギターを弾こうとしていると、テレビの画面から声がする。見ると、画面には自分の顔。しかもこちらに向かって話しかけている。
「俺は、未来の俺。2分後の俺」
それは、さっきまでいた1階のカフェから語りかけてきている。どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが、2分の時差で繋がっているらしい。
この、にわかには信じがたい状況を、本人同士が<しりとり>をすることでリアルタイムの会話だと受け容れた2階のカトウが、再度1階に下りて行き、今度はカフェにある画面に映っている2分前の自分に話しかける。
やがてカフェの常連客らを巻き込んでいき、このタイムマシンならぬタイムテレビを巡って、カトウたちは1階と2階の行ったり来たりを繰り返す。
本作は70分の短い作品だが、その殆どのシーンが、2分間を挟んだ過去と未来との会話に費やされている。同じ会話のやりとりが何度も登場するが、ちゃんとアレンジが加わっているので飽きさせることはない。
ココアはやっぱりドロステ
タイトルの由来にもなっているドロステ効果というのは、SF的な現象名ではなく、再帰的な画像が無数に繰り返される効果をいうようだ。
語源はオランダのドロステ・ココア。パッケージに描かれた女性がココアの箱を持ち、そこには女性と箱が小さく描かれているというもの(本作にもこのココアが登場する)。
私が思い出したのは、かこさとしの絵本『ことばのべんきょう くまちゃんのいちにち』の表紙。ちなみに、合わせ鏡や、ビデオカメラでモニターを撮った時の映像なども、ドロステ効果というらしい。本作はこの後者の活用例といえる。
「ヨーロッパ企画」の新作映画である『リバー、流れないでよ』(2023、以下、『リバー』)を先に観てしまったので、どうしてもそちらを基準にしてしまうが、両作品は多くの点で似通っている。
キャスト・スタッフに関しては、劇団員が出演者の太宗を占めること、原作・脚本は劇団主宰の上田誠、監督・山口淳太のコンビであることが共通。京都が舞台(本作ではあまり伝わらないが)であることも同じ。
だが、最大の共通点は、どちらもタイムマシン系の時空の歪みを題材にしている点だろう(それが『サマータイムマシン・ブルース』などで知られる上田誠の得意領域ではあるが)。
『ドロステのはてで僕ら』では1階と2階のテレビ画面の<2分間>のタイムラグ、『リバー』では京都の老舗旅館での<2分間>の無限タイムループと、時間設定まで似ている。
時間差がもっと長いものであれば、話はもっと大袈裟になるところが、ほんの2分間というお手頃感ゆえに、どちらの作品でも些細な小ネタで登場人物たちを一喜一憂させやすくしているのだろう。
キャスティングについて
主人公カトウ役の土佐和成は、本作の原案にもなっている短編映画『ハウリング』でも主演。『リバー』では猟師役。
『ハウリング』って、狼男になるアレじゃなくて、マイクがスピーカーの音を増幅させてしまう、「ハウっちゃう」方の意味だろうな。
◇
店員アヤ役の藤谷理子は『リバー』では主演女優。その他、常連客のコミヤ(石田剛太)、タナベ(諏訪雅)、オザワ(酒井善史)も、みな『リバー』での客や板前で出演していたメンバー。
石田剛太は今回も見ていて「黙っててくれ」と言いたくなる自己主張の激しいキャラ、酒井善史も『リバー』同様に原因究明や対策を考え行動する科学者キャラ。でも冷静にみえるオザワが後半にヒートアップするのは想定外で楽しい。
後半登場の闇金融業者フルヤ(角田貴志)とナリタ(中川晴樹)と、謎の人物キンジョウ(永野宗典)もみんな『リバー』出演者。
永野宗典とともに登場するイシヅカ(本多力)だけは、演劇界に疎い私が以前から知っていた俳優だったが、彼は「ヨーロッパ企画」を退団してしまったので、『リバー』には出演していないのか。
結局、本作で劇団員ではないのは、隣家の床屋の娘メグミ役の朝倉あきだけだが、ヒロインは外部からというのは『リバー』の久保史緒里(乃木坂46)にも通じている。
劇団固有の芝居くささの是非
題材は似ているものの、京都の神社や旅館の全面協力でロケ地の魅力をふんだんに採り入れた『リバー』は、劇団員以外のキャストも要所に配して、映画的には奥行きを持たせた。
それに比べると本作は、長編映画1作目ということもあり、低予算の自主映画っぽさと閉塞感が強い。疑似的なワンカット映画というのも、息苦しさを感じさせる一因かもしれない。
個人的に鼻についたのは、ほぼ全員が同じ劇団員の芝居だからか、映画ではなく舞台を見ているような錯覚に陥ったこと。
台詞回しもさることながら、みんなカフェの店内で中腰になってぶつけ合うように威勢よく言葉をぶつけ合う。ああいう会話スタイルは、実生活ではまずない。
未来のカトウがメグミをライブに誘い、その結果が 「オーケーでしたっ!」とガッツポーズしたり、オザワが「ゼブラダンゴムシ、ゲットだぜ!」とやったり、ついつい笑ってしまったが、これもいわば小劇場のノリだ。
私はその辺が気になったが、自主映画っぽさも閉塞感も、まして演劇っぽい芝居も、それが映画としてダメなのかと言うとそんなことは勿論なく、観るひとが気にならずに楽しめれば全く問題ない。
『リバー』では後半に主人公の彼氏が登場してから話がやや停滞してしまったが、本作も後半にヤミ金が登場してから、勢いが削がれて、小道具を使った伏線回収にも無理を感じるように思えた。
それに「タイムテレビ、いやドロステレビじゃん」というが、これはAppleのPCモニターでテレビではないのでは(どっちでも支障ないけど)。
タイムマシンもののラストにきっちり原因を説明してくれるのには好感が持てるが、あまりに予想の範囲内ではあり、これも『リバー』の方が一枚上に感じられた。
◇
とはいえ、2分の時差を使って、ここまで面白おかしく話を広げていくことができるのかと、その発想には素直に感服する。海外では、この点を高く評価して数多くの受賞につながったのだろう。
大資本が作った映画にしか賞を与えない風潮が強い日本映画界で本作が無冠というのは、寂しくもあり恥ずかしくもある。
さて、藤子・F・不二雄のSF短編集、ちょっと読んでみようかな。