『せかいのおきく』
阪本順治監督が念願のオリジナル脚本時代劇。糞尿運びの仕事に明け暮れる若者たちと武家育ちの娘の出会い。
公開:2023 年 時間:89分
製作国:日本
スタッフ 監督・脚本: 阪本順治 キャスト 松村きく: 黒木華 中次(ちゅうじ): 寛一郎 矢亮(やすけ): 池松壮亮 松村源兵衛: 佐藤浩市 孫七: 石橋蓮司 孝順: 眞木蔵人
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
ポイント
- 時代劇の人情噺のいい雰囲気は十分にもちながら、全編これでもかというくらい糞尿の話なのが、阪本順治監督のひねくれ精神なのだろう。本作で循環型社会を描こうとしているとは夢にも思わなかった。
- その高邁な思想と離れて、一本の時代劇としてみた場合に、本作はどう見えるか。私はもっとストレートに訴えてくる時代劇の方が好きだけど、考えさせるのが阪本流か。
あらすじ
武家育ちである22歳のおきく(黒木華)は、現在は寺子屋で子どもたちに読み書きを教えながら、父・源兵衛(佐藤浩市)と二人で貧乏長屋に暮らしていた。
ある雨の日、彼女は厠のひさしの下で雨宿りをしていた紙屑拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)と出会う。
つらい人生を懸命に生きる三人は次第に心を通わせていくが、おきくはある悲惨な事件に巻き込まれ、喉を切られて声を失ってしまう。
レビュー(まずはネタバレなし)
佳作の雰囲気は十分な時代劇
監督作品30作の節目となる阪本順治が、念願のオリジナル脚本による時代劇に挑む。監督にしては珍しく女性主人公、タイトルロールのおきくに黒木華。そして共演に寛一郎、池松壮亮。
江戸の若者の青春ものといえば嘘ではないが、そこから想像される物語とは大分かけ離れた異色作だ。
◇
最近の阪本作品をみても、伊藤健太郎の『冬薔薇』、豊川悦司の『弟とアンドロイドと僕』と、観終わって解釈に悩む、よく言えば「考えさせられる」独創的な作品が続いている。
本作も、物語自体に難解さはないが、その系譜に入るものだろう。何たって『せかいのおきく』だ。『世界のナベアツ』を思わせる、大仰なタイトルが胡散臭い。
だが、観始めれば、モノクロでスタンダードサイズの画面に映し出される江戸の町や人々の姿が、意外なほど<普通に>描かれており、ちゃんとしていることに感心する。
さすが阪本監督、長年時代劇に思いを寄せて研究していただけのことはある。落ち着いた雰囲気のショットは、スチールでみるとどれも名画の雰囲気を湛えている。
匂うではなく臭うような
だけど、面白いことに、本作は<下肥買い>の話なのだ。つまり<汚穢屋>である。肥え桶を肩に担いで糞尿を運ぶ仕事だ。
それが矢亮(池松壮亮)の仕事であり、誘われて紙屑拾いから鞍替えした中次(寛一郎)と二人、せっせと江戸の町の糞尿を買い集めては、農家に肥料として売りに行く。
そういう映画であることは事前に知っていたが、ここまで徹頭徹尾、糞尿の話に明け暮れるとは思わなかった。『孤狼の血』(2018、白石一彌監督)の冒頭に、いきなり豚の糞によるリンチの場面が出てきて愕然としたが、本作はその比ではない。
いやあ、これはモノクロにしておいて正解だったね。カラーだったら相当キツイ。などと思っていると、全編モノクロの本作に時折一瞬カラーのカットが入る。
それは風景や蝋燭の火など、美しいものが中心だが、なぜか糞尿のショットも紛れ込んでいたりして、阪本順治の遊び心はひねくれている。そもそも、モノクロでも結構臭ってきそうな映像なのだ。
うんこマイスターのスタッフが試行錯誤の末に創り出したリアルな代物。飛びかうハエの羽音やボタボタと垂れる音だけでも、げんなりしてくる。これでは、劇場ではポップコーンが売れないだろう。
循環型社会を描いていたとは
映画を観ている時点では知らなかったのだが、本作のプロデューサー・原田満生が立ち上げた「YOIHI PROJECT」という企画がある。
気鋭の日本映画製作チームと世界の自然科学研究者が協力して、様々な時代の「良い日」に生きる人間の物語を創り、「映画」で伝えていくプロジェクトだそうだ。その第一弾が本作なのである。
だからといって、阪本順治監督が美辞麗句を並べて観客を啓蒙する映画を撮るはずがなく、この糞尿を題材にしたいと考えた。
◇
日本人にとって、糞尿を肥料にすることは、昔からの習わしとして自然と理解している。だが、西洋には糞尿など、川に流すか、路上に捨てるかの発想しかなかった。
江戸時代の日本では、食と糞尿の循環型社会が既に確立されていたのだ。いや驚いた。まさか循環型社会やSDGsが、本作のテーマになっているとは。
でも確かに、矢亮や中次がやっていることは、不用な糞尿を買い取って、必要とする農家に届けるという、リサイクル事業に他ならない。
同じ舟に糞尿と野菜を一緒に運ぶ無神経さを中次が嘆くが、これこそ食と糞尿の循環なのだ。いやはや、そんな高邁な思想が、ここに隠れていようとは。
ちょっと物語に触れると
さて、うんこドリルのような話ばかりになったが、少し物語について触れたい。
22歳のおきく(黒木華)は、武家育ちでありながら今は貧乏長屋で父・松村源兵衛(佐藤浩市)と二人暮らし。毎朝、便所の肥やしを汲んで狭い路地を駆ける中次(寛一郎)のことが、秘かに気になっている。
長屋には職人の孫七(石橋蓮司)はじめ、多くの貧乏所帯が暮らすが、話題は便所が詰まって周辺が汚水で溢れ、どうにかしてくれということばかり。
阪本組常連の石橋蓮司と佐藤浩市は、目下公開中の時代劇『仕掛人梅安2』(河毛俊作監督)でも渋い演技を見せているが、まさかこの二人が糞尿の話に明け暮れるとは思わなんだ。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
SEKAI NO HAJIMARI
「なあ、せかいって言葉、知ってるか?」
源兵衛が便所で踏ん張りながら(いや、その後だったか)、外で肥え桶を持って待つ中次に話しかける。
「この空の更に向こうにあるのがせかいだ。いつか惚れた女に、「せかいで一番お前が好きだ」って言ってやれよ」
便所での語らいとは思えない、実の父子の名場面だ。寛一郎にはこれまで以上に父親の面影を感じ取った。
そして、ある日突然、複数の刺客に誘い出された父を追って山に向かったおきく。父は殺され、おきくも喉を切られて声を出す事ができなくなってしまう。
本作では侍たちが刀を抜くシーンさえなく、山に行ったら、次にはもう源兵衛は斬られ、おきくも倒れている。『梅安2』であれだけの刀さばきを見せた佐藤浩市だが、このギャップが面白い。第一、斬られた理由さえ語られないのだ。
本作で一番目立っているのは、世間の人々に臭い、汚いと罵られ続けるが、一向に気にせず仕事をしている矢亮(池松壮亮)だろう。
「これが本当の、糞の役にも立たねえ、だな」など、糞尿にからめたダジャレのようなことを言っては、「ここ笑うとこだぜ、中次」と繰り返す。
『シン・仮面ライダー』の庵野監督のストイックな演技指導に疲れ切った様子が思い出され、本作の自然体の池松壮亮の演技に少しほっとする。
せかいでいちばん
だが、矢亮はここでは狂言回しのような役割で、メインにあるのはおきくと中次の淡い恋愛感情だ。
声を失ったおきくは、それでも子供に文字を教える決意をする。「忠義」とひらがなで手本を墨書するはずが、つい「ちゅうじ」と書いてしまい部屋で一人で照れるおきくが可愛い。
◇
そんな中次のためにおきくがこしらえた握り飯が、荷車に轢かれてぺしゃんこになる。この辺の4コママンガのようなカット割りは、かつて北野武の作品でよく見かけた。
どうにか苦労して中次の家にたどり着いたおきくは、身振り手振りで、精一杯に気持ちを伝える。手話などない時代、もともと威勢の良かったおきゃんな彼女が、ジェスチャーゲームのように懸命になって中次と意思疎通を図ろうとする。
武家の娘と自分では身分が違い過ぎると遠慮していた中次。卑賎の身の自分の人生に諦めを感じているようにみえる。
だが、内弁慶で町の連中には反論もしない矢亮を腰抜けだと責めたり、いつか読み書きができるようになりたいと言ったり、何かを変えようとする意気込みも感じられる。
中次とおきくの二人なら、時代の変化とともに旧弊をのりこえ、「せかい」に目を向けられるのかもしれない。
ありきたりな起承転結の物語ではなかったが、卑賎の身からささやかな幸福をつかむ中次の人生は、島崎藤村の『破戒』の阪本流解釈のようにも思えた。
最後に、説話の苦手な孝順和尚(眞木蔵人)が、「せかいは、あっちに向かえば、必ずこっちから戻ってくるものだ」と説く。
みんな理解できずにいるが、これは、地球は丸いということを、彼なりに伝えたかったのだろう。
それに呼応するかのように、ラストシーンで田舎道を歩くおきくたち三人をとらえるカメラは、魚眼レンズのようになっており球面をイメージさせる。