映画『こちらあみ子』考察とネタバレ!あらすじ・評価・感想・解説・レビュー | シネフィリー

『こちらあみ子』考察とネタバレ|チョコクッキーがトラウマになりそう

記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

『こちらあみ子』

今村夏子の鮮烈なデビュー作を映画化。応答せよ、応答せよ。少女の天真爛漫さと生き生きとした表情が、本物のあみ子にしかみえない。

公開:2022 年  時間:104分  
製作国:日本

スタッフ 
監督:        森井勇佑
原作:        今村夏子
              『こちらあみ子』
音楽:        青葉市子

キャスト
あみ子:       大沢一菜
哲郎(父):      井浦新
さゆり(母):   尾野真千子
考太(兄):     奥村天晴
のり君:       大関悠士
坊主頭:       橘高亨牧
保健室の先生:    播田美保
おばあちゃん:    黒木詔子
学校の先生:     一木良彦

勝手に評点:3.0
  (一見の価値はあり)

(C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    あらすじ

    広島で暮らす小学5年生のあみ子(大沢一菜)

    少し風変わりな彼女は、家族を優しく見守る父(井浦新)と、書道教室の先生でお腹に赤ちゃんがいる母(尾野真千子)、一緒に登下校してくれる兄(奥村天晴)、憧れの存在である同級生の男の子のり君(大関悠士)ら、多くの人たちに囲まれて元気に過ごしていた。

    そんな彼女のあまりにも純粋で素直な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていく。

    レビュー(まずはネタバレなし)

    こりゃ本物のあみ子じゃ

    芥川賞作家・今村夏子のデビュー小説を新人監督の森井勇佑が映画化。

    主人公の少女・あみ子を演じる大沢一菜は、応募総数330名の中から選ばれた新人だというが、ポスタービジュアルに大写しになった彼女の子供らしい顔をみると、「ああ、本物のあみ子がいた!」と感慨にふけってしまう。

    よくもまあ、こんな逸材を見つけ出したものだ。森井勇佑監督、なかなか引きが強い。

    あみ子は広島の郊外に暮らす少女で、優しそうな父親と、妹想いの兄、そして自宅で書道教室を開いている身重の母の四人家族だ。その教室で書道を教わっている子供たちの中に、憧れの同級生のり君もいる。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    自宅の隣の部屋の障子のすき間から、とうもろこしをかじりながらこっそり書道教室を盗み見るあみ子。小学5年生の女子にしては、まだめちゃくちゃ子供っぽい。などと思って見ていると、どうやらそんなレベルではない。

    クラスの同級生たちは、もう小学校高学年の成長ぶりをみせているが、あみ子だけが低学年の子供のような天真爛漫さを維持している。

    これはつまり、いわゆる注意欠如や多動性障害のような症状と思われ、映画や原作には言及されていないが、場合によっては特殊学級の対象となる児童なのだろう。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    クッキー、食べんさい

    実際、本作のなかで、教師のいうことを聞けないあみ子は、規格外の存在(俗にいう、味噌っかす)として扱われている。

    でも、そんなことはお構いなしに、自分の旺盛な好奇心を満足させるべく、本能の赴くままに行動するあみ子が実に頼もしいし、痛快だ。

    あみ子が、自分も母のやっている書道教室に入りたいとお願いすると、

    「あみ子さんは授業中にお行儀よく出来ますか? ボクシングもはだしのゲンもインド人もしないって約束できますか?」

    と、尾野真千子演じる母に体よく却下される。この母親はなかなか厳しそうだ。

    ボクシングは分かるが、広島ならではのはだしのゲンとは、文字通りはだしで歩きまわることだろうか。インド人とは、原作では素手でカレーを食べることだ。映画ではいずれもろくに説明されないが、この隠語の使い方が妙に興味を引く。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    あみ子は誕生日に親からもらった高級なチョコクッキーのチョコをすべてぺろぺろとなめてしまい、もはや普通のクッキーと化した、というか唾液でしっとり仕上げになった代物を、素知らぬ顔で翌日のり君に強引に勧めて食べさせる。

    これは結構身の毛もよだつエピソードだ。顔中チョコだらけにして舐めまくる映像は、原作よりも破壊力がある。

    天真爛漫のあみ子は、誕生日に親からもらったトランシーバーで、生まれてくる赤ちゃんと遊ぶことを楽しみにしている。明るく元気なドラマになりそうな展開だが、なかなかそうはならない。

    けして悪気はないのだが、あみ子のとるちょっとした行動が母親を大きく傷つけてしまい、そこから家族は静かに瓦解していくのだ。

    今村夏子という感性の試験紙

    今村夏子の小説は、まるで読み手の感性を試すリトマス試験紙のようだ。『花束みたいな恋をした』(2021)で菅田将暉有村架純の演じる男女が、感性の指標として今村夏子の作品を例に出し、意気投合していたのを思い出す。

    本作も、「長靴下のピッピ」のような逞しい少女の物語でありながら、内容的には決して読み手を元気にするものではなく、むしろ少女をとりまく環境が厳しさを増していくことに、胸を痛める。

    物語が淡々と描かれているおかげで、何とかあまり塞ぎこまずに観たり読んだりできてはいるが、冷静に考えると、結構救いのない話なのである。

    正直いって、原作を読んだときに、私はこれを素直に「面白い」とは受け止められなかった。もう、感性が錆びついているのかもしれない。

    一方で、森井勇佑監督は、「原作がめちゃくちゃ好きで、これまででいちばん衝撃を受けた小説だった」とまで語っている。リトマス試験紙の反応が私とは大分違う。

    だが、森井監督が原作に惚れ抜き、オーディションで発掘した大沢一菜という才能を使って、見事に映像化したことはきちんと伝わってくる。

    中でも、あみ子が、幽霊の音が聞こえると言い始めて、大声で歌い出す「オバケなんてないさ」。そして、歌を聴いてぞろぞろと登場する古今東西の幽霊たちのちょっと間が抜けた映像。あれには笑った。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    あみ子にだけ聞こえるガサガサというオバケの音は、まるでアピチャッポン監督のタイ映画『MEMORIA メモリア(2021)でティルダ・スウィントン演じる主人公を悩ます異音のようだった。

    レビュー(ここからネタバレ)

    ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。

    家族は崩壊していく

    物語が転機を迎えるのは、生まれてくるはずの弟が死産になってしまったことからだ(正確には、生まれてすぐに亡くなる)。あみ子がのり君に頼んで墓碑を作ったことで、それまで悲しみをこらえていた母親が爆発し、精神を病んでしまう。

    そして、それまでは妹想いだった兄まで、突然に不良まっしぐらとなり、学校で恐れられる存在になる。兄がグレるのは分からないでもないが、母親の崩れ方はちょっと極端だ。

    それに、妊娠中からあみ子には相当厳しくあたるのは、継母だったからなのか不明だが、あみ子が誕生日にもらった使い捨てカメラで、母の言いつけを守らずシャッターを押してしまったくらいで超絶に塩対応するのも解せない。

    そして、井浦新が演じる一見優しい父親も、実は何ひとつ親らしいことをせず、ただ子供を放任しているだけなのが歯痒い。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    のり君は、中学生になって保健室であみ子の顔をボコボコに殴る暴挙に出る。これは、かつて、べろべろ舐めたチョコクッキーを食べさせられた事件が発覚した衝動的行為で、さすがに暴力はいけないが、怒る気持ちは分かる。

    周囲の人々が一様にあみ子に手を焼くなか、名前さえ与えられない坊主頭の同級生が、口は悪いもののあみ子を気にかけてくれるのがせめてもの救いだ。この少年とのやりとりは心が和む。

    「のり君は、あみ子のこと気持ち悪かったんかね?」

    嫌われた理由を教えてほしいと、あみ子が真剣な表情で坊主頭にせがむ。小柄の身体にぶかぶかの制服の中学生のあみ子には似合わない、はじめて見せる大人の眼差しだ。

    (C)2022「こちらあみ子」フィルムパートナーズ

    エンディングは原作より切ない

    原作は、デビュー前の今村夏子がバイト先で突如「明日休んでくれ」と言われ、思いつくままに小説を書き殴ったのが発端らしい。なので、凝った構成や技巧に走らず、迸る感情をストレートに書き綴っている。

    そして、優しいだけの父親は、最後にあみ子を田舎の祖母の家に置き去りにする。離婚したとも兄はどうしたとも言わず、ただ田舎の家にあみ子を連れて行き、「ここで暮らせ」といって帰っていく。

    原作があえて省略したと思われる、この別れの場面が映画にはある。だから、一層彼女が不憫にみえる。

    でも、はたしてあみ子には、家族と離れ離れになって寂しい気持ちが湧いているのだろうか。

    自閉症スペクトラムの息子と父を描いたイスラエル映画『旅立つ息子へ』(2021)では、別れに涙ぐむ父親に対して、何の感情もみせない息子がとても印象に残っている。本作のあみ子も、それに近いリアクションにみえた。

    原作には、祖母と二人で暮らすようになったあみ子が、以前にのり君に殴られた時の歯抜けのままで、近所の小さな女の子と遊んでいる場面が冒頭にある。家族と離れても元気に楽しく過ごしていることで、ちょっと安心する。

    一方、映画では例の古今東西の幽霊たちが何艘ものボートに乗って海からあみ子に手招きするシーンで終わる。だがあみ子はバイバイと手を振るだけだ。このエンディングはユーモラスではあるが、彼女の孤独さが強調されるように思う。

    ただ、そんな寂しさを、青葉市子のエンディング曲が和ませてくれるのは、ありがたい。それにしても大沢一菜もはやあみ子本人にしか見えない。

    最後にロケ地紹介を。広島県呉市の旧小坪小学校の前。あみ子たちが使っていた通学路。小学校は当時から廃校だったが、現在はその保健室にカフェがあるらしい。