『きみの鳥はうたえる』
佐藤泰志の函館映画シリーズ。二人の男と一人の女が若さを謳歌する函館の夏の夜が心地よい。夜通し遊んだ朝が、なんとも絵になる街だ。
公開:2018年 時間:106分
製作国:日本
スタッフ 監督: 三宅唱 原作: 佐藤泰志 『きみの鳥はうたえる』 キャスト 僕: 柄本佑 佐知子: 石橋静河 静雄: 染谷将太 森口: 足立智充 みずき: 山本亜依 直子: 渡辺真起子 島田店長: 萩原聖人
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
函館郊外の書店で働く<僕>(柄本佑)は、失業中の静雄(染谷将太)と小さなアパートで共同生活を送っていた。
ある日、<僕>は同じ書店で働く佐知子(石橋静河)とふとしたきっかけで関係をもつ。
彼女は店長の島田(萩原聖人)とも抜き差しならない関係にあるようだが、その日から、毎晩のようにアパートへ遊びに来るようになる。
こうして、<僕>、佐知子、静雄の気ままな生活が始まった。
今更レビュー(ネタバレあり)
どんな作品でも、函館と似合ってしまう
佐藤泰志原作の函館映画シリーズの今のところの最新作にあたる。
目下映画化が進んでいる『草の響き』と同様に、原作は東京の武蔵野・国立界隈が舞台だが、映画では函館の話に置き換えられている。
これまでの他の映画化作品にも言えることだが、佐藤泰志の作品はやはり函館と相性が合うし、ご当地映画化のような陳腐な町の風景の切り取り方もしていないので、本作の舞台設定を変更したのはいい判断だったと思う。
まあ、そもそも函館市民映画館シネマアイリスの開館20年記念作品なのだから、ロケ地は予め決まった話なのだろうが。
バイト先の書店での勤務態度も悪く、流されながら自堕落に生きる<僕>(柄本佑)と、共同生活をしている失業中の静雄(染谷将太)、そしてバイト先の書店で知り合った佐知子(石橋静河)の青春グラフィティ。
映画の大半は、この三人が面白おかしく過ごす函館の夏のひと時に費やされている。
◇
主人公の<僕>は、バイト先の書店の店長(萩原聖人)が従業員の女性と二人で帰るところに鉢合わせし、すれ違いざま彼女に肘を触られた気がして、その後しばらく秒読みしながらその場で立ち尽くす。
やがて彼女が颯爽と戻ってきて「よかった、心が通じたね」と微笑む。佐知子と名乗るこの女性と親しくなる場面は、実に映画的だ。石橋静河のやや低めのトーンの声が心地よい。
三人で共有する函館の楽しい時間
二人はすぐに、店頭で視線を交わし、貪るように唇を求めあう仲になる。
二人が裸で抱き合っている部屋に帰ってきた静雄は、気を回してそのまま外出する。なにかと不誠実な<僕>と違い、静雄は気の優しい、いいヤツなのだ。
飲み明かした<僕>と静雄が、夜明けの路上でクラブの前に飾られていた開店記念の大きな花籠を盗んで持ち帰り、部屋中を生花だらけにする。これだけで男同士の仲の良さが伝わる。
◇
いつの間にか佐知子は静雄とも親しくなり、ともに遊び歩くようになる。
おカネのない男性陣がコンビニで彼女に酒盛りのついでにいろいろ買ってもらったり、ビヨ~ンと口琴を鳴らしたり、楽しそうにビリヤードや卓球に興じたり。
三人と三宅唱監督が函館ロケで長い時間を一緒に遊んで過ごしたことで、この自然体の楽しさが画面からにじみ出ている。これをただ眺めているだけでも、妙に満たされた気持ちになる。
原作の行間を音楽で埋める
本作のタイトルはビートルズの『And Your Bird Can Sing』に由来する。
原作では、静雄の荷物はビートルズのレコードが数枚あるだけで、でもプレイヤーがないのでこの曲を歌ったという記述がある。ただ、映画では特に語られなかった気がする。
まあ、ビートルズの曲名由来の邦画は、『ノルウェーの森』も『ゴールデンスランバー』も内容とは直接関係なかったので、タイトルの深読みは不要かもしれない。最新の『ドライブ・マイ・カー』はどうだろうか。
◇
ビートルズではないが、本作では、音楽の使い方がなかなかカッコいい。
三宅唱監督は音楽制作のドキュメンタリー『THE COCKPIT』で出会ったSIMI LABのHi’SpecとOMSBを本作でも音楽やラップの場面などで起用しているが、これが見事に決まっている。
特にクラブのシーンは、まさに一緒に小バコの中で音楽を浴びているようなグルーヴ感だ。フロアで踊る佐知子たちも、演じている感じはしない。
場面は違うが、カラオケで石橋静河が歌う『オリビアを聴きながら』もいい感じだった。あれはハナレグミとスカパラバージョンかな?
突然炎のごとく シズオとボク
「男二人と女一人の映画撮るなら、トリュフォーより面白いもの撮れる気あるのか?」
とは、佐藤泰志の函館映画第一弾『海炭市叙景』の熊切和嘉監督の言葉だそうだ。今泉力哉監督の『街の上で』に引用されていた。
本作の三人の男女はまさにその黄金比率。二人の男を翻弄するのかと思ったが、佐知子はファム・ファタールという訳ではない。
◇
佐知子の気持ちが、不誠実でガサツな<僕>から、次第に気立ての優しい静雄に移ってしていくのは無理もない流れだ。
静雄とデートする時も、旅行に行くときも、そしてきちんと付き合うことに決めた時も、いちいち<僕>に報告するところは佐知子らしいし、そこで嫉妬に悶えて荒れ狂うこともない<僕>の余裕も男らしい。
おいおい、男の余裕はどうしたよ
ここからネタバレしている部分がありますので、未見・未読の方はご留意願います。
さて、この<僕>の懐の深さを見せるシーン。映画はラストにさしかかり、静雄と付き合うことに決めたと朝っぱらの路上で佐知子に正面切ってフラれる。
別れた後でひとり国道沿いで、出会った時のように秒読みを始める<僕>。だが、今度は彼女は戻ってこないぞ。
そこで<僕>は全力疾走で佐知子をつかまえ、「さっきのは全部ウソだ。本当にあいつと付き合うのかよ」と迫る。おいおい、男の余裕はどうしたよ。
困った佐知子が、最後に何かを言おうとして、映画は終わる。観客に丸投げされた格好だ。
◇
ここまで青春映画として高く評価していたのだが、私は最後で萎えた。えっ、こういう原作なの?
そして観終わってから原作を読んで愕然とする。ラスト、全然違うじゃん。
原作の読後感との違い
三宅唱監督は過激なシーンやバイオレンスをなるべく避けたかったのかもしれない。
例えば、<僕>に口やかましくしてトイレで殴られ、最後にはバットで襲い掛かった書店の先輩・森口(足立智充)は、原作ではチンピラ二人に<僕>を襲わせ、半死の目に遭わせるのだ。より卑劣かつ暴力的といえる。
◇
そして決定的な違いは、映画では入院して終わった静雄の母(渡辺真起子)の扱い。原作では、精神病院に入った母の姿に動揺した静雄が、母を絞殺してしまい、逮捕されたところで終わるのだ。
見かねた母を安楽死させてしまう親友を心配しながらも、警察の聴取に応じる<僕>。短編小説ならではの、エッジの効いた幕切れだ。
この作品の映画化が、どっちの男を選ぶかなどという、平和ボケしたラストで良かったのだろうか。
◇
最後に佐知子が何を言おうとしたのか、そこに大きな意味はないからこそ、あのラストなのだろうが、もはや何の関心もなくなってしまった。
本作は、佐藤泰志が魂を削って世に出した作品の一つであり、芥川賞の候補にもなった代表作だ。
映画と原作は別ものですと言われればそれまでだが、最大にインパクトのあるラストの悲劇を完全スルーして、楽しい時間だけを映像化した意図を、ぜひ制作者に聞いてみたい。