『ミツバチのささやき』
El espíritu de la colmena
スペインが誇る寡作の名匠ビクトル・エリセ監督の長編第1作であり、代表作でもある。観る者の誰をもとりこにしてしまいそうな、純真無垢な少女アナと、怪物の姿をした精霊との邂逅。生涯忘れられない一作になり得る傑作。
公開:1973 年 (日本公開1985年) 時間:99分
製作国:スペイン
スタッフ 監督: ビクトル・エリセ キャスト アナ: アナ・トレント イサベル(姉): イサベル・テリェリア フェルナンド(父): フェルナンド・フェルナン・ゴメス テレサ(母): テレサ・ヒンペラ ミラグロス(使用人): ケティ・デ・ラ・カマラ フランケンシュタイン: ホセ・ビリャサンテ 逃亡者: ジュアン・マルガロ
勝手に評点:
(何をおいても必見)
コンテンツ
あらすじ
スペイン内戦が終結した翌年の1940年、6歳の少女アナが暮らす村に映画「フランケンシュタイン」の巡回上映がやってくる。
映画の中の怪物を精霊だと思うアナは、姉から村はずれの一軒家に怪物が潜んでいると聞き、その家を訪れる。するとこそには謎めいたひとりの負傷兵がおり……。
今更レビュー(まずはネタバレなし)
懐かしのシネ・ヴィヴァン六本木
2017年、不滅の映画にもう一度スクリーンで出逢おうという企画「the アートシアター」の第1弾として、本作のデジタルリマスター版が全国のミニシアターで公開された。
思えば、当初の日本公開時も、この映画はミニシアターブームの盛り上げに貢献し、私も懐かしのシネ・ヴィヴァン六本木に足を運んだ。
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主人公の6歳の少女アナを演じたアナ・トレントの、零れ落ちそうに大きな瞳とあどけない表情があまりに印象的なポスター・ビジュアル。
1985年日本公開なので、彼女は当時まだ子役なのだと思っていたが、スペイン公開ははるか昔の1973年、アナは1966年生まれと知り、世代的には親近感を持つ。
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監督はスペインの名匠ビクトル・エリセ。本作が長篇第一作になる。
寡作で知られる監督だが、50年超の監督キャリアで、長篇作品は本作(1973)、『エル・スール』(1982)、そしてドキュメンタリーの『マルメロの陽光』(1992)のわずか三本しかない。
一本目にこんな傑作を撮ってしまうと、充電するのに相応の時間は必要ということか。10年に一本ペースかと当時は感心していたものだが、ここ30年は監督も長考モードに入られている模様。新作が待ち遠しい。
ハチの巣のような家に住む家族
舞台は1940年頃のスペインはカスティーリャの小さな村。映画の巡業が訪れて、公民館で『フランケンシュタイン』の映画をかける。路上でラッパを吹いて、声を張って映画の宣伝をする女。食い入るように映画に見入る子供たち。
「その中心には、アナと姉のイサベル(イサベル・テリェリア)。ちなみに、幼いアナを混乱させないように、映画の役名は俳優の実名をそのまま使っているという。
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老いた父親フェルナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)は養蜂家。若き妻テレサ(テレサ・ヒンペラ)は、返事のない相手に手紙を書いては汽車に投函する。
屋敷の窓には、ハチの巣のような幾何学模様の格子が嵌められ、まるで巣箱の中に暮らしているようだ。スペイン内戦の終結やその後の混乱を反映するかのように、家の中で夫婦仲は冷え切って見え、家庭の温かみは感じられない。
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本作の公開当時は、フランコ総統による独裁政権も厳しさを失っていたとはいえ、検閲を通過するために、直接的な政権批判は象徴化によって巧みに避けられていた。
観る者が観れば、あちこちにスペインの政権批判が感じ取れる。だが、そんな歴史的背景には(私のように)気づかずとも、この映画の魅力は十分に堪能できる。
アナと精霊との出会い
家の中は殺伐としていても、アナとイサベルは無邪気に楽しそうに遊んでいる。巡業の映画の中で、なぜ少女とフランケンは殺されたのか、アナがイサベルに尋ねる。
「映画だから全部ウソなのよ。怪物は村はずれの一軒家に生きているわ。私見たもの。精霊なのよ」
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見渡す限りの平原の向こうに井戸のある空き家がある。イサベルと探検に向かったその空き家で、アナは大きな足跡をみつける。
そして後日、今度は一人で空き家を訪ねたアナは、そこで脱走兵らしき男(ジュアン・マルガロ)に出会い、持っていたリンゴを手渡す。
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イサベルが出まかせで語っていたであろう怪物が、本当に現れてしまったのだ。アナは怖がらずに、今度は男に食事のほか、父のオーバーを持っていく。服のポケットには美しい音色の懐中時計。
アナは母に教わったように、精霊の前では、いい子でいようと思う。彼女の好意に、男は笑顔を見せるようになる。
息をのむほど美しいシーンたち
スペインの分裂の悲劇を暗喩した映像には、明るい陽射しは少なく、村も家の中も暗鬱としたトーンが中心だ。だが、その映像は奇跡のように美しい。
幼い姉妹がはるばると家から歩いて向かう平原のかなたに見下ろす井戸のある空き家、姉妹が長く続く直線の線路に耳を当てると次第に近づいて来る蒸気機関車、姉妹が夜の子供部屋の壁で影絵を使い会話するシーン。
映像だけではない。タイトルにもあるように、寝室を中心に姉妹の会話の多くが囁くような声で成り立っており、それは、えも言われぬ魅力を作り出している。
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アナもイサベルも天使のように可愛い、というか美しい顔立ちなのはよいとして、幼い頃からピアスをしていたり、二人とも夜はパジャマ、昼はお揃いのコートを着て、革靴を履き、小さなトランクケースを持っていたりと、混乱の時代でも身なりや持ち物がきちんとしているのは、さすが欧州文化。
今更レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
その火を飛び越えて来い
アナはまだ6歳だ。精霊の存在を信じ、会って話をしたいと思っている。イサベルは少し年上なので、もう精霊など信じておらず、猫に引っ掻かれた傷の血をルージュのように唇にひいて大人ぶってみる。
焚火の上をふざけて飛び越える遊びも、どこか少女から大人への儀式のように見えた。(それにしても、あの火遊びは怖すぎる。火傷しなかったのか?)
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アナが施しを与えた脱走兵は、その晩銃撃されてしまう。遺体は、皮肉なことに『フランケンシュタイン』の上映された公民館に置かれた。男の所持品の懐中時計から、アナの父親が呼び出される。
不審に思った父は、家族の食事中に懐中時計の音を鳴らしてみる。すると、アナが目をそらす。何とも子供らしい動作だ。
アナは井戸の空き家に行ってみると、脱走兵がいない。そこに尾行してきた父が声をかけるが、そのままアナは失踪してしまう。
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警察や村の人々が夜通しアナを山狩りで捜索するなか、彼女は森の中でついに本当にフランケンの姿をした精霊と出会う。この時の彼女の驚きの表情は、演技のようには見えない。
なぜ怪物は殺されたの?
フランケンに出会う前に、アナがキノコをみつけるシーンが挿入される。前半で父親が姉妹に教えてくれた毒キノコにも見える。精霊は、毒キノコによる幻なのか?
だが、古来、幼い子供には精霊が見えやすいものだし、その方が映画としては夢がある。
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前半、毒キノコが父親に踏みにじられる様子を、アナは凝視する。このカットには、どんな意味が込められている?
「なぜ、怪物は女の子を殺したの?なぜ怪物も殺されたの?」
『フランケンシュタイン』を観たアナは、イサベルに問いかける。この映画は、1931年に公開された実在の作品だ。私もAmazon Primeで実際に観てみた。便利な時代になったものだ。
本作では明示されないが、フランケンは、少女が花びらのように水に浮くと思って、湖に放り投げて溺死させてしまうのだ。そこに殺意はない。
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アナには、善悪のルールがみえない。そして、父が踏みにじる毒キノコも、アナには、なぜ忌み嫌われるのかが、分からない。フランケンもキノコも、誰かの勝手な判断基準によって殺されてしまうのだ。
アナが健気に庇護した脱走兵も、フェルナンドが懐中時計を取り返した途端に血痕とともに姿を消した。父に殺されたと誤解するのは無理もない。
ガラスの巣箱からの解放
アナの住む家は、ハチの巣と同じ構造を持つものとして描かれている。そこには、家族の動きを冷静に観察している父がいる。これは、更に当時のスペインそのもののメタファーでもあるのだろう。
その中でアナは精霊という檻の外の存在に手を伸ばし、再会を求めて「わたしはアナ」と語りかける。これは、独裁政権からの解放を求める叫びではないか。
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本作が作られた当時の、スペインの歴史的背景を知らずとも、本作は純真無垢な少女と精霊の物語として十分に見応えのある作品だ。
だが、ビクトル・エリセが監督生命を張って、そこに忍ばせた痛烈な政権批判を、やはり観る者としては汲み取ってあげたい。その意味では、今回久々に観直した甲斐があったと思う。