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はじめに
懐かしのウォン・カーウァイ1960年代シリーズの三作を一気通貫にレビュー。近年では一部デジタルリマスター版が上映される等、嬉しい動向もありました。
数日前から、陳浩基の傑作華文ミステリー『13・67』を読み直していて、そういえばウォン・カーウァイが映画化権を取得したんだったなあ、と思ったばかり。
そして偶然にも今週NETFLIXで彼の監督した三作品のレストア版が配信開始というので、一気に見入ってしまいました。すっかり香港60‘sムード一色に染まった一週間です。
01 『欲望の翼』 (1990)
02 『花様年華』 (2000)
03 『2046』 (2004)
『欲望の翼』
Days of Being Wild
ウォン・カーウァイ監督の長編第2作となる青春群像劇がデジタルリマスターで復活。冴えるカメラワークと息をのむ美術設定の美しさ。もう会えないレスリー・チャンはじめ、アンディ・ラウ、マギー・チャン、カリーナ・ラウも、みんな若い!1960年代シリーズの三作を一気通貫にレビュー。
公開:1990 年 時間:97分
製作国:香港
スタッフ 監督: ウォン・カーウァイ 撮影: クリストファー・ドイル キャスト ヨディ: レスリー・チャン スー・リーチェン: マギー・チャン ルル/ミミ: カリーナ・ラウ タイド: アンディ・ラウ サブ: ジャッキー・チュン レベッカ: レベッカ・パン ギャンブラー: トニー・レオン
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
あらすじ
1960年の香港。サッカー競技場の売店の売り子スー・リーチェン(マギー・チャン)は、ある日ヨディ(レスリー・チャン)という青年に口説かれる。
1度は断ったスーだったが、やがてヨディに惹かれ始める。だが、結婚を望むスーに対してヨディにはそのつもりはなく、傷ついたスーはヨディの元を去る。
やがてヨディはクラブのダンサーのミミ(カリーナ・ラウ)と付き合い始めるが、ヨディの親友サブ(ジャッキー・チュン)はミミに恋心を抱き、傷ついたスーを慰めた警官タイド(アンディ・ラウ)は彼女に惹かれていく。
一気通貫レビュー(ネタバレあり)
二人にとって生涯忘れられない1分間
ウォン・カーウァイ監督の名を一躍世界に知らしめた長編第2作で、あの独特のスタイリッシュな雰囲気とスタイルは、本作で既に確立されている。
1960年代の香港の若者たちが織り成す恋愛模様が、実にみずみずしく描かれている。と、言葉にすると赤面しそうなコメントだが、映画の冒頭、青年ヨディ(レスリー・チャン)がサッカー場の売り子のスー・リーチェン(マギー・チャン)を口説くシーンには、もっと気障な台詞を耳にできる。
◇
初日に「夢で会おう」とヨディが口説いても、まだスーに相手にされないが、翌日にしぶとく再挑戦。
「夢で会えなかったわ」
「眠れてないな?」
そして一分だけ二人で一緒に時計をみつめて、
「1960年4月16日15時1分前、君は俺といた。この一分を忘れない」
となっていくのである。そしていつの間にか、ヨディとスーは深い仲になる。
捨てる彼あれば拾う彼あり
そして舞台は変わり、今度はヨディの義母レベッカ(レベッカ・パン)につきまとう男が縁となって、クラブのダンサーのミミ(カリーナ・ラウ)と付き合い始める。まあ、次々と女を抱いては捨てていくタイプの男なのだよ、ヨディは。
「いずれ必ず俺を嫌いになるよ」一度捨てたスーには冷たいヨディ。部屋にいるミミと、雨の夜に訪れたスーの鉢合わせ。さして修羅場な感じではない。
◇
恋に破れ、大雨の街頭でひとり佇むスーに優しく声をかける巡回中の警官タイド(アンディ・ラウ)。なんともいい感じの出会い方だ。
本作の主演は勿論レスリー・チャンなのだけれど、私はこの、優しさと素っ気なさの絶妙バランスで、まだ初々しさの残るアンディ・ラウのシーンが好きだ。
◇
仕事中に立ったままオレンジをひと房ずつ口に放り込み、スーを慰めるタイド。
「話相手が欲しくなったら、公衆電話にかければ、この時間なら俺がいるよ。」
公衆電話で、ではなく公衆電話にかけるのだ。街頭の電話ボックスが鳴って、彼が受話器を取る仕組みの、何と不便で愛くるしいことよ。携帯では出せない時代の風情がある。
ヨディとの一分が忘れられない傷心のスーは、こうしてテディと親しくなっていく。
単なるスタイリッシュとは違う味わい
一気に見た三作全てに言えることだが、撮影監督のクリストファー・ドイルによるカメラと、ウィリアム・チャンの美術の仕事の素晴らしさには圧倒される。
本作では、やや青みがかったような粗い粒子の画面から、雨の匂いがしそうな夜の市街や緑の路面電車の鈍い輝き。狭い室内空間をものともしない器用なアングルの活用や鏡の効果的な多用。
スタイリッシュというのとはちょっと違う。美しいのだがこれ見よがしな映像ではないので、観る者は気持ちよくドラマに引きこまれていけるのだと思う。
脚のない鳥は死ぬ時だけ地上に降りる
ダンサーのヒモになって私と暮せばいいと誘うミミを、愛車とともに親友のサブ(ジャッキー・チュン)にあてがい、ヨディは自分を手放した本当の母親を尋ねて、フィリピンへと旅立つ。
だが、母親は彼に会おうとせず、それならばと、ヨディも顔を見せずに踵を返す。
実母に棄てられた彼は、女を平気で棄てられる男になってしまったのか。生き様もどこか捨て鉢なところがある。
「脚のない鳥は飛び続け、地上に降りるのは死ぬ時だけ」
それが自分の生き方だと自負している。
自暴自棄になったヨディは偽造パスポートにカネを払わずトラブルを引き起こす。
ヨディを懸命に助けようとしたのは、前日に路上で泥酔し倒れていた彼を偶然みつけ介抱したタイドだった。彼は、警官をやめ香港を離れフィリピンで船乗りになっていたのだ。
ヨディにとっては面識のない相手だが、ラウ警部、もとい元警官タイドは優秀だから、ヨディが以前にスーの付き合っていた男だと覚えていた。
列車内で撃たれて瀕死のヨディに、タイドが語りかける。
「1960年の4月16日15時に何していたか、前の彼女がよく俺に質問してきたんだが、お前は何してた?」
「その子といたよ」
「覚えてたのか」
「あの日を忘れてたと言っておけ。お前たちのためだ」
死ぬ前の会話としては、なかなか洒脱ではないか。ヨディは意外とちゃんとしたヤツなのかもしれない。
◇
彼らがフィリピンでそんな会話をしている頃、スーは別れてしまったタイドのいるはずの時間に公衆電話を鳴らすのだ。この伏線回収がいい。そしてミミは、サブがヨディからもらった愛車を売ったおカネでフィリピンにヨディを訪ねてくる。
唖然とするような尻切れトンボ感
本作は監督のこだわりのせいか予算も時間も尽きたので、本来の二部構成の予定が前半で終わってしまった。
最後に唐突に出てくるトニー・レオンは後半の主役予定だったそうなので、ここだけ登場させても映画としては破綻している。
ほかのメンバーにしても、まだ後半でやり残した仕事がありそうで、どうにも成仏できていない印象を受ける。そのモヤモヤ感をもって、登場人物名や設定が微妙に重なる、他の二作に繋がっていくのである。
◇
ウォン・カーウァイ監督の青春群像映画としては『恋する惑星』の甘酸っぱい感じが好きなのだが、その原型とも思える本作もなかなか捨てがたい。
あっちの警官はトニー・レオン、こっちの警官はアンディ・ラウというインファナルな関係もまた、香港らしくてたまらない。