『スパイの妻』 考察とネタバレ:ヴェネツィア銀獅子賞受賞、お見事です

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『スパイの妻』 

黒沢清監督初の歴史ドラマは不気味な世界から離れ、国家秘密を知り行動にでる男とその妻の運命を描く。戦争前夜の神戸。洋装の妻・蒼井優、三つ揃えの夫・高橋一生、夫婦を追う憲兵服の東出昌大が絵になる。

公開:2020 年  時間:116分  
製作国:日本

スタッフ 
監督:   黒沢清
脚本:   濱口竜介、野原位
音楽:   長岡亮介
キャスト
福原聡子: 蒼井優
福原優作: 高橋一生
津森泰治: 東出昌大
竹下文雄: 坂東龍汰
駒子:   恒松祐里
金村:   みのすけ
野崎医師: 笹野高史

勝手に評点:3.5
(一見の価値はあり)

あらすじ

1940年、戦争の足音が日本に近づいてきた神戸。聡子(蒼井優)は貿易会社を営む福原優作(高橋一生)とともに、瀟洒な洋館で満ち足りた生活を過ごしていた。

ある日、優作は甥の竹下文雄(坂東龍汰)と、物資を求めて満州へ渡航し、偶然、衝撃的な国家機密を目にしてしまう。二人は現地で得た証拠と共にその事実を世界に知らしめる準備を秘密裏に進める。

一方、何も知らない聡子は、幼馴染でもある神戸憲兵分隊本部の分隊長・津森泰治(東出昌大)に呼び出される

今まで通りの穏やかで幸福な生活が崩れていく。

レビュー(まずはネタバレなし)

いつものクロサワ映画ではない

2020年6月にNHK BS8Kで放送された同名ドラマを、スクリーンサイズや色調を新たにした劇場版として劇場公開。ヴェネツィア国際映画祭では、北野武『座頭市』以来17年ぶり銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞している。

舞台は太平洋戦争前夜の神戸。黒沢清監督が歴史ドラマを撮るのは初めてではないか。いつものクロサワ映画を想像していると、大きく裏切られる。

不気味さや不吉な気配はあまり感じさせない。ショッキングな死体も異形のものも登場しない。どうやって探し出したのか感心するような奇妙な建物もロケ地にない。そして、お約束だった、不安な心情を映すように風になびくレースのカーテンが出てこない。

前作の『旅のおわり世界のはじまり』も、ちょっと毛色の変わった作品ではあったが、それでも異界とつながる不気味さを感じさせるシーンに、黒沢色がみられた。

だが、本作はあえて、それを排除し、張りつめた時代の空気感をだすことに成功している。長岡亮介の音楽も、そこに美しく調和している。

今回あえて作風を変えているのは、監督の慧眼だと思った。ここで洋館のカーテンをはためかせて不安を煽ると、丹精に組み立てた世界観が軽薄にみえてしまう気がするからだ。

いかにも怖くなりそうな桟橋のシーンで、唯一登場する遺体の見せ方が控えめだったのも、別にNHKを配慮した訳ではないだろうが、正解だったと思う。

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スパイ、その妻、そして憲兵隊長

主演の二人、蒼井優高橋一生はタナダユキ監督の『ロマンスドール』でも夫婦役を演じているが、本作においても息の合ったところを見せてくれる。というか、両者とも抜群の演技力で知られる俳優であり、絶大な安心感がある。

蒼井優は、題名通りスパイの妻として主役を張っており、特に中盤以降は彼女の活躍の場となる。夫への嫉妬と愛情、さらには狂気も感じさせる熱演ぶり、難しい台詞回しも難なく乗り切る女優根性がいい。

黒沢作品では『岸辺の旅』で主人公の浮気相手役で、ワンシーンながら存在感のある役を演じていた。あの男を翻弄する小悪魔的な笑みが、本作でも活かされる。

一方の高橋一生は黒沢組初参加ながら、三つ揃え姿もサマになる堂々の貿易商社社長である。本心のありかを見せないミステリアスな役だが、少しトーンを抑制した演技で、映画的には妻を引き立てる。

露天商から売り物の高級舶来時計を全部買い占めるシーンなど、高橋一生でなければ、ただのキザな成り金野郎に見えてしまうだろう。

「僕は君に嘘を付けない、だから聞かないでくれ」
屁理屈が似合う。さすが鶏のから揚げの檸檬の不可逆性を説いて世間を唸らせた男だけはある(テレビドラマ『カルテット』より)。

憲兵の分隊長・津森泰治を演じた東出昌大は、黒沢作品では『クリーピー 偽りの隣人』『散歩する侵略者』、また本作脚本の濱口竜介が監督の『寝ても覚めても』という繋がりもある。

聡子の幼馴染だが、次第に憲兵分隊長として二人を追い込んでいく役であり、サディスティックに爪をはいで拷問するようなキャラと、彼の人間味をださない芝居がマッチしていて、結構怖い。東出は、この手の役が合う。

ちなみに、蒼井優東出昌大は、沖田修一監督の『おらおらでひとりいぐも』(投稿時点では公開前)では夫婦役で共演しているようだ。

解決されるべき、数々の謎

優作と甥の文雄は、なぜ満州から秘かに女を連れ戻ってきたのか、なぜ文雄は突然会社をやめて旅館にこもって執筆活動を始めたのか、なぜ優作はその女とアメリカに渡ろうとしたのか。

油紙に包まれたノート、金庫に隠されたフィルム、別の顔を持ち始めた夫。

本作は本格的なサスペンスではなく、従って公式サイトにも、ある程度のストーリー説明がなされているが、それを知ってもなお、これらの謎が夫婦の会話から解き明かされるシーンには、見応えがある。

レビュー(ここからネタバレ)

ここからは、多少内容について触れていくので、未見の方はご留意願います。

コスモポリタンの妻

殺された有馬の温泉旅館の仲居・草壁弘子(玄理)を満州から連れ帰り仕事を紹介したのは優作だと、聡子は泰治に聞かされる。

夫への不信感と女への嫉妬心。満州に同行し秘密を知る文雄を問い詰めると、「あなたは何も分かっていない、何も見ていない」と反駁される。

優作に英訳を頼まれた原稿だと、文雄から聡子に託された秘密書類。彼女はそれを夫に突き付け、答えを聞く。

「満州で僕たちは死体の山を目撃した。それは関東軍の細菌戦研究の犠牲者だ。草壁弘子は内情を知る看護婦。細菌戦研究の証拠を文雄に英訳させた。これをアメリカで公表すれば戦争が始まり日本は負けるだろう」

それではスパイとその妻として、自分たちは逮捕されてしまう。動揺しそれを制する聡子に優作はいう。

「これを見たのは偶然だが、黙ってはいられない。僕はコスモポリタンだからだ

いや~、痺れる、高橋一生! この時点での主役は完全に優作だ。コスモポリタンという言葉の響きが、ウルトラマンのように思え、大江千里の唄が頭をよぎる。

細菌兵器研究を阻止しようとする人道的な行為は、シンドラーや杉原千畝と並び称されるべきなのかもしれない。

聡子はスパイと呼ぶが、誰に雇われている訳でもない。ならば、『コスモポリタンの妻』、或いは『売国奴の妻』という題名が正しいのだろう、動員観客数に響きそうだが。

正義と幸福のどちらを選ぶ

正義と幸福を比べたら、夫との幸福な生活を選ぶであろう聡子は、正義漢の優作と意見がかみ合わない。

だが、夫婦で目的が異なっても、行動は一致していく。愛する夫の支えとなり、ともに危険を冒して渡米することは、自分にとっても幸福なことと感じ始めるのだ。

だから、草壁弘子が殺され、自分の密告で文雄が憲兵に逮捕され拷問されても、むしろ聡子の充足感は増していく。夫とのアメリカへの逃避行に向けて。

夫と妻が別々に密航し亡命しようとなってからの展開は、率直に言って急に雑になったような気がする。

妻は幸福を求めたが、夫は異なるものを追いかけていたのだ。そのために足手まといになる聡子を切り捨てたのか、或いは、彼女を巻き込まないための愛情だったか。

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気になった点をいくつか

難点がいくつかある。

NHKの8K番組という出自ゆえの予算制約なのか、画面制約なのか、どうにも室内のチマチマした画面が主体で、広角な絵がたまに挿入されないと、息苦しい。優作の忘年会用自主映画のほうが、画角が広いと感じるほどだ。

神戸の街並みを思わせるショットも殆どなく、台詞回しも相まって、演劇をみているような錯覚に陥る。六甲の氷で洋酒、有馬温泉の地名でやっと神戸を認識する程度。

軍国主義的な部分も頑張って醸し出してはいたが、黒死病の細菌兵器研究といった大きなものを相手にするには、やや苦しい気がした。

映画フィルムやチェス盤に関する小ネタの伏線回収はきちっとできていたのはスッキリするが、どちらも読めてしまったのは少々物足りない。

「お見事です」が考えさせるもの

最後になったが、優作と別れたあとの、彼の遺したフィルム、或いは神戸の空襲を前にした聡子の「お見事です」の決め台詞は、しっかり決まっていたと思う。違和感はないし、印象に残った。

ただ、この台詞からみれば、本作に反戦映画のメッセージ性を持たせる意図はないのだろう。全ての映画が反戦映画である必要はないが、少々複雑な心境だ。

空襲が優作の目論んだ結果にみえるのは、聡子の過大評価なのかもしれないが、まだ盲目的に夫を愛しているのである。

歴史ドラマだからか、監督のこだわりでラストに字幕を入れたそうだ。私は海辺のシーンで終わらせたほうが、黒沢作品らしいと感じたが、ここは好みが分かれるところかもしれない。

TVドラマ版は環境がなく観られなかったが、NHKと言われればそれらしく見えるし、黒沢監督作品と知ってから観れば、やはりそう見えてしまう。本作だけを観て、監督の名前を言い当てる自信はない。

はたして、監督の次作は不気味路線に回帰してくれるのだろうか。なんだかんだ言って、ちょっと寂しい。

以上、お読みいただき、ありがとうございました。ノベライズ版、コミック版も出ています