『もう終わりにしよう。』
I’m Thinking of Ending Things
チャーリー・カウフマンだが笑えない、何もでてこないけど怖い。そして謎が解ける時、悲しみに気づく。といっても、映画は結構難解。原作との相互補完で楽しむことをお勧めしたい。
公開:2020 年 時間:134分
製作国:アメリカ
スタッフ 監督・脚本: チャーリー・カウフマン 原作: イアン・リード 『もう終わりにしよう。』 キャスト ジェイク: ジェシー・プレモンス 恋人: ジェシー・バックリー 母親: トニ・コレット 父親: デヴィッド・シューリス
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
冬のある日、ジェイク(ジェシー・プレモンス)は恋人(ジェシー・バックリー)を両親に紹介するため、彼女を連れて車で実家の農場へと向かっていた。
恋人は関係を終わらせたがっていたが、まだ伝えられずにいた。携帯には、謎の男からの着信が入る。
実家に到着した恋人はジェイクの両親から歓迎されたが、どこかに違和感が漂う。そして帰宅の途についた二人だったが、ある寄り道が悲劇を生む。
レビュー(ネタバレなし)
これがチャーリー・カウフマンのスリラー
チャーリー・カウフマンが撮ると、スリラー映画はこうなるのか。
一度観たくらいでは、よく分からない。しかも、別に鮮血が飛び散る訳でもなく、幽霊が出る訳でもない。おまけに134分の映画の大半は、車内での男女の会話シーンである。だが、怖い。何がどうなるのか、見当もつかないが、怖い。
◇
カウフマンの監督・脚本の遍歴を振り返れば、とにかく理解不能な世界に放り込まれる(多くはコメディだけど)。
冒頭に出てくる彼女のシーンは、色合い的にどことなく『エターナル・サンシャイン』を思わせたが、そこから先はひたすら、倦怠期のようなカップルのドライブに付き合う羽目になる。
話の展開から、これは『脳内ニューヨーク』系の話かと推測したくなる。ジェイク(ジェシー・プレモンス)の雰囲気が、フィリップ・シーモア・ホフマンに似ているせいかもしれない。
伏線回収しなくたっていいじゃない
雪深く薄暗い田舎町に入り込んでいく心細さ、ジェイクの実家に行っても誰もいないのではと思わせる不気味さ、このあたりの間合いがいい。
時折彼女の携帯にかかってくる謎の電話、スリラー定番アイテムの地下室、そして妙に明るいソフトクリームショップ(原作ではデイリークイーンだった)。ところどころにインサートされる初老の学校用務員の日常。
◇
いろいろと盛り上げておいて、最後に回収できるのか気になって観ていたが、カウフマンのことだし、回収されずに終わるかもとも思い始める。
いや、むしろ下手に強引な説明で終わらせるくらいなら、答えを観る者に丸投げして美しく終わってもいいような気になってくる。そのくらいの洗練度がある。
原作にも手を出してみたが
本作を観終わってもあまりに消化不良なので、イアン・リードの原作も早速読んでみた。表紙のイラストは妙に軽い。
結果的には原作の方も答えは明示されず難解なのだが、面白いことに、映画と原作では、微妙に分からない場所が異なる。つまり、相互補完的な位置づけなのである。
ジェイクはクロスワードパズル好きだが、映画だけでも原作だけでも、答えを絞るには材料が足らなかったものが、おぼろげに見えてきた、気がする。
◇
おそらく、原作だけ読んでもつまらない。雪の降りしきる夜のドライブや、誰もいない大きな学校、夜道にポツンと光るソフトクリーム店の味わいは、残念ながら翻訳された原作では表現しきれていない。
なので、本作に関しては、観てから読むのが、良いと思った。
レビュー(ネタバレあり)
学校用務員は誰なのか
人気のない夜の校舎というのは怖いものだ。Jホラー的には昭和感漂う古びた校舎が怖そうだが、どっこい妙に美しく整頓された大きな校舎でも、雪に閉ざされた夜の中だと十分怖い。いわば狂気のない『シャイニング』だ。
次に、原作も踏まえたうえで、内容について考察したい。ネタバレ全開となるが、あくまで私の勝手解釈なので、厳密にはネタはバレていないのかもしれない。それでも、未見の方は、ぜひ先に鑑賞をお勧めします。
◇
ジェイクは優秀な青年だったが、引っ込み思案で人とコミュニケーションができず、誰にも接することなく仕事ができる学校の用務員という職に就く。
本作は古いテレビ放送のようなスクリーンサイズで撮られているが、用務員の自宅にあるTVがまさにそのサイズ。つまり、映画自体が、用務員ジェイクの想像の産物ということではないか。
ジェイクと用務員が同一人物なのは、母校でもないその学校のポロシャツが地下室の洗濯機にあったことや、彼女に部屋履きを貸す行為が重なることなどからうかがえる。
◇
50歳近い用務員のジェイクが、若い頃の自分と、学生時代にバーでいい雰囲気になったけれど声もかけられなかった女を、想像で生み出しているという構図なのだろう。
男女ともにジェイク本人であることは、自作の詩の朗読や、彼女が描いたはずの絵、似ている幼少期の写真などから分かる。
用務員が観ていた映画(ゼメキス監督作品とあったが、特定できず)のウェイトレスと恋人のエピソードも二人の記憶と重なる。
彼女に執拗に電話をかけてくるのも、自分の分身なのだろう。両親は、ブランコだけが新しい家が火事で燃えた時に死んでしまったのかもしれない。
骨壺に入っていた愛犬同様、その両親も実家に復活させる(父親の絆創膏の位置も、両親の年齢もころころ変わるので、現実の存在ではない)。
ソフトクリーム店の娘たちも、用務員を小バカにしていた高校生たちだ。警告を発した娘は、ジェイク同様に発疹だらけだった。ニスの匂いは地下室の絵画と関係があるのかも。
もう、終わりにしよう。
本作に登場してくるキャラクターは、みなジェイクの産み出した人格なのである。まるでカウフマンの『マルコヴィッチの穴』ではないか、全員がジョン・マルコヴィッチになるように。
孤独を紛らすためにイマジナリーフレンドを作る。近年の作品だと『ブルーアワーにぶっとばす』をさらにスケールアップさせたような映画だが、ジェイクは何年も孤独に生活しながら、こんな妄想世界で生きることをやめようとするのだ。
それが「もう、終わりにしよう。」の本当の意味だ。単に、彼氏と別れようという意味ではないのである。なんと切ないタイトルだったのだろう。
◇
だが、終わりにすることは、つらく寂しく、そして怖い。だから、答えを出せと迫ってくる自分もいれば、引き返していいと囁いてくれる娘もいる。
学校のごみ箱に大量のソフトクリームが捨ててあったのは、何度も終わりにしようとしながら、結局断念し、訣別を繰り返しているということなのではないか。
原作にも映画にも姿を見せない惨劇
原作では、用務員は最後に学校で惨劇を起こす。ただ、その詳細は直接に描写されていない。映画にもそんなシーンはない。
従って想像の域を出ないが、ジェイクは夜の学校で自殺したということなのだろう。それをあの学校の廊下や体育館でのダンスミュージカルで表現してしまうのは、実に映画的なソリューションだ。
「考えることは行動よりも真実や現実に近い」
そうやって妄想してきたいくつもの人格だったが、もう終わりにして、普通に生きる選択肢もあったはずだ。だが、人間は、豚のように半分蛆虫に食われながら、ただ生きることはできない。人間には、希望が必要だから。
それなのに、もはや希望を失った用務員にはクルマに戻っても生きる術はない。結局彼は豚に率いられて学校に戻り、大勢の人格とともに死んでいく。
◇
結局、翌朝に校舎の前で雪に埋まったクルマだけをとらえるラストシーンだけが、現実を描いたシーンなのではないかと思う。
このクルマだが、はじめは、ジェイクと彼女の乗ってきた乗用車と思いこんでいたが、それでは理屈に合わず、また駐車位置も違う。よくみると、これは用務員のピックアップトラックだ。わずかに確認できるサイドミラーで判別できる。
用務員のジェイクはこの晩、家に戻らず、校舎内ですべてを<もう終わりにした>ということなのだろう。
こんなに静かに終わるスリラー映画を、他に知らない。