『ヤンヤン 夏の想い出』
Yi Yi: A One and a Two
一コマ一コマが脆く美しい。なぜ人は初めてを恐れるのか。誰も繰り返しを望んでいる訳ではないのに。
公開:2000 年 時間:173分
製作国:台湾
スタッフ 監督: エドワード・ヤン(楊徳昌) キャスト NJ: ウー・ニェンチェン(呉念真) ヤンヤン: ジョナサン・チャン(張洋洋) ティンティン: ケリー・リー(李凱莉) ミンミン: エレン・ジン(金燕玲) 大田: イッセー尾形 リーリー: エイドリアン・リン シェリー: クー・スーユン
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
ポイント
- 少年ヤンヤンは無邪気で可愛いのだろうが、私にはちょっと小賢しくみえる。けして美しい家族ドラマではないが、姉のティンティンの初々しい魅力やイッセー尾形の好演には惹かれる。
- 窓ガラスを通してみえる景色と、ガラスに映り込む役者たちの演技を重ね合わせた映像の美しさに息をのむ。エドワード・ヤンの遺作とは寂しい。
あらすじ
台北のしゃれたマンションで、三世代同居で平和な生活を送っている8歳の少年ヤンヤンだが、叔父の結婚式を機に彼の家族はそれぞれ、さまざまな悩みを抱えるように。
まず高齢の祖母が脳卒中に見舞われ、昏睡状態のまま入院。母親のミンミンは精神が不安定になって新興宗教に走る。
父親のNJは日本人のゲームプログラマーとの契約交渉に頭を悩ませる一方、初恋の人シェリーと久々に再会し、昔の切ない想いを脳裏によみがえらせる。
レビュー(まずはネタバレなし)
原題ほどに単純ではない
エドワード・ヤン監督の遺作となった作品。彼の映画は、まだ『牯嶺街少年殺人事件』しか観たことがないが、どちらも長尺なのに、飽きることもなく見惚れる作品だという点で共通するように思う。
原題の’ A One and a Two’は、「人生で起きることは、数字の1+2と同じくらいとてもシンプルである」といった意味らしい。深読みせずに解釈してほしいという監督のメッセージだろうか。
◇
『ヤンヤン 夏の想い出』という邦題とポスターから、<純真な少年の夏休みの出来事>的な甘酸っぱい話を想像しがちだが、大きく裏切られる。
ヤンヤン(ジョナサン・チャン)は大事な役ではあるが、主役はむしろ姉のティンティン(ケリー・リー)と、父のNJ(ウー・ニェンチェン)なのだ。
宝石のような1カット、1カット
窓ガラスを通してみえる景色と、ガラスに映り込む役者たちの演技を重ね合わせた映像の美しさに息をのむ。
カフェの壁面ガラスに映る路上風景、
オフィスから見下ろす台北の夜景、
東京出張で電車の車窓を流れる雨のビル街、
数えればきりがない。
◇
夜の高速道路の高架下で恋人と語り合うティンティンをやさしく包む信号灯の緑と赤、そして二人を照らす左折車のライトさえ絵になる。
東京から熱海に足を延ばすNJとシェリーの密会も、一コマ一コマが脆く美しい。そしてヤンヤンが電撃的に恋におちるクラスメイトの少女に重なる、授業の雷の映像。
◇
随所に散りばめられた宝石のようなカットと、大家族が織りなすドラマの先の読めない展開で、本作はカンヌ国際映画祭の監督賞をはじめ多くの賞を勝ち取る。
この作品こそ生涯で最高の映画だと評価する声も数知れず(レビューサイトを見回りした限りでは)。
確かに、同感だと思う部分はある。ただ、世間的にあまりに高評価だと、つい反発したくなってしまうが私の悪い癖だ。
岩井俊二監督が編集した本作の予告編(あるいはフランス版でも同様)は、とても良かった。あの予告編そのままの3時間なら珠玉の名作だと思ったが、実際には私には馴染めなかったエピソードも結構存在した。
本編の中身はもっとドロドロしていて、そこはちょっと苦手だった。
「それが現実だろ、どの大家族にもある単純なことだ」とエドワード・ヤンは言いたいのかもしれない。私は現実逃避したいだけなのだ、きっと。
レビュー(ここからネタバレ)
毎日は新しい事ばかり
大家族を描きたかったというエドワード・ヤン監督。本作は大勢集まる結婚披露宴から始まり、ひっそりと落ち着いた葬儀で幕を閉じる。途中に赤ちゃんも生まれることを含め、大家族の叙事詩だ。
ヤンヤンとティンティンの姉弟を除けば、親族一同、および周囲の人々に、しっかり者はいない。男女問わずフラフラしてたり、いがみ合っていたり。
◇
そんな中で、NJの会社に協業を提案する大田(イッセー尾形)だけは超然とした存在で、誠実さをみせる。日本人ビジネスマンらしい英語も使い、さすがの名演技だ。
大田は自分のビジネスプランの斬新さを語る中で、力説する。
「なぜ人は<はじめて>を恐れるのか。毎日は新しいことばかりなのに」
だが、誰も<繰り返し>を望んでいるわけではない。
◇
ミンミンは繰り返しの毎日が嫌で山に逃げてしまうし、NJもシェリー(クー・スーユン)と青春を取り戻そうとするが、<人生を繰り返すチャンスなど、いらなかったんだ>と気づく。
NJの青春を継ぐのは、日本で密会する彼らではなく、台湾で彼氏と手をつなぐティンティンであり、父親同様に電撃的に小学校の級友に恋するヤンヤンなのだ。
祖母が死に、孫が生まれる。世代は移り、若い世代が恋をする。大家族の歴史は、そのように紡いでいくものだから。
自己との対話
意識なく家で寝たきりの祖母の回復を願い、交代で話しかける家族だが、問いかけても何の反応もない祖母との会話は、自分自身との対話になってくる。
◎母・ミンミン(エレン・ジン)
実の娘であるミンミンは、本来ならば最も話題が多く、また祖母に近しい存在のはずだが、毎日が同じ生活の繰り返しで話すことのない自分に悲嘆し、悩みぬいた末に突然家を出て宗教団体の施設に山ごもりしてしまう。
全て丸投げで失踪し、祖母の死後に漸く戻る彼女には驚いたが、世間的には珍しくない話なのだろうか。オフィスの夜景に映る彼女の胸元に遠くの赤信号が重なるカットは美しかった。
◎父・NJ(ウー・ニェンチェン)
義母に話しかける話題もあまりなさそうだが、「人は年長者に答えてほしいから質問するのであって、それ以外に何を聞けばいい?」というのがせいぜいだ。
この時すでに彼は、偶然再会した初恋の女性シェリーの存在が気になっていた筈で、義母に胸中をさらして自己と対話する訳にもいかなかったのだろう。
◎長女・ティンティン(ケリー・リー)
自分がゴミ袋を階下まで出さずベランダに置き忘れてしまったことが、祖母の脳卒中の遠因になったと、自責の念で不眠症になっている。
赦しを請い何度も懸命に祖母に話しかける彼女の姿が不憫だが、何でも娘に頼りきりの両親や、彼女が恋した青年ファティ(パン・チャン・ユー)の非情なふるまいなど、ティンティンを取り巻く状況がつらすぎる。
最後に漸く祖母が彼女に<赦し>の蝶々を残してくれたことで、少し救われた。
◎長男・ヤンヤン(ジョナサン・チャン)
「眠っている人に話しかけて何の意味があるの?」と、ろくに祖母に話しかけようとしない。そんな息子を冷たいと母は叱るが、子供ならではの理屈があるのだった。
哲学者のような少年は、目をクリクリとさせながら、「前を見ているだけでは真実の半分しか分からないから」と、周囲の人々の後頭部の写真を撮りためる。人が見たことのないものを見せてあげる人になりたいのだ。
「おばあちゃんは何でも分かっているから、話しかけることがなかったんだ」と、ヤンヤンは手紙で祖母に別れを告げる。
最後の手紙の読み上げは、私にはやや小賢しさが鼻についたが、憧れの少女が泳ぐプールに飛び込んだりと、不可解な行動も気になってしまう。
クラスでもひときわ小柄なこの少年の立ち振る舞いはとてもキュートで、見ていて楽しい。
私が馴染めなかった部分
『牯嶺街少年殺人事件』では小四・小名・小馬など大半の役名に小が付いたが、今回はヤンヤン・ティンティン・ミンミンの母子に加え、ユンユン・リーリーとゾロ目の役名だらけ。これも監督のこだわりか。
シンプルに考えろという監督に逆らうようだが、熱海のホテルの廊下の電灯が切れていたり、NJとシェリーを挟む壁に亀裂があるのは、二人の関係の成り行きを示す暗喩だろうか。
おしまいに、私が馴染めなかった部分も少しだけ書いておきたい。
- うるさいだけの拝金主義な従弟・アディの傍若無人さと、出産する妻と昔の女との諍い。
- 何十年もNJを思慕していたシェリーの激しい感情の吐露と慟哭(ちょっと引くわ)。
- 子供二人をほぼ放任で好き勝手に暮らす夫婦。
- 恋のもつれで殺人を起こすファティのティンティンへの言動
- 報道番組のファティの扱い(格闘ゲームのような映像)
◇
私には『牯嶺街少年殺人事件』の方がテイストが合ったということかもしれないが、本作が並大抵のレベルの作品ではないことは、凡人の私にも感じ取れる。エドワード・ヤン監督の早逝が惜しまれる。