『花筐/HANAGATAMI』
商業映画デビュー前から温めていた映画化企画、気概が伝わる。全編大林映画以外の何物でもない満腹感。唐津の幻想的な祭りや街並みの美しさ、アポロのような満島真之介の美。考えるな、感じよ。それが大林映画だ。
公開:2018 年 時間:168分
製作国:日本
スタッフ 監督: 大林宣彦 原作: 檀一雄『花筐』 キャスト 榊山俊彦: 窪塚俊介 江馬美那: 矢作穂香 鵜飼: 満島真之介 あきね: 山崎紘菜 吉良: 長塚圭史 千歳: 門脇麦 江馬圭子: 常盤貴子 阿蘇: 柄本時生
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
1941年、春。17歳の俊彦(窪塚俊介)は佐賀県唐津市の叔母・圭子(常盤貴子)のもとに身を寄せて学校に通っている。
アポロ神のような鵜飼(満島真之介)、虚無僧のような吉良(長塚圭史)、お調子者の阿蘇(柄本時生)ら個性的な学友たちと共に、戦争の影がよぎるなか青春を謳歌している。
肺病を患う従妹・美那(矢作穂香)に思いを寄せる俊彦だったが、その一方で女友達のあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)とも多感な日々を過ごす。彼らの日常は、いつしか戦争の渦に飲み込まれていく。
レビュー(ネタバレなし)
予備知識が多すぎて、素直に評価しにくい
本作は、大林宣彦監督作の中でも、特に評価が難しい。『この空の花―長岡花火物語』、『野のなななのか』に続く戦争三部作の最終章。
監督自身、商業映画として初発の『HOUSE』を1977年に撮った時点で、映画化したい企画としてよりすでに脚本を書きあげていたものである。
◇
当時とは脚本も違うのだろうが、それだけ檀一雄の原作への愛着は強い。加えて、大林監督自身が余命残りわずかと宣告を受けた直後にクランクインしている。
当時は誰もが遺作になるだろうと思っていた、というより、完成させられるかという不安の方が大きかったかもしれない。
◇
このように、観る以前から観客に多くの予備知識が入っていることも少なからず影響しているのではと睨んでいるが、大変自由奔放な作風で長尺の作品でありながら、本作はキネ旬ベストテンの日本映画2位や毎日映画コンクールの日本映画大賞等の高い評価を得ている。
監督自身、「本作の作品の系譜はとしては『HOUSE』に近い」とかつてコメントしているそうだ。確かに、やりたい放題のパッションが共通している気がする。
『HOUSE』では賛否両論だった作風が本作では高評価を得、ようやく時代が大林宣彦に追いついてきたのかもしれない。
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正直、本作公開当時の私の評価は最低に近かった。大林映画は長年の間に身体に馴染んでいるつもりだったが、消化しきれなかったのか。
俊彦の妙に芝居がかった、しかも軟弱な言葉運びに、これが当時の若者のはずがないと拒絶反応が先に来た。
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幸い、今回の再観賞では、だいぶ落ち着いて映画が観られた。そうなると、良い点も多く見いだされ、少しだが☆の数も増やしている。ただ、やはり万人向けの作品ではない。このノリで3時間弱を付き合うには、相応の覚悟がいるはずだ。
思い入れは強いが、遺作にはしない
ご存知の通り、本作完成後に、大林監督は『海辺の映画館―キネマの玉手箱』という遺作を仕上げている。同じ反戦映画であり、どちらも監督の集大成的な要素が強いが、同作はコメディ路線であり、比較的受け止めやすい。
◇
「『人情紙風船』が山中貞夫の遺作とは、ちと寂しい」という黒木和雄監督のかつてのコメントを、本作でも歯痛腹痛先生(村田雄浩)が出兵時に語っている。
同様に、本作が大林監督の遺作では、題材が重いだけにちょっと寂しい気がしたので、元気に明るい『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が遺作になったのは、監督らしくてよいと思った。
古里映画と唐津のひとびと
本作は太平洋戦争勃発前夜の佐賀県唐津市を舞台としている。監督が提唱する古里映画のひとつである。
尾道で懲りたのか、町おこしで観光を誘致するものではない。あくまで、古い町の佇まいや文化を大切にしようというのである。
なので、至る所に唐津の風景は出てくるものの、これは地形的におかしいとか、安易にピクニックに行ける場所ではないとか、地元の方に言わせるといろいろ意見があって面白い。
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確かに、聖地巡礼には馴染まないかもしれないが、このような芸術作品の舞台として末永く人の記憶に残るのは、名誉なことだと思う。
また、なかなか映像化されていないという、<唐津くんち>という盛大な祭りが、かくも美しく幻想的にフィルムに収められたことは、本作の大きな収穫のひとつだ。
レビュー(ネタバレあり)
アポロを中心に世界は回る
内容について触れたい。
細かい人間関係は割愛して語ってしまうが、本作の中心的存在は、アポロのような美少年・鵜飼だろう。満島真之介はまさに適役だ。彼の存在なしで映画は想像できない。
彼は若い俳優だが、沖縄出身で祖父が米国人という出自もあり、戦争に対する彼なりの思いもあるに違いない。
◇
健康な肉体そのものの鵜飼。目的のない体力の浪費。周囲をみれば、肺病の美那、歩くのもままならぬ吉良、ぜんそくを隠す阿蘇。ともすれば非国民といわれてしまう者ばかり。だからみな、鵜飼に羨望と愛情を覚える。
男性陣にすれば、彼の生命力に屈折した思いを持ち、夜毎望遠鏡で鵜飼の水泳を眺めている吉良も、鵜飼の吸い殻を拾いタバコを始め、二人で全裸で馬に乗り抱きしめ合う俊彦も、立派に鵜飼に憧憬を抱いている。
「鵜飼君はすごいんだよ」と臆面もなく言える所以だ。
◇
一方、女性陣はといえば、やはり多くが彼に惹かれていく。鵜飼は恋人である千歳を放っておいて、彼女の友人である美那の心をもてあそび、さらには美しい叔母・圭子にまで触手を伸ばす。例外はあきねくらいか。
みんながこの健康美のアポロに夢中だが、当の本人は、左利きで三八式歩兵銃も満足に撃てない非国民だと自嘲している。
檀一雄の原作との比較
レビューにあたり、檀一雄の原作も読み直してみた。肝になるセリフの多くは原作からそのまま流用している。
「歯痛ですか、腹痛ですか」
「吉良は僕より偉いよ、だが君より愚劣だ」
「あんな見事な生命は、人が受けなければ意味がないんだ」
などなど。
映画は、短編である純文学の行間を埋める形で、話を膨らませていく。これはとても分かりやすかった。
◇
特に、中盤までの人間関係の描写の広げ方は、『ポオルとヴィルジニイ』や中原中也も取り込んでいるほか、大林監督によるアレンジも冴え、大変深みが出ていたと思う。
原作でも映画でも、舞台は架空の町でよいと言っているのだが、唐津の町の味わいをふんだんに採り入れたのも、監督の手腕だろう。
鵜飼や吉良の笛、圭子の亡き夫のチェロ、教師が吹くハーモニカなどの、楽器による効果もある。原作を読んだだけではなかなか読み取れない部分を、映画が親切に補完し想像を広げてくれている。
出征前の馬を歓楽街から盗んできて、鵜飼と俊彦が全裸になり海岸線に沿って馬を駆るシーン。原作では線路を走る列車を縫うように二人が走り回るものだったが、より映画的にアレンジしたのだろう。これは理解できた。
ただどうしても分からないのが、終盤の美那のためのパーティから写真騒動、叔母・圭子と鵜飼の夜の水泳あたりの展開以降である。
以下ネタバレありますので、未見の方はご留意ください。
どうしても納得がいかない点① 圭子の手紙
鵜飼に恋心を抱いていた美那は、叔母・圭子と鵜飼が熱くダンスを踊る姿や、二人して夜の海で泳ぐ姿に激しく嫉妬し、さらには、鵜飼が飲ませてくれた粉薬が白ヘビの鱗から作ったものだと聞き、ついにはその薬で血を吐いて絶命してしまう。
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この展開は映画では唐突感もありわかりにくく、また突如笑い出す鵜飼や圭子が、まるでホラー映画のようであった。
ただ、原作でも、美那は二人にジェラシーを覚え、また鵜飼が白ヘビの鱗を自分に飲ませたる夢をみて、そのまま吐血して死んでしまうのだ。原作の方がわかりやすいが、内容的に大きな差異はないかもしれない。
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異なるのは、その後である。
原作では、美那の死後何日かして、鵜飼と海で泳いだあとに圭子が忽然と姿を消す。家には鵜飼宛に遺された圭子の手紙と美那の手紙。
圭子の手紙には、「もう鵜飼とは会わない、美那の手紙をみつけたので同封する、せめて美那と鵜飼の思い出を語り合いたい」との旨が書かれている。
この手紙により、夫を亡くし、鵜飼によろめいた圭子の女ごころや美那への贖罪などが伝わる。だが、映画にはこの手紙は登場しない。映画で彼女の心情を感じ取れなかったのは、私の読解力不足だろうか。
どうしても納得がいかない点② 美那の手紙
さらには、美那の手紙は、映画で読み上げられた、「自分の裸をみたことがないとか、湯灌はいやだが全裸がみえるかも」とかの内容なのだが、手紙はあくまで鵜飼宛なのである。
彼女が海の見える場所の墓を望んだのも、鵜飼が泳ぐ姿が見たいからなのだ。映画では、なぜか、それをすべて「あなたさま」に書き換えており、手紙の宛先をぼかしている。
一人生き残り手紙をよみ、墓を抱きしめて号泣する俊彦を見ていると、さも彼に書かれた手紙のようだが、悲しいかな、美那の心中には鵜飼しかいない。
◇
「お飛びよ、卑怯者」と母に言われながら、こと恋愛に関しては、俊彦は地に足が付いたままのいくじなしだったのだ。
ラストに付け加えられたシーンでは、大林監督のディレクターズチェアをバックに、きみは飛べるかと俊彦に問いかけられる。この問いかけは、次作にも継がれることとなる。
ところで、本作は「A Movie」で始まっていたのだろうか。再鑑賞時には、受賞記録などが掲載され、その画面が出なかったので、確認できず。
その代わりに、映写機がカラカラと回る音で始まった。ラストも、映写機が止まる音で終わるという粋な演出で、余韻とともに終わるのだった。