『護られなかった者たちへ』
『64 -ロクヨン-』の瀬々敬久監督が中山七里の原作を映画化。佐藤健と阿部寛のダブル主演による社会派ミステリー。
公開:2021 年 時間:134分
製作国:日本
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
東日本大震災から九年後、宮城県内の都市部で全身を縛られたまま放置され餓死させられるという凄惨な連続殺人事件が発生した。被害者はいずれも善人、人格者と言われていた男たちだった。
宮城県警捜査一課の笘篠誠一郎(阿部寛)は、二つの事件からある共通項を見つけ出す。そんな中、利根泰久(佐藤健)が容疑者として捜査線上に浮かび上がる。
利根は知人を助けるために放火、傷害事件を起こしたて服役し、刑期を終えて出所したばかりの元模範囚だった。犯人としての決定的な確証がつかめない中、第三の事件が起こってしまう。
レビュー(まずはネタバレなし)
このモヤモヤ感はどこからくる
中山七里の人気原作を瀬々敬久監督で映画化、生活保護の実像を描いた社会派ミステリー。阿部寛演じる宮城県警捜査一課の笘篠刑事と、佐藤健演じる元模範囚の利根勝久、豪華なダブル主演それぞれの目線で物語が進展する。
さて本作、原作未読で映画を観る分には、豪華キャストが次々に登場し、社会問題に正面から向き合う骨太なミステリーとして、楽しめるように思う。そこに異論はない。
だが、中山七里の原作を読んだときに感じたはずの高揚感や充実感が、映画からはどうも感じられない。それは、ストーリーや真犯人を知っていたからという、単純な理由からくるものではない。どこか、モヤモヤ感が残るのはなぜだろう。
映画は原作以上に東日本大震災後の仙台というものをうまく取り込んでいるように思えた。文字と映像の違いもあるだろうが、瀬々敬久監督がドキュメンタリー作品『石巻市立湊小学校避難所』(藤川佳三監督)の製作に関わった経験から、より深く被災地の人々の生活に踏み込んでいったのだろう。
まだ若い利根勝久(佐藤健)が、人の好い老女の遠島けい(倍賞美津子)や身寄りのない子のカンちゃん(石井心咲)と出会い親しくなる場面設定を避難場所の小学校に変えたのも、効果的だった。
九年後に福祉保健事務所の職員を拘束放置し餓死させる事件が起き、県警の笘篠刑事(阿部寛)、そのバディだが仲は険悪な蓮田刑事(林遣都)、そして放火犯で服役後に仙台に戻ってきた利根。
普段は華やかな役が多いこの三人が、いずれも無精ひげにくたびれた格好でどこか薄汚れた感じが漂う。そこにも、被災地を背負った社会派ドラマの覚悟を感じた。
豪華すぎたキャスティング
一方で、キャスティングにも力が入っているが、これは裏目に出ている気がした。阿部・佐藤・林・倍賞、それに福祉保健事務所の被害者の部下・円山幹子を演じた清原果耶のメインキャスト勢はよいのだが、端役も含め助演俳優陣が豪華すぎて座りが悪い。
円山の上司・同僚に岩松了・井之脇海、被災者や関係者の顔ぶれに波岡一喜・篠原ゆき子・渡辺真起子・原日出子・西田尚美・三宅裕司・宇野祥平・奥貫薫・千原せいじ等々。その太宗がワンカットのみの登場だが、顔で役者が分かるし、みんな演技もできるから、目立ちすぎてしまう。
メインキャラの話に没頭したいのに、目が泳いでしまう。その最たる例が、かつて福祉保健事務所で同時期に働いていた三人の標的たちだろう。永山瑛太・緒形直人・吉岡秀隆、全員が善人や人格者と呼ばれる人たちだが、裏の顔がある。
役者としてはみな善人キャラを得意とし、しかも今回は二面性のある人物を好演している。ただ、大物を三名も並べたことで食い合ってしまい、誰も強く印象に残らない。ここは一点豪華主義の方が良かった(松竹だから必然、吉岡秀隆となるか)。それに、この三人じゃ『64 -ロクヨン-』のイメージを引き摺り過ぎだ。
そう、瀬々敬久監督は本作でも『64 -ロクヨン-』をやってしまっている。あの豪華キャストは、前・後編がある大作なら受けきれるが、本作のテイストには合わない。
また、阿部寛はさすがに東野圭吾『新参者』の加賀刑事ほど切れ者でも雄弁でもない役だが、重い過去があるとはいえ、無言で睨みをきかせる演技中心では途中で飽きる。佐藤健も同様に無口なキャラなので、この二人がメインという贅沢さなのに、ツーショットで間が持たないというのは不思議な気がした。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見・未読の方はご留意願います。
生活保護の抱える根深い問題
本作は、生活保護が必要な人に、生活保護がしっかりと届いていない現状を描いている。震災後に生活困窮者は大勢出たが、全員には支給できない。
そして日本には、生活保護を受けるのは恥だとして、申請をためらう文化が強く残っている。生活保護を受けようとすると、その前に親戚縁者の支援は受けられないか、扶養照会されてしまう。
映画の中でけい(倍賞美津子)は、里子に出した娘(西田尚美)に知られたくないと、利根とカンちゃんが説得した末にようやく申請した生活保護を辞退する。
予算の少なさから辞退手続を薦める善人面の職員(永山瑛太)が悪魔に見える。こうしてけいは、餓死してしまう。彼女を死に追いやった福祉保健事務所の当事者三人に復讐をする。これが犯人の動機だ。
映画では今一つ分かりにくかったが、一棟空き家のアパートに監禁放置して餓死させる手口は、もっと『セブン』(デヴィッド・フィンチャー監督)くらい凄惨に見せても良かった。
設定変更の功罪
さて、ここから真犯人を匂わせることになるが、警察が張り込んでいる中に容疑者の利根がまんまと現れる場面(原作では空港だったか)は、もう少しスリリングな展開を期待した。
また、カンちゃんを女の子にしたのは、配役が男ばかりだとむさ苦しくなるからだろう。はじめは原作通り男の子だと思ってみていたが、途中、円山幹子(清原果耶)が黄色い服を着ていることで感づく。やがて、過去のシーンでも、カンちゃんが女の子と判明し、合点がいく。
この設定変更は映画的にはありだとは思ったが、はたしてそれだと真犯人は大の男三人を相手に犯行が可能かという点でちょっと引っかかる、というか嘘くささが漂う。
だが、映画オリジナルのアレンジで私が一番納得いかなかったのは、福祉保健事務所の偽善者三人組(永山瑛太・緒形直人・吉岡秀隆)の人物描写だ。
このスリー・アミーゴスは、原作では分かりやすく本当に裏の顔のある腹黒い連中なのに、映画では必ずしも単純な悪人にはしていない。
例えば三雲忠勝(永山瑛太)は原理原則主義にこだわり、震災で倒れてしまった墓地の墓石をひとりで修復する。城之内猛(緒形直人)は、日本の福祉行政において何が問題かを熱く訴えたりする。上崎岳大(吉岡秀隆)は、けいの火葬場で「死んだらおしまいだよ」と号泣したりする。
彼らもまた、善人であり被害者なのか
彼らにも行政を支える者としての立場や葛藤があり、ただの悪人ではない。社会問題の複雑さや根の深さを訴えたかったから、こうアレンジしたと瀬々敬久監督は語る。
だが、そんなことは百も承知のうえで、中山七里は彼らを悪人として描いたのではないか。それでも、彼らには彼らの社会的な立場や苦悩があることも、生活保護の問題の難しさも、受け手には伝わるはずだ。
被害者たちもまた、ある意味善人なのです。それをあえて映画で示したことで、観る者には社会問題の難しさは一層伝わったが、モヤモヤ感も高まった。
社会問題に真正面から向き合いたいのはわかるが、所詮フィクションだ。被災地を売り物扱いにしている商業映画である以上、ドキュメンタリーとは違う割り切りがあっても良かったのではないか。
◇
原作では、カンちゃんが同級生に母親の職業をからかわれ、自室のドアにビッチなどと落書きされ、待ち伏せて頭上からペンキをぶちまける。けいは「ちょうどいい罰だろうね。それ以上厳しかったら、加害者と被害者が逆転しちまう」と語るのだが、これが後の事件を暗示する。
カンちゃんが女子、出会いが避難所になったことで、この挿話が映画では消えたのは仕方ないが、被害者たちを悪人にしきれなかった分、真犯人への感情移入も弱まってしまったのは、ちょっと勿体ないように思った。