『翔んだカップル』
薬師丸ひろ子の初主演、相米慎二の初監督作、奇跡のコラボレーションが今後の可能性を予見させる。ホントは重たい青春同棲物語。
公開:1980年(1983年)
時間:106分(122分)
( )内はオリジナル版
製作国:日本
スタッフ 監督: 相米慎二 脚本: 丸山昇一 原作: 柳沢きみお 『翔んだカップル』 キャスト 田代勇介: 鶴見辰吾 山葉圭: 薬師丸ひろ子 中山わたる: 尾美としのり 杉村秋美: 石原真理子 絵里: 前村麻由美 和田先生: 円広志 織田隼人: 西田浩
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
田代勇介(鶴見辰吾)は弁護士を目指し、九州から東京の名門校に入学した高校生。叔父の家に住むことになった勇介は間借人を頼んだが不動産屋の手違いで、美少女・山葉圭(薬師丸ひろ子)がやって来る。
1ヵ月の条件で一緒に住むようになる二人。お互い十分意識しているのに好きだと言えない。そんな二人にクラス1、2の成績を争う杉村秋美(石原真理子)と中山わたる(尾美としのり)が絡んでくる。
今更レビュー(まずはネタバレなし)
相米慎二監督の初監督作
中学生以来、超久しぶりに観た。薬師丸ひろ子があの特徴のある声で、「愚かねえ」「イモねえ」と鶴見辰吾を馬鹿にする台詞を聞くと、遠い過去に引き戻される。
タイトルバックの柳沢きみおの絵やH2Oの主題歌も懐かしい。公開時の併映がアニメ『まことちゃん』だったので観る気がせず、名画座におりるまで待ったものだ。
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本作は薬師丸ひろ子の(そして鶴見辰吾の)初主演作というだけでなく、相米慎二の監督デビュー作でもあった。
ワンカットのシーンが続くのが実に自然なので、のちに相米監督の代名詞になるものだとは、当時は意識もしなかったが、この長回しは、特に坂道のシーンで多用され、大いに効果を発揮している。
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主人公の田代勇介(鶴見辰吾)がボクシング部の練習でジョギングしたり、山葉圭(薬師丸ひろ子)が自転車で駆け下りたり、長く起伏の大きい住宅街の坂道は、下りで一旦完全に姿を消す二人が再び上りで現れるまでを、ずっとカメラが追い続ける。
このゆったりしたリズムがいい。田園調布近辺と思しきこのロケーションは、実にフォトジェニックだ。
改めて感服したのは、勇介が修理中の自転車を圭が奪って家から飛び出し、そのまま坂道を下っていくショット。ブレーキが効かずに圭がゴミ捨て場に突っ込む馴染みのシーンの前段だ。それら全ての流れをワンカットでとらえる構図が素晴らしい。
相米病にかかって大林組に行く
薬師丸ひろ子が角川春樹事務所からキティ・フィルムに貸し出される形で撮られた本作が、実質的に彼女の主演作となり、同じ相米慎二監督のもとで、『セーラー服と機関銃』が作られる。
厳しい演技指導で知られる相米慎二の薫陶を受けて初主演を果たしたことは、女優根性の座った彼女には幸運だったのだろう。
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実際、本作のあとに大林宣彦監督のもとで撮られた『ねらわれた学園』では、大きなギャップに本人も困惑したと述懐している。
この二人の監督は作風もまるで違う。長いカットを重んじる相米と、とことん切り刻む短い編集の大林。大林宣彦監督は、言うまでもなく数多くの若手女優を開花させ輝かせた才人ではあるが、こと薬師丸ひろ子に関しては、相米映画の方が魅力を引き出しているように思う。
『ねらわれた学園』の主人公・三田村由香は、本作の山葉圭に比べると優等生すぎてしまうのだ。本作で彼女が演じる圭の方が、時にしくじったり、傷ついたりと、人間味があってよい。
ちなみに、彼氏の剣道の試合を応援するのが大林作品、ボクシングの試合を応援するのが本作。こういう描き方が、当時の女子高生の典型だった。
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なお、本作でも二人に深いかかわりをもつ親友中山わたる役を尾美としのりが演じているが、彼がその後に『転校生』で大林映画に主演し、以降尾道三部作をはじめとする大林組の常連となるつながりも面白い。
改めて観ると、この尾美としのりの屈折した役や、或いは岸部一徳と重なるような円広志の担任教師役は、いかにも大林映画っぽく思えたのだが、時系列としては本作の相米慎二が先行しているわけだ。
ひとつ屋根の下
冒頭、九州から都内の進学校に入学する勇介が、ボクシング部に入部する。
田園調布(或いは設定では尾山台?)の高級住宅街の邸宅に叔父の家を借りるとはいえ一人暮らしって、勇介なかなかにリッチな家系なのだろう。原作では地方の中小企業経営者の息子ということだが。
そして、間借り人として契約して引っ越してきたのが圭。名前が紛らわしいので、不動産屋が男性と勘違いしたという経緯をはじめ、まあ現代目線では無理のある設定が盛りだくさんではあるが、そこは目をつぶらないと話が楽しめない。
要は、気になる同級生の女子とひとつ屋根の下に暮らすことになる話。当時の中高生は、このストーリーに単純に盛り上がることができた。圭がせまい湯船につかって「異邦人」を唄う姿に、みんな目じりを下げていたはずだ。
男女が同棲していることを、周囲にバレないように暮らし、学校に通う。これもまた、『おくさまは18歳』からお馴染みのラブコメ鉄板ネタといえる。
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この、内緒で暮らし始める導入部分と、圭に好意を寄せるボクシング部の主将が突然家に押し掛けてきて一緒に住むという強引な展開は、なんとなく覚えていた。
だが、映画において重要な役割を担う、二人の同級生、すなわち、圭に惚れる中山わたる(尾美としのり)と、勇介にせまる杉村秋美(石原真理子)という存在は、ほとんど記憶から消えていた。
なので、本作が実は能天気な設定の割にはシリアスなストーリーだということも忘れていた。ちょっと脱線するが、本作をもっとふざけたお気楽なラブコメだと認識相違していたのは、テレビドラマ版のせいなのだ。
ドラマ版は芦川誠と桂木文が主演で、轟二郎や柳沢慎吾など、共演者にお笑い陣営を充実させたもの。コテコテのお笑いのほか、なぜか当時最新鋭のCG技術の活用、そしてドラマNG集をエンディングに流すという奇策でヒットしたことで、とても印象に残っている。この番組のせいで、本作もコメディだと誤認していたのだ。
今更レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
周囲を傷つけまくる勇介の若さ
主人公が聖人君子ではドラマが成り立たないけれど、甘やかされて育ったであろう勇介は、何かにつけて男たるものと威勢のいいところを見せたがる。
だが、結局は言い寄ってきた美女の杉村秋美との関係に耽溺してしまい、本当は相思相愛であるはずの圭とは、少なくとも映画の中では、スッキリとした関係修復ができずに終わる。
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勇介の子供じみた振る舞いは、周囲の全ての人を傷つけてしまっている。
秀才の中山は彼の二人の親しい友人として接してきたが、次第に圭に好意を持つようになり、そして二人が同棲していることも知ってしまう。
二股をかけるように杉村とも関係を深める勇介に嫉妬した末、中山は学校に密告し、勇介と圭との同居生活を破綻に追い込む。
原作では最後にはノイローゼのすえ事故死という悲運を辿るのだが、映画においてはモグラ叩きのシーンで号泣するにとどまっている。
キャスティングについて
相米慎二は演技もできない子どもたちばかり集めて、どう映画を作るのかとよく言われたそうだが、こと男性陣の二人に鶴見辰吾と尾美としのりを擁しているのだから、演技に関しては安心できる。尾美としのりを非モテ役に据えているところも、ちゃんと彼の持ち味を理解していると思う。
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薬師丸ひろ子の演技の良し悪しは本作だけでは何ともいえないが、若者たちを熱狂させるだけの不思議な力を持っていることは、あの眼差しからも感じ取れる。
杉村役の石原真理子は、本作がデビューであり、さすがに演技については未熟かもしれない。
だが、優等生の才女と思われた前半からメガネをとっていきなり大胆で大人ぶったオンナに変身し、「今日は泊っていく?」みたいな台詞で勇介を誘惑する。このギャップ萌えな美女役は妙に似合う。
杉村と圭は男を取り合うライバル関係だったが、そういえば、薬師丸ひろ子が離婚した玉置浩二と、その後に石原真理子が婚約したなどというゴシップネタもあったっけ。
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杉村もマンションで一人暮らし、勇介と圭は同居と、この物語にはほとんど家庭(父親や母親)の存在が描かれない。高校生だけの世界には、親の存在は邪魔なのだ。家庭という単位を重んじる大林の作風とはここも異なる。
この映画の中では、一瞬だけの登場だった大学生の真田広之と、圭と別れるために彼が呼び出した原田美枝子こそが、大人の男と女に見えるように、あえてそれ以上の年齢層は出さなかったのかもしれない。
モグラたたきの難解
時代のせいではあるが、男尊女卑を感じさせるシーンも今日では気になる。
間借り人の圭が毎晩食事を作るのに、照れ隠しなのか1か月間それを食べない勇介。やっと手を付けたかと思えば、偉そうにおかわりと茶碗を差し出す(大家だから?)。
自分でたたき割ったガラスの破片を、当然のように圭に片付けさせる勇介。挙句の果てには、「出てってくれないか。もう一緒に暮らすのは疲れた!」と言いたい放題だ。
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スナック・ジョーカーの絵里(前村麻由美)は、勇介にとって第三の女性としてきっと重要な役割だったと思うのだが、終盤にいきなり現れては唐突に深い仲になってしまうので、どうも理解不能だった。
同様に難解ながら、本作で印象に残っていた学園祭のモグラ叩きシーン。勇介と中山が頭をだしては、圭と杉村にグローブ付きの棒で叩かれるだけのシーンを遠景で延々と撮る。
途中で中山が密告の罪悪感で号泣するところで芝居は動くが、なかなかロングでは伝わりにくい。しかも、そのまま、ラストは勇介のボクシングの試合直前で、映画は終わってしまうのだ。
なんという中途半端な終わり方。これは連載途上の原作を途中で終わらせるためには仕方ないところか。予定調和で終わらせないところは、相米スタイルの片鱗が窺えるともいえるが。