『地獄の黙示録』
Apocalypse Now
フランシス・フォード・コッポラ監督による、戦争の狂気を圧倒的スケールで描いた傑作。
公開:1979年 時間:182分*
*2020年ファイナルカット版
製作国:アメリカ
スタッフ
監督: フランシス・フォード・コッポラ
原作: ジョゼフ・コンラッド
『闇の奥』
キャスト
ウィラード大尉: マーティン・シーン
カーツ大佐: マーロン・ブランド
キルゴア中佐: ロバート・デュヴァル
シェフ: フレデリック・フォレスト
ランス: サム・ボトムズ
クリーン:ローレンス・フィッシュバーン
チーフ: アルバート・ホール
報道写真家: デニス・ホッパー
ルーカス大佐: ハリソン・フォード
コーマン将軍: G・D・スプラドリン
CIAエージェント:ジェリー・ジーズマー
コルビー大尉: スコット・グレン
勝手に評点:
(オススメ!)

コンテンツ
あらすじ
サイゴンのホテルに滞在していたアメリカ陸軍のウィラード大尉(マーティン・シーン)は、軍上層部からカーツ大佐(マーロン・ブランド)の暗殺を命じられる。
カーツ大佐は任務で訪れたカンボジアのジャングル奥地で勝手に自らの王国を築きあげ、軍から危険人物とみなされていた。
ウィラード大尉は部下たちを連れ、哨戒艇で川をさかのぼってカーツ大佐の王国を目指すが、その途中で戦争がもたらした異様な光景を次々と目撃する。
今更レビュー(ネタバレあり)
IMAXで見る戦場の狂気
コッポラ監督の新作『メガロポリス』公開を控え、この作品をIMAXで限定上映してくれるというので、つい足を運んだ。ありふれた表現しか思い浮かばず恐縮だが、やはり迫力の巨大スクリーンと優れた音響システムは、没入感が違う。
つい先月に配信版を観たばかりだったが、カーツ大佐が登場する後半は暗闇の場面が多いので、我が家のTVスクリーンでは『闇の奥』が見えず、消化不良だった。
前半の「空の騎兵隊」のヘリの飛行や掃射の爆音も、劇場ならではの臨場感。自宅で聴くには、たとえイヤホンでもためらうほどの大音量だ。
映画は冒頭、ベトナムの戦地のジャングル。あれ、霞んでみえるのは、画質が粗いせいか?
そう思うと、ヘリの機体が画面を横切る。霞んでいたのは煙のせいで、ナパーム弾で一機に燃え上がる森林。ドアーズの「ジ・エンド」が流れる。これから3時間の戦争体験が始まるのだ。
サイゴンで心身を疲弊し、妻とも別れたウィラード大尉に新たな指令が下る。カンボジアで神と化したカーツ大佐を見つけ出し、殺せ。指示する上司の一人、ハリソン・フォードは『カンバセーション 盗聴』でもこんな役だったな。

CIAのエージェントにふさわしい仕事だが、スパイ映画と違い、派手な装備もまとわりつく女もいない。ただ、敵地に潜入して目標を殺すミッション。
ウィラード役のマーティン・シーンは、後の『アウトサイダー』のエミリオ・エステベスの実父だと思うと感慨深い。
キルゴア中佐のキャラが熱い!
前半は、米軍がいかにこの戦地ベトナムで、無茶な戦いを繰り広げているか。その象徴が、<空の騎兵隊>を率いるロバート・デュヴァル演じるキルゴア中佐。
敵の戦死者の上にトランプのカードを一枚一枚置き、誰の仕業かを誇示。
ウィラードの部隊にプロサーファーのランス(サム・ボトムズ)がいることを知ると、サーフスポットにある敵陣を襲撃し、砲火の飛びかう中で、部下たちにサーフィンを強要する。
キルゴア中佐のやることなすことはどれもマンガ的だが、リアルな戦場でこれをやっているところが狂気である。

ワーグナーを大音量で流して敵を威圧しながらヘリで襲撃をかけるキルゴア中佐ら<空の騎兵隊>の戦地での慢心がおぞましい。意気上がる名曲「ワルキューレの騎行」は、本作登場以降、この襲撃場面と密接不可分になってしまった。
ヌン川の河口まで護送してもらうはずの騎兵隊から逃れ、ウィラードたちの哨戒艇はカーツのいる上流に向かう。
次に給油に訪れた米軍居留地で、彼らはプレイメイトたちの慰安訪問ショーに出くわす。兵士たちの暴動寸前の熱狂。軍用ヘリに『プレイボーイ』のウサギマークは、この作品のアイコンのような扱いになった。
グッモーニング、ベトナム!
川を上る哨戒艇の面々、クリーン(ローレンス・フィッシュバーン)はラジオから流れるザ・ローリング・ストーンズの「サティスファクション」に身体を揺らせ、ランスは水上スキーに興じる。
どこか楽し気な雰囲気になった矢先、すれ違ったベトナム人の貨物舟の荷を調べる際、はずみで全員を殺戮することに。ここは紛れもなく戦場なのだと思い出す。
やがてウィラードらの舟は、ド・ラン橋の米陸軍の前哨基地を抜け、更に上流へ。ここから先はいよいよカーツ大佐のいるカンボジア。だが、突然の敵の襲撃で、まずクリーンが戦死する。

遭遇したフランス軍の残党との晩餐。ここでの会話の多くは、特別完全版からファイナルカットに移行する際に削除されてしまったようだが、映画のバランスや本質を考えると、それでよかった。
米国がベトコンを生み出した等、ベトナム戦争にまつわる政治的な会話は、ミッションでカーツ大佐を探し抹殺するウィラードのミクロな視点には不要なものだ。
この映画で、戦局や軍事を語る必要はない。兵士が視野狭窄の中で突き進む恐怖を伝えるのに、情報は少ない方がいい。

そして、責任感の強い哨戒艇長のチーフ(アルバート・ホール)も敵襲にやられ、ついに生存者はウィラード、ランス、シェフ(フレデリック・フォレスト)の三人になった頃、ようやく彼らはカーツ大佐を神と崇める山岳民のいる集落へ。
ここで神として君臨するカーツがどういう人物なのか。ウィラードは興味を隠せない。
後半は失速するが、前半だけで傑作
ヌン川を上流に進んでいく哨戒艇は、行く先々で様々な狂気の世界に遭遇する。
その緊迫した非日常と壮大なスケールの戦闘シーンは、破産上等のフランシス・フォード・コッポラ監督の捨て身の覚悟がなければ、とても映像に収められるものではなかったのだろう。
◇
彼らの哨戒艇を、カーツを崇める大勢の山岳民たちが舟に乗って待ち構えている場面がある。映画はその場面を前後にまったく違う映画になってしまったように思う。
戦争の愚かさと狂気を全面に出した、傑作の名に恥じない前半に比べ、哲学的な後半は面白みに欠け、理屈っぽいのだ。特に、カーツ大佐のマーロン・ブランドの存在感が勿体点けすぎてよくわからない。コッポラがこの大物俳優の我儘に難儀したのには同情する。
「カーツは脱走兵ではなく、兵士として名誉ある死を望んでいたのだ」とウィラードは察する。地獄を知る者にしか、カーツを理解できないし、彼を殺すこともできない。
祭りのさなかにウィラードはひとりで放送しているカーツの背後に忍び寄り、牛の首を斬る祭りにシンクロさせるように、カーツを斬殺する。
◇
ミッションはクリアしたが、ファイナルカットで3時間、地獄の戦場を見せられたその結末に、これといった達成感がないところがこの作品らしいところかもしれない。
そしてカーツに代わり神のように崇められながら、かの地を去るウィラードは、その恐怖を継承するかのように、ジョゼフ・コンラッドの原作『闇の奥』と同じ言葉を呟く。
「地獄だ、地獄だ」