『ルート29』
「こちらあみ子」の森井勇佑監督が綾瀬はるかを主演に贈る低体温ロードムービー。
公開:2024年 時間:120分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 森井勇佑
原案: 中尾太一
『ルート29、解放』
キャスト
中井のり子: 綾瀬はるか
木村ハル: 大沢一菜
木村理映子: 市川実日子
赤い服の女: 伊佐山ひろ子
じいじ: 大西力
森の父: 高良健吾
森の少年: 原田琥之佑
牧場の大きい男: 松浦伸也
中井亜矢子: 河井青葉
時計屋のおばあさん: 渡辺美佐子
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
他人と必要以上のコミュニケーションを取ることができない孤独な女性・のり子(綾瀬はるか)は、鳥取の町で清掃員として働いている。
ある日、彼女は仕事で訪れた病院の入院患者・理映子(市川実日子)から「娘を連れてきてほしい」と頼まれ、何かに突き動かされるように姫路へと向かう。
やがて見つけたハル(大沢一菜)は風変わりな女の子。のり子とハルは姫路と鳥取を結ぶ国道29号線を進むなかで、さまざまな人たちと出会いながら互いの絆を深め、からっぽだったのり子の心は喜びや悲しみの感情で満たされていく。
レビュー(今回ほぼネタバレなし)
ルート29、解放してない
今年一番の衝撃作だったかもしれない。いい意味ではない。
『こちらあみ子』で鮮烈デビューを放った森井勇佑監督が、リアルあみ子だった大沢一菜を再起用し、主演に綾瀬はるかを迎えたロードムービー。陣立ては悪くない。
ベースとなっているのは、中尾太一による詩集『ルート29、解放』。これにインスパイアされた森井監督が映画に仕立て上げた。詩集からまったく新たな世界観を構築することはアリだろう。
例えば、その成功例といえる石井裕也監督の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、詩集とはまったく脱線した映画になっているが、たまに詩人・最果タヒの世界観を感じさせるショットがある。何より、映画には詩集以上の躍動感が漲っている。
翻って本作はどうだ。綾瀬はるかが演じるコミュ障っぽい主人公・中井のり子が、風変りな少女ハル(大沢一菜)を、病院に療養中の母親(市川実日子)のもとまで連れていく物語。
『ルート29』とは姫路と鳥取を結ぶ国道29号線のことであり、のり子(ハルによってトンボと命名される)とハルの二人が母を訪ねて何千里。だが、ロードムービーのはずなのに、まるで躍動感も解放感もない。
詩集『ルート29、解放』から『解放』の文字を削除しているのだから、確信犯か。
コミュ障の女が主役でも、本格的なロードムービーが撮れることは、菊地凛子が『658km、陽子の旅』(熊切和嘉監督)で証明しているのに。
なぜ躍動感がないのか
なぜ躍動感がないかというと、俳優の動きをあえて止めているからだろう。のり子は清掃員として病院等の施設を巡って働いているが、非常識なことばかり引き起こす。
鳥取の病院で出会った患者の木村理映子(市川実日子)に依頼されたからといって、姫路まで行って人探しするのも、少女との移動のために清掃用の業務車両を盗み出すのも素っ頓狂な行動だ。
だが、常識外なアクション自体は映画的なはずなのに、それを受ける次のカットは、大抵周囲の者が唖然として固まっているというもの。
北野武監督作品でかつてよく使われた、笑いのための演出。イメージでいうと、『孤独のグルメ』の五郎さんが「腹が、減った…」と棒立ちになっているショット。
この演出は悪くないとはいえ、一つの作品に頻出させるとなると、さすがに食傷気味だ。
また本作は、旅の話のわりには会話劇が多く、しかもひとりが話している間、相手は微動だにせずに聞いているようなカットが多い。それをロングショットで撮るものだから、画が退屈なこと、このうえない。
驚いたことには、役者が話しているときでも、まるで顔が動かず、誰が話しているか分からないことさえあった。なるべく動かず芝居をするように、演技指導でもあったのか。
◇
躍動感に溢れていた『こちらあみ子』と同じ大沢一菜を起用しているはずなのに、映画全体が静止画のような、この動きのなさは何だ。詩集に動きを与えてこその映画化ではないのだろうか。
綾瀬はるかに作業着ツナギとは
これだけでも私は相当に萎えてしまったが、更に追い打ちをかけたのが、綾瀬はるかの使い方だ。
『リボルバー・リリー』の撮影終了から1年の休養を経ての撮影で、充電もバッチリなはずなのに、ボサボサの髪の毛に掃除スタッフのダボダボのツナギ姿で終始一貫。これは、冴えない。
製作のリトルモアについては『はい、泳げません』でも酷評したが、綾瀬はるかはあの時も水着とはいえスパッツタイプで色気のないやつ、今回は更に露出度低下どころかボディラインも分からないダボダボのツナギ。
『プリンセス・トヨトミ』の再来を期待するわけではないが、あの格好でずっと行くのはさすがに寂しい。彼女の喫煙シーンばかり目立っていたのも、何の意味があったのか。全体の役者の動きが少ない分、喫煙ばかりが悪目立ちする。
◇
通りすがり、というか病院の庭で煙草を一本あげただけの患者の女に、娘を連れてきてといわれて主人公が実行に移すプロットの説得力のなさ。
ローラースケートの少女という手がかりだけで見つけた自然児のような少女ハル。それが誘拐であるとも気づかずに少女を連れ出してしまう女に、掃除スタッフというまともな仕事が務まるのか。
変な人たちとの出会いと別れ
それでも、旅の途中で様々な人との出会いと別れを繰り返す、ロードムービーの王道パターンの始まりまでは、まだ期待があった。
赤い服の女(伊佐山ひろ子)が大きな犬たちを連れて寂れたレストランで二人と出会い、いなくなった一匹を三人で探すうちに、女にクルマを奪われる。
変な映画だなあと感じ始めると、今度は路上で横転したクルマにのっていたじいじ(大西力)と出会う。
森で何年も隠遁生活をしている父(高良健吾の無駄遣い)と子(原田琥之佑)、牧場の大きい男(松浦伸也)など。不思議な連中に会っては別れていくのだが、どれも奇天烈なファンタジーすぎて、共感できずに眠気だけが襲ってくる。
その誰にも生命力が感じられず、特にじいじなどはカヌーを漕いでいると死後の世界の使者としか思えない連中が迎えに来て去っていくことから、二人が出会っているのはみんな死んでいる人たちなのかもしれない。
いや、ひょっとしたら二人も既に死んでしまっているのかも。
旅の途中で唯一、まともに生命力のありそうな人物が出てくる。小学校の先生をしている、のり子の姉の中井亜矢子(河井青葉)と再会する。
「今夜はうちに泊まっていくでしょう?」と歓待するわりには、自宅で二人を居間に座らせて長々とピアノを弾く姉。なんとマイペース(しかも「猫ふんじゃった」だよ)。
田舎の一軒家は夜でも演奏OKなのかと思っていたら、隣人の老夫婦が苦情を言いに。この姉も精神を病んでいるようだ。誰もまともなヤツが出てこない映画なのか。
死んでもまた会おう
この、得体の知れない姉との会話シーンは、黒沢映画のような不気味さだが、この映画の軸足がよく分からない。
写真を裏返しに並べて、「生きてる」「死んでる」と神経衰弱のようにカード遊びをしている老人。飲食店のトイレの窓から逃亡したハルを探していると、交通事故で死んでしまった見知らぬ子供の遺体に出くわすのり子。
夜に無人のアーケード街を、シニアカーで近づいてくる時計屋の老女(渡辺美佐子)。笑わせたいのか、怖がらせたいのか。どっちなのだ。生と死を扱いたいのなら、もっときちんとした映画にしようよ。
大きな赤い月を不安そうに町中の人が見上げているシーンだけは、ダイナミックで見応えがあるけど。
ついにハルを連れて病院で母(市川実日子)に会わせると、「私はもう死んでいる」などと、北斗の拳のような台詞を吐く。「死んでも、また会おうよ」と笑うハルには、ちょっとだけあみ子の面影が感じられた。
誘拐事件と報じられていたのり子は、警察に出頭し逮捕され、ハルは保護される。警察内でのり子を警察官が取り囲むシーンを無音にしたのは、面白い。
◇
ハルを乗せ姫路に戻る警察車両、山道(29号線?)を巨大な魚がぷかぷかと進んでいくのをハルだけが目にする。ファンタジー映像で終わるのも『こちらあみ子』と一緒か。
本作の撮影で、綾瀬はるかは同年代の森井勇佑監督の言葉や目指すものにとても共感できたそうだ。きっと、分かる人には分かる映画なのだろう。
私がまったくダメだったのは、彼女たちと同年代ではなかったから、だけではないと思うが。