『オープニング・ナイト』
Opening Night
ジョン・カサヴェテス監督が妻ジーナ・ローランズを舞台女優役に起用したバックステージもの。
公開:1977 年 (日本初公開:1990年)
時間:144分 製作国:アメリカ
スタッフ 監督・脚本: ジョン・カサヴェテス キャスト マートル・ゴードン: ジーナ・ローランズ マニー・ビクター: ベン・ギャザラ モーリス・アーロンズ: ジョン・カサヴェテス サラ: ジョーン・ブロンデル デヴィッド: ポール・スチュワート ドロシー・ビクター: ゾーラ・ランパート ナンシー: ローラ・ジョンソン
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
舞台女優として活躍するマートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)は、新作『第二の女』に取り組んでいた。
彼女は、自分の熱狂的ファンだという若い娘・ナンシー(ローラ・ジョンソン)が車にはねられ即死する現場を目の当たりにしたことをきっかけに、精神のバランスを崩しはじめる。
新作舞台の稽古に挑むが、役柄と自分との年齢のギャップに疑問を感じ、どう演じていいか分からず苦悩する。老いを認めたくないマートルは、脚本を書いたサラ(ジョーン・ブロンデル)と対立し、情緒不安定になっていく。
さらに、死んだはずのナンシーの幻影まで見えるようになる。そしてついに新作舞台の初日の夜、開演までに戻るという言葉を残して行方をくらます。
今更レビュー(ネタバレあり)
酒浸りの舞台女優
ジョン・カサヴェテス監督が妻のジーナ・ローランズを老いを気にし始める舞台女優として主人公に起用し、舞台劇のバックステージを描いた人間ドラマ。
ジーナ・ローランズは本作の熱演で、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞。そう聞くと、いつものインデペンデントな作風は鳴りを潜めたかと思いきや、相変わらず我が道を行くスタイルには変わりがない。
ジーナ・ローランズが演じる売れっ子の舞台女優マートル・ゴードンは、楽屋に戻れば酒をあおるような酒浸りの毎日。
いつも多くのファンに囲まれているマートルは、ある日熱狂的ファンの若い女性ナンシー(ローラ・ジョンソン)と出会う。だがその直後、雨の降る中マートルを乗せたクルマが走りだすと、その眼前でナンシーは交通事故死してしまう。
ショックを受けるマートルだが、周囲のスタッフはそんなことは意に介さずに、ショービジネスの運営に明け暮れる。そんな彼らの態度を不快に思うマートル。このあたりから、彼女の精神はバランスを崩し始める。
◇
目下、マートルが取り組んでいる新作舞台は 「第二の女」。離婚した昔の男の家庭に突如おしかけて再会した主人公の女が、家に戻り今の亭主と殺伐とした口論を繰り返す。
その女の役柄の設定は実際の自分より老けており、マートルはうまく「老い」を演じることに葛藤がある。そこには希望がないと、彼女は言う。
確かに「夫婦役」のカサヴェテス夫妻
ジョン・カサヴェテスの監督作品の中で、カサヴェテスと妻のジーナ・ローランズが唯一「夫婦役」として共演しているのが本作だという。
確かに嘘ではないのだが、二人はともに俳優の役で、新作舞台の中でマートル・ゴードンと夫役のモーリス・アーロンズ(ジョン・カサヴェテス)が「夫婦役」で共演しているのだ。これはまんまと騙されてしまった。
舞台の上で夫に頬を叩かれる芝居が嫌で耐えられないと文句を言うマートル、「叩く音がするだけで痛くしないから」と宥めるモーリスと、彼女の扱いに手を焼く演出家のマニー・ビクター。演じるのは『ハズバンズ』のベン・ギャザラ。
叩かれるのは嫌だと駄々をこねたあとは、好き勝手に台詞をアレンジしてみたり、小道具を使ってふざけたり、
台本を無視してアドリブを繰り返すようになるマートル。
マニーを筆頭に、劇作家のサラ(ジョーン・ブロンデル)やデヴィッド(ポール・スチュワート)も困り果てるのだが、これは売れっ子女優がわがままを繰り返しているだけの話なのだろうか。
そう思い始めた頃に、マートルは事故死したナンシーの幻影を見るようになる。
「あなた、死んだ後もあの娘と会ったの?」
心配するサラは、マートルを霊術師のもとに連れていく。いやいや、オカルト映画にはならないだろうが、でも死んだはずのナンシーはたまにマートルの前に姿を見せるし、一体、物語はどこに向かっていくのか想像がつかなくなる。
オープニングナイトが来る
霊術師たちはナンシーを悪霊扱いするのだが、どうやらそうやって他人の手を借りて除霊することをマートルは快しとしないようだ。さすが『グロリア』のジーナ・ローランズである。
だが、そもそも本当にこのナンシーが、事故死した娘の霊なのかも疑わしい。たまたま事故を目の当たりにしてしまっただけで、実際にはマートルの内面から現れた、もう一人の自分なのかもしれない。
結局自分の手でこのナンシーの霊と対決する場面はなかなか驚いた。
◇
だが、映画的にはここから先の、タイトル通り新しい舞台のオープニングナイトにマートルが現れないという場面からが、カサヴェテスの真骨頂だ。
といっても、別に周到に準備されたどんでん返しや伏線回収がある訳でもない。幕を上げられずに観客席に詫びるかという切羽詰まった状況で、ようやく彼女が楽屋に姿を見せる。それも泥酔状態で。
当然、台本通りに芝居ができるはずもない。いやそれどころか、いつ彼女が酔いどれて倒れるか、或いは客席にゲロを吐くか、みたいな恐ろしい緊張感を、劇場関係者と同じように我々も強いられることになる。こんな映画は珍しい。
カサヴェテスといえば即興演技だが、本作では「即興演技を舞台でやっている」という芝居を即興でやっているわけか。
先日、黒澤明以来はじめて米アカデミー賞と世界三大映画祭のすべてで受賞を果たした日本の映画監督となった濱口竜介が、傾倒するカサヴェテスを大学の卒論で取り上げたことはよく知られている。
濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』の劇中にも登場する、抑揚を捨てて台詞が身体の中に入り込むまで本読みを繰り返すリハーサル手法は、このカサヴェテスの即興演技とは対極にあるようにも思うが、どうなのだろう。