『ミッドナイトスワン』
草彅剛演じるトランスジェンダーの主人公と、バレエの才能に恵まれながら育児放棄で屈折した少女との疑似母子の物語。
公開:2020年 時間:124分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 内田英治
キャスト
凪沙(武田健二): 草彅剛
桜田一果: 服部樹咲
片平実花: 真飛聖
桜田早織: 水川あさみ
桑田りん: 上野鈴華
桑田真祐美: 佐藤江梨子
桑田正二: 平山祐介
洋子ママ: 田口トモロヲ
瑞貴(野上剣太郎): 田中俊介
キャンディ: 吉村界人
アキナ: 真田怜臣
武田和子: 根岸季衣
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
故郷広島を離れ、新宿のニューハーフショークラブのステージに立つ、トランスジェンダーの凪沙(草彅剛)。
ある日、凪沙は養育費目当てで、少女・一果(服部樹咲)を預かることになる。
常に社会の片隅に追いやられてきた凪沙、実の親の育児放棄によって孤独の中で生きてきた一果。そんな二人にかつてなかった感情が芽生え始める。
レビュー(まずはネタバレなし)
草彅剛がトランスジェンダー役を演じる意味
『全裸監督』の内田英治の映画、といっても彼が脱ぐのではない。<全裸>つながりという訳でもなかろうが、草彅剛がトランスジェンダーの役で主演すると聞いて、はじめは違和感を覚えた。
著名な男性アイドルグループ出身でも、女性的な甘いマスクが売りという訳ではない彼が演じると、<女装しました感>が強すぎるのではないかと思ったのだ。
◇
だが、その懸念はポイントがずれていた。トランスジェンダーは女装ではなく、内面が女性なのであり、外見のそれらしさとは無関係なのだ。
実際、つかこうへいから自分の内面を滲み出す芝居を徹底的に鍛えられた草彅剛らしく、とってつけたような小手先の女性的所作ではない、内面から湧き出る演技を本作ではみせてくれる。
◇
世界的には、この手の役はトランスジェンダーの俳優が演じることが主流になっているようだ。
例えば、本作でもクラブ・スイートピーのショーガール仲間を演じた真田怜臣の主演というのでも見応えがありそうだが、まだまだトランスジェンダーへの認知度が発展途上の我が国においては、草彅剛のようなメジャーなシスジェンダー俳優が演じて注目を集めることに、相応の意義があるのだろう。
一果との奇妙な共同生活、そしてバレエ
草彅演じる主人公の凪沙は、新宿のクラブで働いている。自分が女性として暮らしていることを広島の実家には伝えていないが、育児放棄で通報された親戚・桜田早織(水川あさみ)の娘・一果(服部樹咲)を、生活費目当てで短期間預かることになる。
夜の店勤めと狭いアパートの往復だけに見え、金魚のエサやりくらいしか潤いのない凪沙の荒んだ日常から、上京しても心を開かずろくに口もきかない一果との共同生活が始まる。
◇
あまりに重苦しい日々だが、その中で、一果は近所のバレエ教室を目にとめ、体験レッスンを受ける。そして、バレエ指導の片平実花(真飛聖)は、彼女の才能に気づく。
トランスジェンダーとバレエの組み合わせは、ベルギー映画の『Girl/ガール』を思い出させる。あれも美しく、また、重く悲しい映画だった。
だが、本作では凪沙が本格的にバレエをするのではなく、踊るのは専ら中学生の一果だ。誰ともろくに会話もせず心を閉ざしたままの彼女は、バレエだけが救いとなり、レッスンに励むようになる。
◇
薄暗いアパートの外廊下で舞うように踊る一果のいきいきとした動きが、普段の彼女とはあまりに対照的だ。
服部樹咲は女優としては本作がデビューだが、バレエでは輝かしいキャリアの持ち主という。たしかに、トゥシューズを履いた時の彼女は、まるで別人のように大きく見える。
苦しんでいる者同士
凪沙が毎週ホルモン注射に通っている怪しげな医者には、「もうそろそろ取っちゃえば」と薦められる。彼女は性別適合手術のために貯金をしているようだ。
この辺の通院の描写はあまり説明的ではないので、分かりにくい点もあるが、体調不良や、「いつも泣けばおさまるのよ」、といった台詞から想像できる。
◇
注射の副作用か、「なんで私だけがこんなに苦しい思いを」という悲痛な叫びで泣き崩れる凪沙。
小学生の臨海学校で、「なんで私、スクール水着じゃなくて、海パン履かされてるんだろう」と悩んだ頃から、この苦しみは続いている。
◇
そして一果もまた、母親に愛されず育児放棄の中でリストカットのためらい傷を増やし、ここ新宿の町に転がり込んできた。
だが、この二人はどん底の生活ですぐに傷をなめ合うのではない。それだけ、心を開くことに臆病になってしまったのだろう。
二人が距離を埋めるのには、長い時間がかかる。それが、映画のなかでは大きな効果をあげている。作り込んでいない、一果の無表情さと冷淡な眼差しが新鮮だ。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
私たちは流行ではないし、化け物でもない
バレエのレッスン代を稼ぐために、凪沙は昼間の仕事の採用面接にいく。
「LGBT、いま流行ってますよねー。私も勉強しています」
中年の男性面接官がそう言って、若い女性社員に窘められる。これが日本の現実に近いのか。認知はされつつあっても、それは流行のひとつとしてなのか。
クラブの男性客が、「オカマだってこんなに綺麗なんだぞ。お前ら負けてる」と周囲の女性に言うシーンもある。どれも、本人は悪気なく言っているところが怖いと思うが、では自分にはあり得ないと言い切れるか。
学校や警察など、多くの場所でトランスジェンダーゆえの偏見や差別が感じ取れる。田舎に行けば、その度合いは更に強まるのだろう。
終盤、広島の実家に戻る凪沙は、母(根岸季衣)に泣かれ、一果の母親(水川あさみ)に化け物呼ばわりされる。
◇
そんな中で、バレエレッスンの実花先生だけは、何の不自然さもなく凪沙に接してくれる。これは救われる。
先生が凪沙のことを「一果ちゃんのお母さん」と無意識に言い間違えるシーンで、二人が笑い合う場面は、本作で数少ないほっとするひとコマだ。
疑似母子で踊るミッドナイトスワン
中盤、夜の公園で一果が凪沙に「私にも教えなさいよ」と言われ、一緒にバレエを踊るシーンがある。ここで、疑似母子の幸福感に満ちた時間がはじめて映し出される。何とも温かい。
だが、それを観ていて拍手する老人がいう。
「すばらしい、オデットですか。でも、朝が来れば、白鳥に戻ってしまうのは、何とも悲しいですな」
夜には美しい女性の姿でいられても、朝にはまた元の姿に戻ってしまう。二人が踊る「白鳥の湖」には、どこか凪沙の人生を暗示しているような悲劇性がある。なるほど、うまいタイトルだ。
ついにコンクールに出場する一果は優勝候補と目されたが、大事な本番ステージで動けなくなってしまう。バレエ教室で出会ったライバルで親友のりん(上野鈴華)が、その日に自殺をしてしまったのだ。
ステージ上で踊る凪沙の曲に合わせて、ビルの屋上で同じように踊るりんが、そのまま空を飛ぶように屋上から身を投げるシーンは、衝撃的でもあったが、その後について何も映画では触れない潔さもまた、本作らしい。
ここから転がるように堕ちていく
さて、このコンクールを境に、物語は悲劇の階段を下降していく。もうママは正常に戻ったのよといい、一果を連れ戻しに来る母。当初予定通りとはいえ、再び引き裂かれてしまう凪沙と一果の関係。
水川あさみのヤンママ系な迫力と凄みは、『喜劇愛妻物語』以上に増量していて、本来の姿が想像できなくなっている。
そして、これも当初予定通りだが、凪沙はタイに行き、性別適合手術を受ける。長年遠ざけていた広島にも、「こんな田舎で燻ってないで、バレエで世界を目指しなさい」と、一果を連れ戻しに行くが、周囲に追い返される。
◇
やがて中学を卒業した一果が凪沙を訪ねて上京すると、なんと術後のケアが悪かったせいで、彼女はボランティアにおむつを替えてもらうような、重篤な病状になっている。これは悲惨だ。
草彅剛が汚れたおむつを履く役をやるとは思わなかった。現実にはタイの性別適合手術は世界最高水準で、こういうケースは考えにくいそうだ。映画ゆえのフィクションだろうが、世間的に誤解を浸透させる懸念はある。
この後、砂浜で凪沙にバレエを披露する一果のダンスは美しいの一言だが、そこでの死別はあまりにもの悲しい。
本作を観た時、あるいは小説を読んだ時には、この術後経過悪化からの流れはあまりに重苦しすぎるとちょっと拒絶反応が出た。
だが、内田英治監督によれば、本作を撮るにあたり、実際に多くのトランスジェンダーの声を聞いてみて、その結果、安易に希望を感じさせるラストにはできないと痛感したそうだ。
ラストまでの展開は悲しいが、これは現実に苦しんでいる人たちを、嘘にはしたくないとの思いなのだろう。それは伝わった。