『フェリーニのアマルコルド』
Amarcord
イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ監督が生涯忘れられないと話す、自身の少年時代を回想して描いた、港町リミニでのある一年の物語。
公開:1974 年 時間:124分
製作国:イタリア
スタッフ
監督: フェデリコ・フェリーニ
音楽: ニーノ・ロータ
キャスト
チッタ: ブルーノ・ザニン
グラディスカ: マガリ・ノエル
チッタの母: プペラ・マッジオ
チッタの父: アルマンド・ブランチャ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
1930年代。港町リミニで暮らす少年チッタ(ブルーノ・ザニン)は、学校の友人たちとイタズラに明け暮れる毎日を送っていた。
年上の女性グラディスカ(マガリ・ノエル)に憧れるチッタだったが、子ども扱いされ全く相手にされない。町にファシズムの足音が忍び寄る中、チッタの周囲では様々な出来事が起こり、その年は彼にとって生涯忘れられない一年となる。
今更レビュー(ネタバレあり)
悪ガキだった少年時代の思い出
フェデリコ・フェリーニが幼少期を過ごしたイタリア北部の港町リミニでの思い出をふんだんに採り入れた自伝的な作品。
そもそもタイトルのアマルコルド自体、「私は思い出す(Am’ arcord)」を意味するロマーニャ地方の方言から持ってきているらしい。ちなみに原題に<フェリーニの>という接頭語は付いていない。
タイトルのレタリングがハイセンスで、観る前から嬉しくなる。昔はこういうのが多かったけれど、最近はあまり見かけない。大体、冒頭にタイトルすら出さない作品が横行しているくらいだし。
◇
さて、本作には一応、<あらすじ>に記載のとおり語るべきストーリーはあるのだが、まあ殆ど重視されていない。そういうドラマ的なものよりは、絵としての面白味や芸術性を観るべき作品なのだろう。
私はどちらかというと、その手の映画はすぐに途中で放り出したくなるタイプなのだが、不思議と本作は飽きずに観ていられる。それが、まさにフェリーニのマジックなのかもしれない。
春の訪れの綿毛とニーノ・ロータの調べ
冒頭の、春の訪れとともに街中にふわふわと舞い落ちる大量の綿毛の中で、市民が幸福そうにしているシーンだけでも、ただの独りよがりな芸術家気取りの作品ではないことが伝わってくる。
でも、本当にそうなのだろうか。
◇
きっと多くの観客は、このいきなりの綿毛シーンと、ニーノ・ロータの格調高く、そしてやや叙情的なテーマ曲のリフレインによって、知らぬうちにこの作品の芸術性を高めに評価している。
一旦、そう位置づけると、あとは、少年の性への好奇心や悪ガキ連中とのふざけ合いがお下劣青春ムービーのようであっても、大人の男どもがどいつもこいつも放屁ばっかりしていても、作品が高尚なものに見えてしまう。
そう考えると、この作品はつかみどころがよく分からない。いや、勿論、アカデミー賞で外国語映画賞を獲得するほどの作品であることは、認識してはいるけれど。
チッタ少年(ブルーノ・ザニン)は、街の男たちのマドンナ的な存在であるセクシーダイナマイトのグラディスカ(マガリ・ノエル)を追いかける。
勿論、こんなガキはだいぶ年上の彼女の相手にはされず、だからこそなのか、頭の弱そうな娼婦のヴォルピーノや、超巨漢の煙草屋の女店主にまで触手を伸ばす。
基本は女のケツを追いかけまわす行動が軸になっているのに、不思議と下品でもエロい感じでもない。
思い付きのようなエピソードが紡ぐ物語
ムッソリーニを崇拝するファシスト党に反発する父親(アルマンド・ブランチャ)が拷問を受けるシリアスな展開もあれば、病院から連れ出した精神を病んだ叔父が木の上で五時間も「女が欲しい!」と叫び籠城する笑えるシーンもある。
或いは、街の人々が小舟にのって米国からやってくる大型船を待ってみたり、ミッレミリアの公道レースが開催されたりと、不思議なイベントがはさまることもある。
そして、欧州では不吉の象徴といわれているようだが、孔雀が飛来しては鳴いて美しい羽根を広げると、優しかった母(プペラ・マッジオ)は病気で亡くなり、そして、チッタの憧れの女性・グラディスカは街中に祝福され、結婚してしまう。
◇
映画は綿毛の春の到来から、大型客船の夏を過ぎ、濃霧のたちこめる秋を経て、記録的大雪の冬を迎え、そして再び綿毛の春がやってくる。
一つ一つのエピソードは、けして難解ではないのだが、通しでみると、どうにも腹落ちしない。
ふわっと仕上げが魅力の作品
同じような少年時代の性への目覚めのようなエピソードが入り、しかも夢や現実の時系列が交錯する『8 1/2』の方がストーリーとしては複雑なのに、本作より理解できたような気がするのは、面白いものだ。
でも、本作を熱烈に愛する人たちがいるであろうことは、何となく想像できる。
カッチリとした人情噺を好む御仁は、例えばフェリーニならば『道』を推すことが多いように思われるが、ふわっとした内容だけれど感性に訴えるような作品が好みの人であれば、本作とは相性が良さそうだから。
◇
カッチリ派を唸らせる作品を撮れる監督は他にもいるように思うが(『道』をディスっている訳ではないです、念のため)、ふわっと派を認めさせる作品が撮れるのは、フェリーニ監督を除けば、そう思い当たらない。その点では、本作は稀少性がある。
本作は4K復元版で観たが、この復元にイタリアでは相当に体力をかけていることが、映画の最初に説明される。きっと彼らには、この作品の価値と稀少性が、よく分かっているのだろう。
個人的な話になるが、何十年も前に、なぜか本作の主題歌のサントラ版が手元にあって、映画も観たことがないのに、ニーノ・ロータの曲ばかりずっと気に入って聴いていた時期がある。
それが『アマルコルド』の曲であることさえ、すっかり忘れていたのだが、今回イントロを聴いただけで、当時のあれこれが鮮明によみがえってきた。
これはまったく想定外の感動だったので、本作自体にはまったく関係のないポイントで恐縮だが、少し作品に贔屓目になっている。