『複製された男』
Enemy
ヴィルヌーヴ監督とギレンホールが再タッグの異色作。自分に生き写しの男に出会ってから狂いだす人生。蜘蛛のメタファーに幻惑されてはいけない。当初は難解に思えたが、答えは原作にあったと気づく。
公開:2013 年 時間:90分
製作国:カナダ
スタッフ 監督: ドゥニ・ヴィルヌーヴ 原作: ジョゼ・サラマーゴ 『複製された男』 キャスト アダム/アンソニー: ジェイク・ギレンホール メアリー: メラニー・ロラン ヘレン: サラ・ガドン キャロライン:イザベラ・ロッセリーニ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
ある日、なにげなく鑑賞した映画の中に自分と瓜二つの俳優を見つけた大学の歴史講師アダム(ジェイク・ギレンホール)は興味を持ち、その俳優アンソニーの居場所を突き止める。
その後、2人は顔、声、生年月日などすべてが一致することを知ったうえ、やがてアダムの恋人メアリー(メラニー・ロラン)、アンソニーの妻ヘレン(サラ・ガドン)を巻き込み、想像を絶する運命をたどる。
レビュー(ネタバレあり)
ドッペルゲンガーを見た男の悲劇
自分と瓜二つの人物の存在を知ってしまったことから、アイデンティティーが失われていく男の姿を描いたミステリー。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品なら観てみるかと、数年前に手を出して難解さに唖然とした記憶があったが、今回観直してみる。
ついでに、ノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの原作も読んでみたが、結構発見があったので、これについては次章で述べたい。
◇
主演はジェイク・ギレンホールが大学の歴史講師アダムと脇役俳優アンソニーの二役を演じる。
ヴィルヌーヴ監督の『プリズナーズ』に続く主演起用だが、ただでさえ、濃厚な顔立ちで存在感ありまくりの彼が二人も出てくるとなると、ちょっと暑苦しい感じがある。
加えて、舞台となったトロントの町もどこか靄のかかったような映像でとらえていて、息苦しさを増幅させる。
◇
タイトルにもあるように、複製されたように自分とそっくりな男をレンタルビデオの映画から発見し、その俳優を探しあてて、ついには対峙する。この展開は引きこまれる。
だが、黒沢清の『ドッペルゲンガー』を例に出すまでもなく、自分の分身は死亡フラグのようなもので、当然不吉の前兆だ。この手の話の着地点のバリエーションは限られる。
以下に、公式サイト等の情報も参考にした、ネタバレというか推論を組み立ててみる。初見の際は、ここまで洞察する元気はなかった。
メタファーから導き出された推論
アダムとアンソニーの風貌や生年月日まで同じなのは、生き別れた双生児という可能性もありえるが、後天性の胸の傷まで一緒で持っている写真も同じとなると、現実解はない。
SFやオカルトならいざ知らず、あり得るのは多重人格や妄想といった答えだ。そうなると、不可解なシーンも説明がつく。
◇
アダムの母(なんとイザベラ・ロッセリーニ!)は、なぜ講師の息子に「あんな立派な部屋に住んで」と言い、ブルーベリーを勧めたのか。どれも、息子のアダムよりは、知らない筈のアンソニーの生活と呼応する。
そして、幾度となく出てくる、蜘蛛の姿や顔、ルイーズ・ブルジョワの彫刻Mamanを想起させる巨大な脚長蜘蛛、クルマのフロントガラスに入った蜘蛛の巣状の亀裂、網の目のように張られたトロリーバスの架線。
全ては母、或いは女性からの支配による抑圧のメタファーではないか。
アンソニーが俳優事務所に顔を出さなくなったのは半年前。ヘレンは妊娠6か月。
ならば、妻の妊娠を機に売れない役者をやめ大学講師の仕事につき、性欲のはけ口を秘密クラブや若い女メアリーに求めた彼が、妻への罪悪感から、もう一人の自分を生み出してしまったと考えられないか。
どちらも一人の人物なのだ。だから、二人が会っている現場を、他の誰もみていない。
だが、この解釈には無理がある
この解釈では、指輪の有無からベッドの隣にいるのがアダムではないと気づくメアリーとの諍いで、アンソニーとメアリーが交通事故死してしまうことが説明しにくい。事故渋滞やニュースの内容から、事故死は現実のようだ。
残されたアダムと妊婦のヘレン。手にした秘密クラブの鍵で悪事を企むアダムの邪心を察知したヘレンが、蜘蛛に早変わりするラスト。
ここは、母の支配下で堅実な仕事と生活を繰り返すアダムと、自由と欲望の具現化であるアンソニーが、再び一体化したとみればよいのか。
◇
アダムが大学の講義で繰り返す内容はヒントになるか。ヴィルヌーヴ監督『静かなる叫び』でも、教授の授業内容は映画全体のテーマを反映していたと記憶する。
「独裁者は遊びを与えるか、教育機会を制限するかで、市民を支配するのだ。恐ろしいことに、それは繰り返される」
うーん、どうだろう。独裁者って、母親のことか。
レビュー(原作との比較)
原作は読みにくいが、読む価値があった
さて、原作であるポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの小説『複製された男』を読んでみた。
文体そのものが極めて読みにくい。改行もせずひたすら何ページも描写や会話。空白ひとつなくびっしり文字の埋まったページの連続。
映画抜きで原作だけ読むのは苦行に近いので、映画は観ても原作読んだ人は少ない気がする。
だが、得るものは大きかった。読みにくい小説だが、内容は映画よりも分かりやすいし、まるで読後感が違う。
原作を読んで驚いたこと
以下、原作についてもネタバレになるので、ご留意願います。
ストーリーの骨格は同じだ。大学の歴史の講師が同僚の紹介でみたビデオに自分と酷似した俳優をみつけ、コンタクトする。二人は出会い、驚く。
俳優は、講師になりすませて恋人を抱かせろと脅迫し、許した結果、二人は事故死する。講師は、何も知らない俳優の妻と残される。
原作では、妻は妊婦ではないし、母も支配的ではない。蜘蛛は全く登場しないし、ブルーベリーも、昆虫の住処のようなねじれたタワマンも出てこない。だが、これらは表面的な差異にすぎない。
原作と映画の本質的な差異
本質的な違いを挙げてみる。
映画では、まさに原題のように敵対視した相手だが、原作では文字通り、どちらが複製なのかが、大きな関心事になっている(Enemyは映画のみの原題)。同じ生年月日でも、数分早く生まれた方がオリジナルだと。
◇
そして、アダムはメアリーを愛している自分に気づき、終盤では婚約するのだ。
二人は幸福の絶頂期にありながら、アンソニーの脅迫に屈したアダムは、二人を引き合わせ、結果的に婚約者を事故死させてしまうのである。そしてそれは、アンソニーではなく、アダムとメアリーの事故死として処理される。
◇
更にラストの展開がまるで違う。
二人の事故死を知ったアダムは、母に全てを語る。息子の婚約を喜んでいた母は、死んだ息子の母として、俳優として妻と暮す男を見守って生きることになる。
そして、夫に酷似したアダムが死んだものと思っていたヘレンは、事実を知り愕然とするのである。夫を亡くし、ただ似ているだけの他人と暮すことになる。何という悲劇。
同一人物の二重人格などという推論の余地は、原作には微塵もない。
映画のラストに欠けていたもの
勿論、映画だって二重人格の妄想だとは何も言っていないので、同じ解釈は可能だ。だが、蜘蛛の登場が、それを難解にしている。
私が原作の切れ味のよさに感心したのは、エピローグである。
恋人の死を乗り越え、ヘレンを妻として俳優を続けるアダムのもとに、「あなたの映画をみた。私たちは似ている」という電話がかかってくるのだ!
これこそ、歴史の授業でアダムが言っていた、「恐ろしいのは、歴史が繰り返されることだ。重要なことは二度起きる」ではないか。
なぜ、このエッジの効いたエピローグをカットしたのだ、ヴィルヌーヴ! ラストの蜘蛛の代わりに、この電話が一本あれば、みんな悩まずに映画を楽しめたのに。