『越前竹人形』
水上勉の美しい悲恋文学を、吉村公三郎監督が若尾文子主演で映画化。雪の世界に彼女の美しさが際立つ。
公開:1966 年 時間:123分
製作国:日本
スタッフ
監督: 吉村公三郎
撮影: 宮川一夫
原作: 水上勉
『越前竹人形』
キャスト
玉枝: 若尾文子
喜助: 山下洵一郎
忠平: 西村晃
お光: 中村玉緒
善海和尚: 殿山泰司
船頭: 中村鴈治郎
医者: 浜村純
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
昭和初期の越前の山村で、竹細工の名人といわれた父を亡くした一人息子の喜助(山下洵一郎)は、父の墓前を訪れた見知らぬ女性、玉枝(若尾文子)が忘れられずにいた。
喜助は彼女を探し、父が懇意だった娼妓だと知るが、身受けして結婚を申し込む。玉枝を心から愛する喜助だが、父への思いのため彼女を抱くことが出来ない。
やがて昔の玉枝の馴染み客だった忠平(西村晃)が偶然、竹細工問屋の番頭として喜助の留守に彼女のもとに現れる。
今更レビュー(ネタバレあり)
若尾文子×水上勉原作
先日観た『雁の寺』に続き、本作も若尾文子主演・水上勉原作の大映映画。監督は女性映画の巨匠と言われた吉村公三郎。
越前の竹林を舞台に日本の風土に合った恋愛譚を描いた『越前竹人形』は水上文学の代表作のひとつといえる。敬愛するミステリー作家の連城三紀彦が生前に愛読書として挙げており、いつか読もうと思っていたのだが、長年そのままになっていた。
水上勉の『土を喰らう十二ヵ月』を観たことがきっかけで、ようやく放置していた原作を読み、ついでに映画にも手を伸ばしたというわけである。
◇
越前は武生市に近い雪深い里で暮らす生真面目な独り者の青年・喜助(山下洵一郎)。幼い頃に母を亡くし、父と二人暮らしだったが、竹細工の名人だった父が亡くなり、後を継いで暮らしている。
そこに、深い雪を踏み越えて、若い女が訪ねてくる。父に世話になったものだという。粋な身なりに藁の雪靴。墓参りをしてすぐに帰っていくその女は、芦原から来た玉枝(若尾文子)と名乗る。
純朴な喜助は玉枝の美しさに見惚れただけで、彼女の氏素性にまで思いが及ばなかったが、後日商用で芦原まできて彼女を訪ね回り、やっと玉枝が遊郭の女だと気づく。
だが、世間知らずの愚直な若者は、一度決めたら例え無謀でも一気に道を突き進む。
おらんとこに来てもらえんやろうか
喜助は父の懇意にしていたこの玉枝に夢中になり、ついには彼女の借金まで肩代わって見受けしようとする。一生懸命に蓄えたおカネなのだろうが、何の躊躇もなく、また偉ぶることもなく、ひたすら謙虚にカネを出す。
「この百五十円で借金返して、おらんとこに来てもらえんやろうか」
嫁にこなくてもいいから、身体を壊す前にこんな家から出て一緒に暮らそうという純朴な喜助。
酸いも甘いも噛み分ける玉枝も、突然の求愛にはさすがに驚いた様子だが、その大金には手を付けず、きちんと自分で借金を片付けて、後日、喜助の元へ嫁いでくる。
雪山に負けぬ美白の若尾文子の大人の色気と、世間ずれしていない童貞臭ただよう喜助の純朴さの組み合わせが面白い。ともに腹黒いところがなく、このまま好感の持てる若夫婦が幸福に暮らしてくれればいのだが、それではドラマにならない。
喜助は、亡き父が玉枝のためにこしらえたという竹細工の人形に興味津々で、自分もこれに負けないものを作ると色めき立つ。そこから彼の職人魂に火が付く。
新婚初夜というのに新妻を先に寝かせ、自分は竹人形制作にかかりっきり。いや人形作りは口実だったかもしれない。喜助は玉枝を大事にし、愛してはいるものの、彼女と同衾するどころか、指一本触れようとしないのだ。
◇
これは、別に彼がゲイであるとか不能であるとかではなく、幼い頃に母を亡くした喜助にとって、玉枝は神聖な母のような存在だからなのである。
気持ちは分からんでもないが、夫婦円満を阻害するような要因になりかねない。実際、自分は何なのか、玉枝は不安になる。まだ30歳前の若さで夫が触れもしてくれないというのは、心穏やかではない。
悪の水戸黄門あらわる
そして不運は重なる。出来のよさで評判になってきた喜助の竹人形の買い付けに現れた大店の番頭・忠平(西村晃)が、かつて遊郭にいた玉枝の馴染み客だったのである。
◇
原作を読んだだけではイメージできなかったが、竹人形というのはどういうものかを映像で知る。ただ、こんなことをいうと叱られそうだが、京都の大店の主人が褒め称えるほど、すばらしく手の込んだ芸術品には見えなかった。
ただ、水上勉の原作が世に出て以降、実際に越前では竹人形が郷土工芸品になってきたというから面白い。またその精密さも、映画公開時よりも年々レベルアップしているようだ。
一生懸命良妻を続けてきた玉枝だが、忠平が昔の話を持ち出し強引に言いよると、つい一度だけ、身体を許してしまう。いや、映像的にはマイルドだが、内実は強姦に近いのかもしれない。
西村晃は『水戸黄門』になる前は、この手の悪役や卑劣漢を得意とする俳優であった。なので本作の演技も実にうまい。
ダークヒーローの西村晃、バカが付くほどお人好しで純朴な山下洵一郎、両者の中で苦悩する美女・若尾文子。三者三様のいいバランスだ。
悩みと言えば、あのこと
前半の展開からは、夫婦で頑張って竹人形を売っていく物語かと思っていたが、後半、この一度だけの過ちで玉枝は妊娠してしまう。
これは二つの点で一大事だ。まず、夫婦の営みがないのだから、子供ができたら喜助にバレてしまう。そして、そうならぬよう中絶しようにも、この時代では中絶は法に触れる行為で、医者は手を貸してくれない。
◇
自分も被害者だというのに、誰にも相談できず一人途方に暮れ苦しむ玉枝が哀れだ。意を決して忠平の店を訪ねていき事情を打ち明けても、そんな話誰が信じるかと相手にされず、しまいにはまた身体を求められそうになる。
妊娠女性が命がけで中絶しようと闇医者を探し苦労する話は、時代も国も異なるがフランス映画の『あのこと』(2023)と重なる。
残念な点と悲しいラスト
映画は三人の俳優の好演により、原作に負けない良さを感じさせたが、ひとつ物足りなかったのが、玉枝の内面描写である。
玉枝はただ忠平に力づくで襲われたのではなく、途中から、夫に触られたことのない身体に火がついてしまうのだ。
それゆえに、妊娠したことの罪悪感がひとしお強いのである。映画では、その心の機微が省かれていたようで、やや深みに欠けたように思う。
途方に暮れた玉枝を、だが、神さまは見捨てなかった。渡し舟にのって川をいく最中に、玉枝は破水し流産してしまう。そして、彼女が失神しているうちに、船頭が誰にも気づかれぬよう、死産だった嬰児を川に流してくれるのだ。
原作でも天使のように思えたこの老船頭を映画では中村鴈治郎が演じている。『雁の寺』の襖絵師とはまた随分異なる役だが、さすがに味がある。
◇
原作を読んだときも、ここで終わってほしいと思ったのだが、なぜかこの物語はまだ少し続きがある。
せっかく晴れて難局を乗り越えて喜助への愛を誓う玉枝だが、その後すぐに玉枝は息を引き取り、喜助もそれを追って亡くなる。そこに水上勉は何を伝えたかったのだろう。
なんとも胸の痛むエンディングに気が重くなる。夫婦が仲良く終わるところだけは救いではあるが。