『ある男』
平野啓一郎のベストセラーを石川慶監督が映画化。愛した夫がまったくの別人と知った時、妻はその人を愛せるか。
公開:2022 年 時間:121分
製作国:日本
スタッフ 監督: 石川慶 脚本: 向井康介 原作: 平野啓一郎 『ある男』 キャスト 城戸章良: 妻夫木聡 谷口里枝: 安藤サクラ 谷口大祐(X): 窪田正孝 谷口悠人: 坂元愛登 小見浦憲男: 柄本明 後藤美涼: 清野菜名 谷口恭一: 眞島秀和 中北: 小籔千豊 武本初江: 山口美也子 伊東: きたろう 小菅: でんでん 柳沢: カトウシンスケ 茜: 河合優実 谷口大祐: 仲野太賀 城戸香織: 真木よう子
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
ポイント
- 平野啓一郎の代表作を石川慶監督が映画化。原作の味わいを活かしながら、映画的な演出も織り込み、原作ファンを裏切らない出来。
- 『愚行録』に続き妻夫木聡の起用だが、今回は過去を探る語り部的な役割で、むしろ安藤サクラと窪田正孝の朝ドラ主演俳優同志の共演が見もの。現代版『ゼロの焦点』。
あらすじ
弁護士の城戸(妻夫木聡)は、かつての依頼者・里枝(安藤サクラ)から、亡くなった夫・大祐(窪田正孝)の身元調査をして欲しいという奇妙な相談を受ける。
里枝は離婚を経験後に子どもを連れて故郷へ帰り、やがて出会った大祐と再婚、新たに生まれた子どもと四人で幸せな家庭を築いていたが、大祐は不慮の事故で帰らぬ人となった。
ところが、長年疎遠になっていた大祐の兄(眞島秀和)が、遺影に写っているのは大祐ではないと話したことから、愛したはずの夫が全くの別人だったことが判明したのだ。
城戸は男の正体を追う中で様々な人物と出会い、驚くべき真実に近づいていく。
レビュー(まずはネタバレなし)
序盤からドラマの質の高さが伝わる
『愚行録』(2017)で鮮烈なデビューを果たした石川慶監督の最新作は、平野啓一郎が死生観を掘り下げたベストセラー『ある男』の映画化。愛したはずの夫がまったくの別人と知ったとき、妻は何を思い、何に傷つくのか。
◇
冒頭のカットがいい。バーの壁にかけられた、男性二人の後ろ姿の絵画。
クローンのように全く同じ背格好の人物だが、奥の男は鏡の中、手前は鏡の前にいて、同じように後頭部を向けている。つまりはあり得ない構図で、これはルネ・マグリットっぽい絵だと思ったら、やはり「複製禁止」なる作品だった(その原画の複製な訳だが)。これは作品全体の象徴的な絵になる。
ひとときの幸福な風景
続いて、舞台は田舎町の文房具屋。実家で店番をするのは離婚して小さな息子連れで出戻っていた里枝(安藤サクラ)。
そこに客として現れる絵を描く無口で陰のある青年・谷口大祐(窪田正孝)。だが、何度か来店するうちに二人は親しくなり、やがて家庭を持つに至る。
◇
里枝は登場シーンで独り店先で涙を流す。彼女は下の子を病気で亡くし、それが原因で離婚し、今度は実家で父が亡くなった。不幸続きの里枝だったが、それを優しく受けとめてくれる大祐と出会い、娘も生まれる。
子供二人に祖母(山口美也子)の五人家族。賑やかで温かい朝食風景。
ここまでで短い家族ドラマができてしまいそうな展開を、映画はコンパクトにまとめるが、けして駆け足で端折った感はなく、説明過多の台詞もない。『愚行録』でも石川慶監督と組んだ脚本家・向井康介の仕事だろうか。
佐藤泰志原作の函館映画シリーズ等で知られる撮影の近藤龍人によるカメラも、けして出しゃばることなく、静かに優しく二人の出会いから家族となっての日常を切り取る。
『まんぷく』の安藤サクラに『エール』の窪田正孝。朝ドラ主演俳優経験者の二人の競演の贅沢さと安定感。
現代版『ゼロの焦点』か
だが、幸福はそう長く続かない。この町で林業の仕事に就いていた大祐は、倒れた木の下敷きになり事故死してしまう。
そして、彼が伊香保温泉旅館の次男坊と聞いていたことから、長年音信不通だった兄・恭一(眞島秀和)に連絡したところ、遺影をみて全くの別人だと語る。ここから、物語は動き出す。眞島秀和が下衆な兄貴を怪演。
そして主役は選手交代となる。かつて里枝が離婚調停で世話になった弁護士の城戸章良(妻夫木聡)。彼がこの谷口大祐を名乗った人物(もはや”X“呼ばわりだ)の身元調査に乗り出すのだ。
愛する人のすべてを知っているか。夫の過去を探るうちに、まったく知らない経歴にたどりつく物語といえば、何度も映像化している松本清張の傑作『ゼロの焦点』を思い浮かべる。
あちらは失踪した夫の過去だったか。こちらは息子の目の前で事故死した男の氏素性を探る話であり、印象は大分異なる(オンナが複数出てくる訳でもないし)。
◇
妻夫木聡も登場し石川監督の演出はいよいよ『愚行録』っぽくなり、このXが何か大きな犯罪をしでかして、その過去を隠蔽したかったのではないかという雰囲気は、濃厚に感じられる。
キャスティングについて
妻夫木聡が演じる城戸弁護士は、本作の中ではストーリーテラー的な役を担い、お馴染みの笑顔を振りまくお人好しでもなければ、ゲイや指名手配犯などの気合の入った別人格でもない。
手際よく調査を進め、XのDNAを採取し谷口大祐ではないことを確認し、Xの過去に近づいていく。淡々と仕事を進めていく役の妻夫木聡というのも、意外と珍しい。
時系列的に城戸弁護士がXに会うことはあり得ないが、仕事や家庭に恵まれ満たされているはずの城戸は、いつしかXの人生に共感を覚え始める。
そして谷口大祐になりすましていたXを演じた窪田正孝。序盤で亡くなってしまうので、その後の登場場面はみな回想シーンとなるが、里枝と出会う前の、ボクシングに打ち込んで練習に精を出し新人賞を手にするまでのくだりは見応えがある。
思えば、『初恋』(三池崇史監督)でもボクサー役だったしね。ああ、苦悩している彼をみると、正体が犯罪者であってほしくないと切に願ってしまう。
里枝を演じた安藤サクラは、『万引き家族』(是枝裕和監督)の時とはまた違う、引きの演技が涙を誘う。私の愛した人は誰だったのか。一緒に暮らした月日は何だったのか。
谷口という姓はもはや名乗れなくなるが、全てが虚飾だったわけではない。だって、ここには彼と作った愛する娘が生きている。
その他の助演俳優陣も充実している。監獄の中からヒントをくれる頭脳明晰な犯罪者キャラはハンニバル・レクター教授以来お馴染みだが、本作では安藤サクラの義父でもある柄本明が詐欺師の小見浦憲男でその役割を担う。
また、市役所の上司のきたろう、ボクシングジム会長のでんでん、弁護士事務所同僚の小籔千豊など、普段は笑いを取りに行く面々が今回はおふざけなしで、味のある演技を見せてくれるのもいい。
本作は骨格部分では原作に忠実ながら、随所に映画的な仕掛けを採り入れる。
例えば高級ワインの中身すり替え詐欺事件を例に本件のなりすましを説明したり、Xがスケッチブックに描き残した顔の潰れた肖像画が身元判明に繋がったり、刑務所の面会室で小見浦(柄本明)がガラスに残した手形が端的に不穏な印象を与えたり。
冒頭のマグリットの絵もそのような仕掛けの一つだ。原作を大切にしつつ、随所に独特の工夫が散りばめられているのが伝わる。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからはネタバレしている部分がありますので、未見・未読の方はご留意願います。
過去を暴いて終わるミステリーとは違う
刑務所に収監されている小見浦は戸籍のブローカーだった。Xは本物の谷口大祐(仲野太賀)と、互いの戸籍を交換していた。
写真でしか登場しない仲野太賀が、終盤でようやく満を持して登場。Xと同様にどこかの町に消えてしまっていた谷口を探す元カノの美涼(清野菜名)との再会も泣かせる。
この二人のカップルだと、『今日から俺は‼』の今井が、憧れの理子とついに結ばれたみたいで、観る方も嬉しくなる。
本作はXの過去を追う物語だが、ミステリーとは違う。謎が解ければハッピーエンドというものではない。
猟奇殺人犯の父を持つXは、成長するにつれ、父に生き写しになる自分を嫌悪し、自分から父を剥ぎ取りたい一心で、ボクシングに打ち込んだのだ。殺人犯の子という烙印から逃れるために、戸籍を替えて、最後には里枝のもとにたどり着く。
◇
里枝の連れ子の悠人(坂元愛登)は、この優しい父親が好きだった。
「なぜすぐに父さんの墓を作ってあげないの?」
里枝を不審に思い責める悠人。どこまで話すべきか悩む母もつらく、息子もそれ以上に悲しい。
「苗字がお母さんの旧姓に戻ったら、父さんが忘れられてしまいそうで、悲しいよ」
原作にあったこの台詞が泣かせたが、映画では消えていた。ただ、「もう悲しくはないけど、でも…寂しいよ」と喉を詰まらせる少年の叫びは、胸に迫る。
ラストシーンの意味
夫が何か人に言えない過去を抱えていたら、犯罪者だったらと、その不安で苦しんだ里枝だが、忌まわしい血から逃れたい一心でここにたどり着いただけの、心優しい人だったことを知り母子で安堵する。
「そうであれば、知らなくてもいいことだったんです。だって、彼がここにいたこと、娘が生まれたことは紛れもない事実なのだから」
谷口大祐を騙った<ある男>は不慮の事故で亡くなってしまったが、人生の最期には、短くも幸福に満ちた家族との日々を手に入れたのだ。
ラストシーン。城戸弁護士が妻・香織(真木よう子)の浮気に気づき、一人で飲むバーでふと気まぐれに谷口になりすまして、温泉旅館の実家を飛び出して自分の人生を歩んでいるなどと、隣の客にうそぶいて見せる。
これは原作では調査の初期段階にあったエピソードだが、順番を変えたことで、Xの人生にどこか共感を覚えた城戸が、彼にバトンを渡されたような意味合いが出てくる。
一件落着のハッピーエンドを、なぜ映画では城戸の妻の浮気の話に変えたのかと不思議に思ったが、そういうことか。誰にでも、捨ててしまいたい過去はある。
冒頭のマグリットの絵に、それを眺める城戸自身が加わることで<複製男>が三人になるのは、ちょっとウィットが効いている。