『花腐し』考察とネタバレ!あらすじ・評価・感想・解説・レビュー | シネフィリー

『花腐し』考察とネタバレ|想い出はモノクロームじゃないのか

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『花腐し』

朽ちてなお、生きていく。女ひとりに男がふたり。松浦久樹の芥川賞受賞作を荒井晴彦監督が大胆に脚色。

公開:2023 年  時間:137分  
製作国:日本

スタッフ 
監督・脚本:     荒井晴彦
原作:        松浦久樹

           『花腐し』
キャスト
栩谷修一:       綾野剛
伊関貴久:       柄本佑
桐岡祥子:    さとうほなみ
桑山篤:       吉岡睦雄
寺本龍彦:      川瀬陽太
リンリン:       MINAMO
ハン・ユジョン:      Nia
金昌勇:    マキタスポーツ
韓国スナックのママ: 山崎ハコ
小倉社長:     赤座美代子
沢井誠二:      奥田瑛二

勝手に評点:2.0
(悪くはないけど)

(C)2023「花腐し」製作委員会

あらすじ

廃れつつあるピンク映画業界で生きる監督の栩谷くたに(綾野剛)は、もう5年も映画を撮れずにいた。

梅雨のある日、栩谷は大家からアパート住人に対する立ち退き交渉を頼まれる。その男・伊関(柄本佑)はかつて脚本家を目指していた。

栩谷と伊関は会話を重ねるうちに、自分たちが過去に本気で愛した女が同じ女優・祥子(さとうほなみ)であることに気づく。三人がしがみついてきた映画への夢が崩れはじめる中、それぞれの人生が交錯していく。

レビュー(ネタバレあり)

ずっと「はなくさし」と読んでいたが「はなくたし」が正解だと映画を観て知った。芥川賞を受賞した松浦久樹の同名原作を荒井晴彦監督が映画化。今回、原作は未読であったが、映画が釈然としなかったので、あとで読んでみた。

荒井晴彦は優れた脚本家であるが、同時に監督として映画も何本か撮っている。

前作にあたる監督作『火口のふたり』には、特に度肝を抜かれた。映画の大半は柄本佑瀧内公美が裸になってもつれ合っているような作品だが、ただのピンク映画ではない面白味があって、引き込まれる。

本作はその柄本佑が演じる脚本家志望の男・伊関と、斜陽のピンク映画界でもう何年も新作を撮っていない監督の栩谷くたに(綾野剛)が主人公の物語。

二人の間には祥子(さとうほなみ)という女が存在するが、単純な三角関係の話ではない。時間がずれているのだ。

女優を目指して上京してきた祥子はまず伊関と出会って男女の仲になり、別れた後に栩谷と付き合い始める。だから、男同士は互いに相手のことなど知らない。

だが、ある日、栩谷が家主(マキタスポーツ)の指示により伊関の部屋を訪ね、廃屋同然のアパートから立ち退きをするように通告する。

そこで意気投合した二人が映画談義や女の話で盛り上がるうちに、互いに語っていた同棲相手が、同一人物であることに気づくのである。

本作は序盤の出来栄えはとても良く、期待値が高まった分、後半の失速感が激しい、というのが率直な感想。まずは前半部分。

映画は冒頭、2012年、何の説明もなく浜辺で倒れている男女。これは心中事件なのだとすぐに分かるが、女は祥子であり、男はピンク映画の監督・桑山(吉岡睦雄)

(C)2023「花腐し」製作委員会

祥子は栩谷という同棲相手がありながら、なぜか桑山と心中した。桑山の通夜では故人などそっちのけで、ピンク映画の関係者たちは、もはや予算も取れず成人映画が撮れない現状を嘆き荒れる。

荒井晴彦監督は自らの経歴を活かし、原作から設定をピンク映画業界に改変しているようだが、このあたりの斜陽産業に生きる職人たちの描き方はリアルで面白い。

ここまで映画はモノクロなのだが、栩谷が立ち退き要請のために伊関という男の居座るアパートに向かう階段の途中から大雨が降っている。空が明るいのでホースで降らせた雨にしかみえないが、これは異世界に入りこんだ設定なのか。

(C)2023「花腐し」製作委員会

この雨のせいで、栩谷は祥子と出会った過去を思い出す。本作は、これから幾度となく出てくる、祥子との回想シーンはすべてカラー、そして現在のシーンはモノクロになっている。

家主のマキタスポーツが弾き語る大瀧詠一「君は天然色」では、「想い出はモノクローム」と歌っているのにね。

野蛮な取り立て屋が来ると警戒していた伊関は、インテリ風な栩谷が気に入り、彼を部屋に招き入れ二人で飲み始める。

襖を開けると隣室では伊関がマジックマッシュルームを栽培しており、一体どんな話になるのか展開に期待したのだが、ここから先は映画としての盛り上がりに欠けたように思う。

(C)2023「花腐し」製作委員会

ここから先は、2012年現在で栩谷と伊関が語り合うモノクロ映像パートと、祥子と伊関との同棲と栩谷との同棲という二つのカラー回想パートによって構成される。

栩谷と伊関がそれぞれ回想して語っている恋人が、同じ女性であることは、死んだ祥子と観客しか知らないというもどかしさは、古典的ながら楽しめる。

だが、モノクロのパートが映像的にあまりにつまらない。栩谷と伊関は、まずは伊関の部屋の卓袱台に向かい合って座り、缶ビールと煙草を片時も離さず、語り合っている。

(C)2023「花腐し」製作委員会

絵的に動きがない単調さを、何本もの缶ビールを空け、チェーンスモーキングすることで誤魔化せると思っているのではないか。でも、つまらなさは変わらない。

ようやく場所を移動したかと思えば、今度は山崎ハコがママをやっている韓国スナックでまた語りだす。向かい合わずにカウンターに並んで座る変化はあったが、煙草と酒で誤魔化す演出は相変わらず。

マッコリにホッケが合うだの、キュウリの千切りを入れた飲み方だの、韓国の酒文化のウンチクを加えたところで、単調さは補えない。

同じ韓国でもホン・サンス監督の映画が、テーブルを挟んだ会話だけで飽きさせないのは、会話の面白さに加え、男女の会話になっているからだと思った。

綾野剛柄本佑はいずれも魅力的な役者であるが、退屈そうに煙草をふかしながらの男二人の会話だけでは、観ている方もげんなりしてしまう。

それに比べれば、祥子が登場する回想シーンは、栩谷と伊関、どちらの時代も観ていて楽しい。

ただ、栩谷はピンク映画監督、伊関は脚本家志望と、どちらも似たような世界の住人にしてしまったのは、必然だったのか。両者に違いが出しにくいようにも思えた。

祥子は伊関との間に宿した子は女優になるために堕胎し、栩谷との間に授かった子は、「家族なんかいらない」という栩谷の声を胎児が聞いたのか、結局流産してしまう。

(C)2023「花腐し」製作委員会

回想シーンで最も気になったのは、祥子の性行為シーンがあまりに頻繁かつ濃厚なことだ。これ目当ての観客もいるのだろうが、本作はピンク映画界のドラマであって、ピンク映画そのものではないはずだ(R18だけど)。

ここまで裸だらけにする意味あるか。ドラマと性行為、荒井晴彦監督はどっちを見せたいのか。柄本佑のケツは『火口のふたり』で穴のあくほど見ているので、私はもっと落ち着いてドラマを観たかった。

さとうほなみは体当たりの熱演だと思う。自ら本作出演に売り込みをかけたようなので、脱ぎっぷりの良さもさすが。

水原希子さとうほなみのダブル主演作『彼女』(廣木隆一監督)は日本で最初にインティマシー・コーディネーターを配置した映画であったが、本作でも配置されたようなので、ちょっと安堵。

祥子が、子供も産ませないし女優としても起用してくれない栩谷に愛想を尽かし、桑山(吉岡睦雄)と心中したというのが真相なのか、ザリガニが死んだからなのか。彼女の自殺の真相は不透明なままだ。

(C)2023「花腐し」製作委員会

同じ女を愛していたのだと栩谷に知らされた伊関は、祥子との生活を脚本に書き上げる。彼女を傷つけてしまった自分の発言を、栩谷はそっと書き直す。

「顔はぶたないで。私、女優なんだから」

パクリかと思ったら、『Wの悲劇』薬師丸ひろ子の名台詞も、荒井晴彦本人の脚本だった。

本編では祥子がスナックのカラオケで歌い、エンドロールでも栩谷とデュエットする山口百恵「さよならの向う侧」が使われる。

これ、気安く使わないでほしい名曲なのに、わざとなのか二人とも素人っぽく歌っているのが萎える。映像付きでフルコーラス付き合わされるのもつらい。『カラオケ行こ!』くれないだ~!」を歌う時は、もっとうまかったのに、綾野剛

ところで、映画のラストには祥子の幽霊が現れ、栩谷を素通りして伊関の部屋に入っていく。部屋のドアを開けて涙を流す栩谷で映画は終わるが、その意味を知りたくて原作を手にした。

原作にはピンク映画界の設定はなく、栩谷は倒産寸前のデザイン事務所をやっている。

伊関との出会い方や、アパートやスナックで終始語らう展開は同じだが、祥子という同じ女と交際していたという設定は映画オリジナルだ。また、原作では祥子が自殺したとは断定しておらず、水難事故という含みを持たせている。

「春されば 卯の花腐し」というのは万葉集の和歌の言葉というのは映画でも語られたが、これが「花を腐らせるような長雨」だということまで伝えられたか。

あの廃屋の部屋や雨に煙る町は花を腐らす異世界であり、栩谷はそこに足を踏み入れてしまったのだ。

ラストに祥子の幽霊が現れ、廃屋の階段を昇るまでは原作と同じだった。だが、栩谷が彼女の足取りを追うところで小説は終わる。

栩谷が伊関の部屋のドアを開ける映画のラストは、祥子がどちらを愛しているのかといった点に関心が向かいがちだ。

だが、原作では伊関との交際もないのだから、これは的外れとすれば、死んだ者は腐っていき、ゆえに祥子の霊が花腐しの世界に姿を現した、といったところか。