『めくらやなぎと眠る女』
Blind Willow, Sleeping Woman
村上春樹の6つの短編をつなげて一つのアニメ映画に。発想は良かったと思うのだけれど。
公開:2024年 時間:109分
製作国:フランス
スタッフ
監督・脚本:ピエール・フォルデス
原作: 村上春樹
声優(日本語)
小村: 磯村勇斗
キョウコ: 玄理
片桐: 塚本晋也
かえるくん: 古舘寛治
シマオ: 木竜麻生
少女: 川島鈴遥
ジュンペイ: 梅谷祐成
佐々木: 岩瀬亮
ケイコ: 内田慈
鈴木: 戸井勝海
ケン: 平田満
レストランのオーナー: 柄本明
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
2011年、東日本大震災から5日後の東京。テレビで震災の被害を伝えるニュースを見続けたキョウコは、夫・小村に置き手紙を残して姿を消す。
妻の突然の失踪に呆然とする小村は、ひょんなことから中身の知れない小箱を、ある女性に届けるため北海道へ向かうことになる。
同じ頃、小村の同僚・片桐が帰宅すると二本脚で立ってしゃべる巨大なカエルが待ち受けていた。「かえるくん」と名乗るその生き物は、次の地震から東京を救うために片桐のもとにやってきたという。
大地震の余波は遠い記憶や夢に姿を変えながら、小村やキョウコ、片桐の心に忍び込んでいく。
レビュー(まずはネタバレなし)
村上春樹原作初アニメ
音楽家でアニメーション作家のピエール・フォルデスが村上春樹の複数の短編をアニメ映画化した作品。村上春樹原作がアニメ映画化するのは初めてのことだ。
日本語吹替版は映画監督の深田晃司が演出を担当し、声優にはオリジナル版と同様、実写俳優を起用している。
原作となった短編は以下の6作品、比較的初期に発表されたものが多い。
- 「かえるくん、東京を救う」
- 「バースデイ・ガール」
- 「かいつぶり」
- 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
- 「UFOが釧路に降りる」
- 「めくらやなぎと眠る女」
いずれも手元にある作品だったので、読み返してから劇場に足を運ぶ。
ご存知の通り村上春樹原作の映像化は難しい。短編を監督の独自解釈で膨らませて映画化する手法なら、活路があると常々思っているのだが、短編を6つも映画化するのであれば、原作を忠実に描いたオムニバスが関の山だろう。
ところが、この想像は見事にはずれた。個々の短編にでてくる場面や会話は割と忠実にアニメ化しながらも、前提となる設定は大きくいじっていて、本来は完全に独立していた6つの短編が一つの物語として繋がっているのだ。
この試みは面白いと思った。
なるほど、村上作品には死生観や地下の別世界への冒険など通底するものが多いせいか、これらの作品は違和感なく一つの世界に融合できている。本作でいえば、東日本大震災から5日後の東京という世界に。
覚悟を持って撮ったのか
ただ、私が本作で感心した点は、そのくらいしか思い当たらない。あとは、どちらかというと不快なことばかりだ。
物語が抽象的すぎて何が言いたいのかよく分からないという点は、けして不快ではない。
6つの短編は原作でも簡単に読解できるものではないし、その解釈も読み手に委ねられている部分が大きい。それまとめて一つの映画にしたら、理解しやすくなったというのでは、それこそ原作を曲解していることになる。
◇
ではどこが不快だったかというと、主観的ではあるが、本作の舞台である日本という国や文化へのアプローチである。
村上春樹の文体は基本ドライが持ち味であって、日本が舞台であってもめったに生活感が出てこない無国籍な世界だ。それが多くの国でも受け容れられやすく、世界中に熱狂的な読者を増やした背景のひとつだと思う。
ピエール・フォルデスはその無国籍な世界を、ご丁寧に大震災直後の日本に戻している。彼が日本の町や文化に精通しているのならまだしも、およそ東京とは思えない描写が頻出しており、デフォルメされた日本人社会が描かれている。
原作以上に殺伐とした社会が強調されているのは、大震災直後の不安に押しつぶされそうな日本を描いているからなのだろう。
だが、この当時をドラマや映画にすることについて、被災地から離れた東京や関西にいた者でさえ、安易に取り組むべきではないのではという葛藤があるのに、ピエール・フォルデスにはその覚悟があっただろうか。
遠い海の向うで聞き知った報道をもとに、ただこの大災害を軸に短編を繋いでみようと考えただけだとすれば、被災国の一市民としては複雑な思いである。
顔がダメなのだ
そのような不快な感情をもった理由としてもう一つ挙げさせてもらえば、本作には村上春樹へのオマージュはあるのかもしれないが、日本人に対しては敬意が殆ど感じられないという点だ。
その最たるものが顔の描き方である。鼻ペチャで起伏に乏しい顔をしていることは日本人の特徴なのかもしれないが、あそこまで強調することはない。
この3Dアニメ全盛の世の中に、完全に平面に近い鼻と、日本のコミック界ではありえないような、鼻の下に書く縦線のインパクトは破壊的だ。
◇
絵が個性的であることはよいとしても、バカにされているとしか思えない。
『テルマエ・ロマエ』でローマ人が日本人を<平たい顔の民族>と呼んでいるのは、ヤマザキマリの自虐ネタでありかつ愛情を感じるが、本作の登場人物でかえるくんと猫の<ワタナベノボル>以外は、キャラクターデザインに愛情を感じない。
ピエール・フォルデスは他の作品でも、日本人以外のキャラをこのような顔でデザインしているのだろうか。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
メインの登場人物は三人。東京信託銀行融資課に勤める小村と妻のキョウコ。そして融資課の先輩でうだつの上がらない40代の独身男、片桐。
小村の妻キョウコは、震災後に憑りつかれたように一日中無言でテレビの報道を見続け、数日後、「あなたとの生活は空気の塊と暮らしているみたい」と書き置きして家を出て行く。
一方小村の勤める銀行では融資課の人員を合理化のために半減しようとしており、小村は課長の鈴木から早期退職を打診され、回答を保留し休暇を取る。
銀行員の退職勧告のパートは池井戸潤のドラマっぽいが、全社員にブースが与えられ、課長クラスに個室がある信託銀行なんて、日本企業には考えられず鼻白む。
かえるくん、東京を救う
同僚の片桐は仕事熱心だが、パワハラ上司に苦労している。独り暮らしのアパートに戻ると、そこにはかえるくんが待っていて、一週間後に東京で起きる大震災を阻止するために、地中の巨大ミミズとの戦いに協力してほしいと依頼される。
「かえるくん、東京を救う」のパートである。
本作の日本語吹替声優で声だけで分かったのはかえるくんの古舘寛治だけだが、これは相性が良かったと思う。全編で不安感を煽る構成の本作において、かえるくんは貴重なコメディリリーフ。
ただし、アパートの卓袱台をはさんで異形の者と対話をする実相寺昭雄スタイルの演出は『ウルトラセブン』、地下のミミズやら地震災害を阻止する話やらをアニメでやるには新海誠の『すずめの戸締まり』に遠く及ばない。
めくらやなぎと眠る女
小村は実家に戻り、病院に検査を受けにいく難聴のいとこに付き添い、10代の頃に親友のカノジョだったキョウコを病院に見舞いに行った話を思い出す。
親友はその後バイクで事故死し、小村はキョウコと結婚するのだが、結局分かり合えなかった。この辺は「めくらやなぎと眠る女」のパート。ちなみに、この題名は、やなぎと一緒に眠っている女ではなく、眠る女とめくらやなぎという意味。
UFOが釧路に降りる
小村は休暇を使い、同僚の佐々木の依頼で小さな箱を釧路に住む佐々木の妹ケイコに届けにいく。そこにはシマオという女友達もおり、失踪した妻の話をして飲み明かすうちに、小村はシマオと寝てしまう。
冒頭のキョウコが地震報道を見続けて失踪する部分も含めて、「UFOが釧路に降りる」からの映画化。
バースデイ・ガール
失踪したキョウコは旧知のケンとホテルのバーで飲んでいる。そこで彼女は、20歳の誕生日に、当時バイトしていたレストランのオーナーの部屋にディナーを届けて願いごとを叶えてもらった話を語り出す。
ここは『バースデイ・ガール』のパート。その願い事が何だったかは、映画でも原作でも明かされない。
この店は原作では文化人が集う六本木のイタリアンとあるから、キャンティのイメージだけど、映画では雰囲気が違うなあ。フロアマネジャーが仕事のできないくたびれたオヤジになっているのも残念。
ねじまき鳥と火曜日の女たち
そして、いつの間にかいなくなってしまった飼い猫のワタナベノボルを探していた小村が、猫の通り道らしきよその家の庭で出会った少女と語り合うのが「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。
小村がパスタを茹でている最中に母親から電話がかかってくる場面があるのだが、村上小説において、主人公の男性は大抵手際よくあり合わせの素材で美味そうな洋食を作る。パスタはその典型だが、どうみても本作のパスタは美味そうにみえない。
「ねじまき鳥はキミのねじを巻かなかったのかい」
小村は妻にメッセージを送る。原作ではこのメッセージは失踪した猫に送られたものだ。このように、設定を少しずついじることで、本来独立している6つの物語が結びつく。
かいつぶり
ところで、「かいつぶり」も原作のひとつとなっているが、秘密の合言葉について語り合うこの短編が映画のどこに採用されていたのか、あまり記憶にない。
薄暗い地下階段を降りていくシーンが何度か登場するのだが、そこが「かいつぶり」パートなのか。或いは劇中の該当部分で私が眠りこけてしまったか。
◇
多くのハルキストたちは、この映画を受け容れるのだろうか。実写映像をもとにしたライブアニメーション手法も悪くはないのだろうが、私は最後まで、日本人の<顔>の描き方に慣れ親しめなかった。