『博士の愛した数式』考察とネタバレ!あらすじ・評価・感想・解説・レビュー | シネフィリー

『博士の愛した数式』今更レビュー|記憶のないブラッシュアップライフ

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『博士の愛した数式』

小川洋子の大ヒット原作を小泉堯史監督が映画化。記憶が持続しない数学博士と家政婦の心の交流を寺尾聡と深津絵里が好演。

公開:2006 年  時間:117分  
製作国:日本

スタッフ 
監督・脚本:     小泉堯史
原作:        小川洋子
                『博士の愛した数式』

キャスト
博士:         寺尾聰
杏子(「私」):   深津絵里
ルート(少年):   齋藤隆成
ルート(先生):   吉岡秀隆
未亡人:      浅丘ルリ子
家政婦紹介所所長: 井川比佐志

勝手に評点:2.5
(悪くはないけど)

(C)「博士の愛した数式」製作委員会

あらすじ

家政婦として働くシングル・マザーの杏子(深津絵里)が、今度お世話をすることになったのは、ケンブリッジ大学で数学を学んでいたが、交通事故の後遺症で記憶が80分しかもたなくなってしまった老博士(寺尾聡)

杏子とその息子(齋藤隆成)は博士の人柄と、彼の語る数式の美しさに魅了され、三人は次第にうち解けていくが、やがて博士の痛ましい過去が明らかになっていく。

今更レビュー(ネタバレあり)

原作は本屋大賞第1回受賞作

小川洋子の同名原作を小泉堯史監督が映画化。短期記憶を80分きっかりで失ってしまう数学博士と、そこに派遣された家政婦母子の物語。公開時以来久々に鑑賞したのだが、私の記憶も相当に不正確なものになっていることに気づく。

いや、覚えている限り、この作品はもっと心穏やかにほっこりした気持ちになれる作品だったはずなのだが、改めて観ると、ある点がとても気になってあまり楽しめなかったのだ。

それについては後述させていただくが、満開の桜の下を楽しそうに歩く主演の二人のポスタービジュアルが、誤った記憶を植え付けてしまったのかもしれない。

小川洋子の原作は独特の深みがあり、とても気に入っている。本屋大賞の第1回受賞作品だったはずだ。

かつて理数系の道に進み、さんざん数学に苦労させられた者としては、その数学の世界に、こんなに静かで美しく、そしてロマンティックな一面が隠されているなどとは、夢にも思わなかった。

それをすらすらと博士は語っていき、家政婦の「私」は次第に感化されていく。

寺尾聡と深津絵里の友愛

本作の主人公、「私」こと杏子役には深津絵里。何度も家政婦が交代させられる厄介な顧客だが頼んだよと所長(井川比佐志)に言われて訪れた洋館。依頼人は浅丘ルリ子演じる未亡人。彼女が「義弟の世話をしてほしい」という。

だが、交通事故の後遺症で何年も前から記憶は80分しか持たない。そして勤務初日、杏子は博士の住む離れに向かう。

<博士>が登場するまでは、まるでハンニバル・レクター博士に面会に行くような焦らし方だが、ここで顔を出すのが寺尾聡

「君の靴のサイズは何センチだ?」

ここからは博士の独壇場。靴のサイズから電話番号まで、彼女の答えるあらゆる数字について「実に潔い数字だ」とか「運命で結ばれている」とか褒め称える。

(C)「博士の愛した数式」製作委員会

ひねもす数学の研究に没頭し、数学以外は浮世離れした子供じみた言動の博士がチャーミングだ。温厚な人柄といたずらっ子のような笑顔。寺尾聡小泉堯史監督作品の常連であるが、この博士役はまさにハマリ役。

家の中でも愛用している着古したジャケットのあちこちに、備忘用のメモが貼り付いている。その姿はまるで『メメント』(2001、クリストファー・ノーラン監督)の主人公。

でも、同じ短期記憶障害を扱う作品でも、殺伐とした内容の同作とはまるで印象は異なる。

本作では、せっかく杏子が博士と打ち解けて楽しい時間が過ごせても、翌日に博士はまた、「君の靴のサイズは?」と聞いてくるのだ。その寂寥感とやるせなさ。

(C)「博士の愛した数式」製作委員会

そして、家政婦としてきちんと仕事をこなしながら、博士との会話から次第に数学の世界に魅了されていく杏子深津絵里。彼女もまた適役だと思う。

家庭のある男性と恋におち、シングル・マザーとして一人息子を育てている。若いながらも家政婦紹介所ではベテラン格。夫も祖母もない母子暮らし。

でも、毎日を明るく元気に過ごし、くたびれた生活感も悲壮感もなく、聖女のような存在。こんな役を嘘くささなしで演じられる女優は限られる。

(C)「博士の愛した数式」製作委員会

最大に残念だった点

本作の、そして原作の醍醐味は、この絶妙なコンビネーションの博士と杏子が、観る者を引き込んでくれる数字の世界の優美さだ。<友愛数><完全数>或いは<双子素数>など、初めて出会う知識も多い。

でも、それは博士が静かに、そして格調高く説明してくれるからこそ優美なのであって、そこに余計な説明はいらない。

さて、これが前述した改めて観て<気になった点>なのだ。

本作はご丁寧にも、ところどころにルート先生(吉岡秀隆)が中学で数学を教える授業が挿入される。彼は、当時10歳だった杏子の息子が成長した姿である。頭のてっぺんが平らなので、博士がかつてルートと名付けたのだ。

だが、そんなことはどうでもいい。このルート先生は、かつて博士に教わった数学的なウンチクや数学者の話などを、安っぽい演出の学園ドラマのように、道徳の授業よろしく生徒に語りかける。

小泉堯史監督は、数学の話を広い層に分かり易く補足したかったのかもしれないが、失礼ながらこの手法はいただけなかった。

博士と杏子の優美な数学世界に土足で踏みにじられた感じ。博士の言葉を借りれば、数字と愛を語らっているところに、トイレを覗かれたような無礼さだ。

いや、そもそも大人になったルート先生って、必要だったか? 原作では、ルートはその後数学教師になったとあるだけだ。

寺尾聡と同様、吉岡秀隆もまた黒澤作品の助監督時代からの小泉組の俳優であることから、それならルートを成長させるか、と先に配役ありきで考えたのではないかと勘繰ってしまう。

ともあれ、このルート先生の場面のインサートは映画のリズムを削いでいる。教室の窓の外に美しい砂浜が広がっていたり(Dr.コトー診療所か)、中学生の授業があんなに従順な生徒ばかりなのも鼻白む。

タイガースとオイラーと博士

子供好きな博士の命令で、小学生のルート(齋藤隆成)を勤務中も博士の家に連れてきて一緒に夕食をとるようになる。

阪神タイガースファン同士で博士と母子が意気投合するが、博士はいまだに江夏豊が現役投手だと思っているところも、面白くて、ちょっと、もの悲しい。

原作では三人でタイガースの試合観戦に行くのだったと思うが、さすがに撮影が難しいからか、映画ではルートたち少年野球の試合を博士と杏子で応援する設定に変えている。

チームメイトの背番号を、みな往年のタイガースの名選手のものに変えて博士が覚えやすくしたり、ルートの背番号は「√」にしたりと、これはうまい発想だった。

(C)「博士の愛した数式」製作委員会

博士が懸賞論文を投稿する学術誌「JOURNAL of MATHEMATICS」を、杏子はいつも「ジャーナルオブ」と言ってごまかすのだが、その小ネタはあえて説明しない。これを省略するセンスで、ルート先生の数学の説明も割愛してほしかった。

ちなみに、博士の最も愛した数式である、オイラーの等式(e + 1 = 0)も映画では原作以上に丁寧に説明されていた(ような気がする)。『博士の異常な愛情』ならぬ、e上のi乗。ちょっと違うか。

ウェットな演出はもう少しドライに

博士と義姉(浅丘ルリ子)不倫関係にあり、そのさなか、義姉が自動車事故を起こしたせいで二人とも障害を負ったというような経緯が、映画ではわりと踏み込んで描かれている。

原作はここをあえて最小限の記述にとどめていたのではないかと思うが、その扱いは好みが分かれるところかもしれない。

博士と義姉が薪能を観に行き、義姉は杏子母子と博士の友達付き合いを認めるようになる。このあたりは原作と離れた小泉監督の独自解釈と思われる。

親や親類・友達を捨てたが、授かった子を生む勇気がなかった義姉。子供を生んで母子で逞しく生きている杏子。

ラストに監督自身で翻訳して掲示したウィリアム・ブレイクの長大な詩の冒頭数行に、感銘を受ける人もいるのだろう。

だが、私はダメだった。あの詩を吉岡秀隆が情感たっぷりに朗読した時点で、クサすぎるよと拒絶してしまった。

加古隆の音楽も同様で、この作品にはウェットすぎるように感じた。同じことを小泉監督『阿弥陀堂だより』のレビューでも書いているので、世間の共感が得られるかはともかく、軸はぶれていない(加古隆の楽曲単体としては好んで聴かせていただいている)。

本作は良かったが、原作は苦手という人はあまりいないだろう。映画も原作も良かったと言う人は大勢いるのかもしれない。私は<原作が良かった>派だが、ルート先生の授業シーンを抜いたバージョンならもう一度観てみたい。