『夏の庭 The Friends』
相米慎二監督が湯本香樹実の傑作児童文学を映画化。孤独な老人と生まれた深い心の交流。
公開:1994 年 時間:113分
製作国:日本
スタッフ 監督: 相米慎二 脚本: 田中陽造 原作: 湯本香樹実 『夏の庭 The Friends』 キャスト 傳法喜八: 三國連太郎 木山諄: 坂田直樹 河辺: 王泰貴 山下勇志: 牧野憲一 近藤静香: 戸田菜穂 古香弥生: 淡島千景
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
小学6年生のサッカー仲間である木山(坂田直樹)、河辺(王泰貴)、山下(牧野憲一)の三人は近所で独り暮らしをしている老人、喜八(三國連太郎)に興味を抱いて観察を始めることに。
最初は虫が好かなかった喜八も、次第に三人と打ち解け合い、彼らに指示して自宅をきれいにしてもらう。木山たちは喜八がかつて弥生(淡島千景)という女性と結婚していたと知り、喜八と別れた弥生のゆくえを捜そうとする。
今更レビュー(まずはネタバレなし)
前作に続く児童文学の映画化だが
相米慎二監督の前年公開の『お引越し』(1993)に続く児童文学もの。前作が離婚家庭の少女なら、本作はサッカー少年三人のひと夏のドラマである。
男女の違いこそあれ、小学6年生のこどもを主人公にしていることや、舞台を関西にして、全編を土地の言葉(前作は京都弁、本作は原作にない神戸弁)にしている点も似る。
また、原作者の湯本香樹実に、『お引越し』の作者ひこ・田中や相米監督が背中を押して作家デビューとなる本作を書かせ、それを映画化したという経緯を知ると、尚更、前作との繋がりを感じてしまう。
だが、率直に申し上げると、個人的には相米慎二監督の円熟期の名作だと思っている『お引越し』に比べると、本作は似て非なるものだった。
どちらも原作である児童文学も読んでみた。『お引越し』では、映画は原作とかけ離れ、独自の映像展開を見せ始めるが、しっかりと原作を解釈したうえで相米作品に昇華させたように感じられた。
本作は中盤までの展開は、概ね原作どおりであるが、終盤からの話の流れが大きく脱線してしまう。
それが原作の本質をとらえたアレンジであればむしろ歓迎だ。だが、私には、単にドラマとして安っぽい感動を付加しようとしただけに思えてならない。
そのため、湯本香樹実の原作で得られた共感が、映画からは伝わらなかったのだ。これについてはネタバレ扱いで後述させていただきたい。
相米映画らしさもある
本作は小6のサッカー少年三人の物語。とはいえ、サッカーはおまけみたいなものだ。
仲間のひとりの祖母が亡くなった際に、死というものに実感がわかない彼らは、近所の荒れた庭の家に住む、そろそろくたばりそうだという噂の独居老人(三國連太郎)の観察を始める。老人が死ぬところをみてやろう。
だが、はじめは怖そうに見えた老人も、毎日つきまとう少年たちに言葉をかけるようになり、次第に彼らは不思議な心の交流を深めていく。
◇
廃屋のようだった家もきれいな色に塗り替わり、荒れ果てた庭も雑草が取り払われ、あたり一面にコスモスのタネがまかれる。老人と少年が、庭に理想郷をこしらえて、そこでスイカをうまそうに頬張る。
なんとも牧歌的な展開自体は悪くない。夏休みに観るのにふさわしい映画だ。
三人の中でも主人公っぽいのは木山(坂田直樹)なのだが、常に威張り散らすメガネで小柄な河辺(王泰貴)や、魚屋のせがれで巨漢の山下(牧野憲一)の方が、キャラ的には目立っている。
映画的には、この三人に重鎮・三國連太郎を加えることで、バランスが成立している。
老人が「おい、関取! それから、そこのメガネ!」などと少年たちを呼ぶのも、近年ではルッキズム反対の風潮からは基準抵触だったりして。
メガネの河辺が<死>について考えながら、車道の上の歩道橋の欄干を歩くシーンは、昔の相米慎二ならガチでやらせているところだが、さすがに円熟期にはそこまで過激ではないか。
お馴染みの長回しも、適度かつ効果的に挿入されているし、オーディションで選ばれたという少年たちの演技指導も、昔から得意とするところなのだろう。ファンが喜びそうな『台風クラブ』的な荒天シーンもあって、ニヤリとする。
どこまでも幼稚な小6男子
ただ、私がどうしても馴染めないのは、少年たちのガキっぽさなのだ。小6の男児って、こんなに幼稚だったか。
男子が同学年の女子に比べてガキなのは分かる。だが、『お引越し』で田畑智子が演じた小6少女に比べると、本作の三人は幼すぎる(口ずさむ歌まで、あっちは井上陽水、こっちはトトロの「歩こう 歩こう」だ)。
実は、是枝裕和監督の『奇跡』(2011)を最近観た際にも、小6少年たちに全く同じ印象を抱いたのだが、私の観念がズレているのか、或いは自分がガキの頃、落ち着きすぎていたのか。
「戦争に行ったことある? 人を殺すって、どんな感じ?」
戦争経験をつらそうに語る老人に向かって、気軽にポンポンと質問を投げかける無神経さは、さすがに低学年レベルではないか。この幼稚さが不自然にみえるために、原作にあった中学受験の設定を、映画でははずしてしまったのかも。
また、これは私の勝手な思い込みだが、三人の少年たち、特にメガネの川辺は、こんなにやかましく機関銃のように喋りまくる少年にしない方が良かったのではないか。
老人や他の大人たちとの会話において原作で余韻が残った場面はいくつかあるが、いずれも映画では台詞内容などに大きな差はないのに、印象がまるで違う。
それは、矢継ぎ早に、声変わり前の高い声で、質問攻めにする彼らが、うるさく思えてしまったからに他ならない。
今更レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見・未読の方はご留意ください。
原作にはないご都合主義
さて、湯本香樹実の原作に比べて、がっかりだったのが終盤からの展開だ。三人の少年には共通の担任の先生がいる。近藤静香先生(戸田菜穂)だ。映画オリジナルのキャラだが、彼女の存在は華があってよい。
ただ、喜八老人が戦争のために別れてしまった妻・古香弥生(淡島千景)を少年たちが探し始め、その女性が近藤先生の祖母だったという展開は、さすがにご都合主義でシラケてしまう。
◇
原作者の名誉のために言えば、原作では彼らが探し当てた老人ホームの女性は、まったくの別人だと分かり、彼らは花の種を買った店の老母を、代役に仕立てるという、現実味がある展開なのだ。
ここを、古香弥生が本当の妻だったという展開にしてしまったために、脚本には無理が生じる。
喜八老人には、会ったことのない娘がおり、孫である近藤先生を残して、その娘は交通事故で死んでしまった。そして弥生はショックでボケてしまって、夫は戦死した英雄だと思い込んでいる。
そういう、取って付けたようなドラマ要素が盛り込まれてしまい、説明過多になっていく。
一番大事な台詞が消えてしまった
この設定変更は、喜八老人が妻と再会する前に自宅で孤独死してしまう悲劇の盛り上げ、さらに、火葬場での妻と夫の亡骸との再会というドラマチックな場面の追加を企図したものだろう。
◇
だが、それが奏功したとは思えない。これは、老人の死、妻との再会という場面において、少年たちの泣き方があまりに嘘くさい、というか過剰感があるせいだと思う。
よくドラマなどで、本来悲しむべき遺族をさしおいて、親しくもなかった親族が大声で泣き崩れて興ざめしてしまうことがあるが、それに似ている。彼らは、もう少し慎ましく泣いた方が効果的だった。
エンディングについても違和感があった。死んだ喜八老人との会話だけが回想で聞こえ、庭の井戸からはたくさんの蝶が舞う。幻想的かもしれないが、ベタすぎやしないか。
むしろ、以前は幽霊の存在に脅えていた少年たちが、「俺たち、あの世に知り合いができたんだ。それって心強くないか?」と、ひと夏の成長をみせる原作の終わり方が、私は気に入っていた。
あれは映画的にも決め台詞になりえるものだったと思うのだが、なぜ外されてしまったのだろう。