『象は静かに座っている』
大象席地而坐 An Elephant Sitting Still
新人映画監督フー・ボーの処女作にして遺作となった、魂のこもる234分間。人生に打ちひしがれた四人が巡り合った一日の終わり。そこには象が座っているか。
公開:2019 年 時間:234分
製作国:中国
スタッフ
監督・脚本: フー・ボー(胡波)
キャスト
ウェイ・ブー:ポン・ユーチャン(彭昱暢)
ファン・リン:ワン・ユーウェン(王玉雯)
ユー・チェン: チャン・ユー(章宇)
ワン・ジン: リー・ツォンシー(李從喜)
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
かつては炭鉱業で隆盛しながらも、今では廃れてしまった中国の小さな田舎町。友達をかばった少年ブー(ポン・ユーチャン)は、町で幅を利かせているチェン(チャン・ユー)の弟で不良の同級生シュアイをあやまって階段から突き落としてしまう。
チェンたちに追われて町を出ようとするブーは、友人のリン(ワン・ユーウェン)や近所の老人ジン(リー・ツォンシー)も巻き込んでいく。
それぞれが事情を抱える四人は、2300キロ離れた先にある満州里にいるという、一日中ただ座り続けている奇妙な象の存在にわずかな希望を求めて歩き出す。
レビュー(途中からネタバレあり)
タル・べーラ監督の子供たち
中国の寂れた田舎町で人生に行き詰まった孤独な四人の老若男女。遠く離れた動物園にいるという一日中ただ座り続けている象の噂に希望を見出し、どん底から這い上がる一日の物語。
中国映画界の次世代を担う才能であったはずの新人監督フー・ボーは、234分という新人離れした長尺の大作を遺して、作品完成直後に29歳の若さで自ら命を絶つ。
その後に公開された本作は、ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞と最優秀新人監督賞スペシャルメンションを、そして金馬奨で最優秀作品賞を受賞する。
それが監督の処女作にして遺作となった本作への同情票ではないことは、本作を観ればすぐに分かる。圧倒的な力強さが、そこに感じられるからだ。
フー・ボー監督は、ハンガリーの巨匠タル・ベーラ監督の影響を受けた子供たちのひとりといわれている。
すでに10年以上前に引退を表明しているタル・べーラだが、学生を相手にワークショップを数多く主宰し、中国でフー・ボー監督の指導をした経緯がある。
タル・べーラ監督作品では過去に『倫敦から来た男』(2007)と『ニーチェの馬』(2011)を観たが、いずれも長く静かな作品だったと記憶している。
観ようによっては退屈と言えなくもないが、なにかよく分からないが崇高なものを感じられる。そんなタル・べーラ作品と同じような感覚が、本作からも感じ取れる。
234分は長いのか
234分は、新人監督の作品としては異例に長い。この長さで公開することに当時の製作側から反対の声が上がり、再編集を求められたことに思い悩んだ末にフー・ボー監督は自殺を選んだとも言われている。
本当のことは分からない。それが真相ならば、命と引き換えにもぎとった234分といえるのかもしれない。それだけの思い入れがあったのだろう。
◇
エドワード・ヤン監督の代表作『牯嶺街少年殺人事件』が236分だから、ほぼ同じ尺だ。ただ、静かなシーンが畳み掛けるような本作のほうが体感時間は長いように思えるが、目指しているものは異なる。
本作の登場人物のひとり、ブー少年(ポン・ユーチャン)と女学生のファン・リン(ワン・ユーウェン)がやりとりするシーンなど、どこかこの『牯嶺街少年殺人事件』を思わせる場面も多かった。
本作に登場するのは四人の男女。それぞれに、日々の生活で鬱積したものを抱えている。
ここから若干ネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
①ユー・チェン
マンションの高層にある女の部屋で目覚めたチェン(チャン・ユー)。一服していると、不意に何者かが扉を叩いて入ってくる。
「誰かいるのか」
それは女の夫であり、しかもチェンの親友だった。
「お前だったのか」
部屋に入り、浮気相手の正体を知った夫は、チェンを一瞥し、目の前で窓から飛び降りる。
◇
文字にすると衝撃的なシーンに思えるが、映像は驚くほど静かで醒めている。まず、部屋に飛び込んでくる夫の視野には、ドアの裏で息を潜めるチェンが確実に目に入っているはずなのに、反応しない。チェンが幽霊という設定なのかと思ったほどだ。
そして親友が寝取ったと知ると、夫はドアとは反対方向にフレームアウトする。それだけなのだ。一瞬おいて、チェンはマンションを出て外へ飛び出し、そこでようやく地面に転がる遺体らしきものが映る。
飛び降り死体ははじめボヤけていて、何だか分からない。それがカメラが徐々に近づくことで、朧げに遺体だと分かってくる。
これは本作全編で多用される手法なのだが、被写体深度が思い切り浅いのだ。だから、焦点が少しでも外れると、もうピンボケになっている。これが独特の効果を発揮する。
②ウェイ・ブー
高校生のブー(ポン・ユーチャン)は、失業して朝から酒を飲んでいる父親や口うるさい母親に責めたてられ、散々な一日が始まる。学校では親友のカイが、携帯を盗んだ嫌疑で不良のシュアイに絡まれている。
「カイは盗んでないよ」
怒ったシュアイがブーのカバンを掴んで押さえつけ、もみあったはずみで、シュアイは校舎の階段から転げ落ち、救急車で運ばれる。
逃げ出したブーは、加害者としていじめグループの恨みを買う羽目になる。そして、シュアイの兄チェンにも追われることとなる。
◇
ブーの通う学校で掃除当番をやっている生徒たちや、バス停で鉢合わせするチェンなど、周囲にいるはずの人々がみな前述のボケ具合の大きさ効果によって、正体が分からなくなっており、異空間の不気味さを創出している。
ブーが慕っていた祖母のアパートを訪ねると、人気のない暗い部屋で(亡くなった)祖母の足だけが映っているシーンも、凝視しなければ気づかないほどのさりげなさだ。
③ファン・リン
ブーが思いを寄せる同級生のリン(ワン・ユーウェン)。空き缶が床に散乱し、洗濯物は干したまま。トイレはまた水漏れを起こしている。
離婚して家事と子育てを放棄した母親と二人暮らし。朝食は、母親が深夜に酔って買ってきた、箱が潰れたバースデーケーキ。
荒んだ部屋以上に、冷え切った関係の母親。溜息を吐きながら向かった学校で、リンは関係を持つ副主任の元を訪れる。
『さがす』・『空白』の伊東蒼と張るくらい薄幸の少女が似合うワン・ユーウェン。副主任との不倫関係もうまくいくはずもなく、二人の様子が盗撮された動画が拡散してしまう。
④ワン・ジン
ブーが暮らす集合住宅には、娘夫婦と孫娘の三人で狭い部屋に暮らし、いつも犬を連れて散歩するジン(リー・ツォンシー)という老人がいた。
「文教地区の家賃は通常の三倍かかる。お義父さん僕たちも辛いんです」
孫娘の進学のため、娘夫婦は引越しを機に彼を老人ホームに入れたがっている。あそこでは犬が飼えないと拒むジン。
だが、散歩に出た先で、愛犬が他人の飼い犬に噛まれて死んでしまう。悲嘆に暮れるジンだったが、これで老人ホームに行けると、家族は喜ぶ。
満州里にいるという象を観に
なんとも、息苦しくなるようなつらい話ばかりだ。チェンは別の女にフラれた腹いせで親友の妻と関係を持ち、その結果、親友を自殺に追い込む。
ブーは、親友カイがいじめっ子シュアイの携帯を盗む筈がないと信じた挙句にそいつを転落させてしまうのだが、実はその携帯にはカイを盗撮した動画が入っていて、親友がシュアイから盗むだけの理由があった。
そしてその携帯から副主任との動画が流出したリンは、不倫騒動で直談判にきた教師の妻と自分の毒親もろともバットで殴りつける。ジンはビリヤードのキューと引き換えに、ブーにカネを貸してやる。
不思議な因縁で四人の過ごす一日が交錯する。
バスの中で拾った大サーカスのチラシを見たブーは、一日中ただ座り続けているという奇妙な象の存在に興味を持ち、ジンやリンを誘い遠く2300km先の果て、満州里に向かうために画策する。
もはや希望を持ちようがない人生を歩もうとしている彼らが、最後にすがりつくようなわずかな光明が、この座っているだけの象なのか。そして長い一日が終わり、日が暮れる。
被写体深度を極限まで浅くし、少しでも焦点を外せばボケてしまうカメラの中で、ドラマはむしろ、このボケの中で起こっている。終盤、騙し取られた乗車券代を取り返しにダフ屋のもとに行ったブーの眼前で、チェンに銃を向けるカイ。これもその好例だ。
さて、234分の作品のラストにふさわしい終わり方だったのかは、人によって意見が分かれるかもしれない。私はちょっと物足りなかったと感じた。パオーンの鳴き声もいいけど、『愛がなんだ』(今泉力哉監督)の岸井ゆきのみたいに、最後は象とご対面してほしかったのだ。
ただ、本来なら弟の復讐に走りそうなEXILE風の悪人顔のチェンが意外と善人だったのは嬉しい誤算。でも、もうこの監督の新作が観られないのだと思うと、喪失感は大きい。