『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』
The Killing of a Sacred Deer
ヨルゴス・ランティモス監督によるギリシャ神話の新解釈。バリー・コーガンの怪演から目が離せない。
公開:2018 年 時間:121分
製作国:イギリス
スタッフ 監督・脚本: ヨルゴス・ランティモス キャスト スティーブン: コリン・ファレル アナ: ニコール・キッドマン マーティン: バリー・コーガン キム: ラフィー・キャシディ ボブ: サニー・スリッチ マーティンの母: アリシア・シルヴァーストーン マシュー: ビル・キャンプ
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、美しい妻と健康な二人の子供に恵まれ郊外の豪邸に暮らしていた。スティーブンには、もう一人、時々会っている少年マーティン(バリー・コーガン)がいた。とある事情から、スティーブンは彼に何かと気にかけてやっていたのだ。
しかし、マーティンを家に招き入れ家族に紹介したときから、奇妙なことが起こり始める。子供たちは突然歩けなくなり、這って移動するようになる。家族に一体何が起こったのか。そしてスティーブンはついに容赦ない究極の選択を迫られる。
今更レビュー(まずはネタバレなし)
バリー・コーガン、不気味すぎ
ギリシャの鬼才・ヨルゴス・ランティモス監督が描くサイコホラー。2018年の本作公開時に初めてこの監督の作品を観たが、あまりに救いのないイヤミスならぬイヤサスぶりに愕然としたのを覚えている。
同じコリン・ファレルの主演である前作『ロブスター』でも、同じように美しい映像と救いのない世界を描いていたが、あちらにはまだ随所に風刺の効いたユーモアがあった。
だから、さほど重苦しい感じにはならなかったのだが、こちらは違う。一瞬たりとも緊張感がほぐれる瞬間がない。
まずは冒頭、人間の心臓が脈打つ映像で度肝を抜く。主人公スティーブン(コリン・ファレル)は心臓外科医で目下オペの真っ最中なのだ。
術後に麻酔医の同僚マシュー(ビル・キャンプ)と腕時計を買う話で談笑。そして次のシーンでは、スティーブンは少年と向き合ってダイナーのテーブルに座っている。
バリー・コーガンが演じる、このマーティン少年のインパクトがすごい。卑屈な目つきと汚い食べ方、遠慮気味な会話、訳あり感がハンパない。一体こいつは何者なのか。
約束して外で会っているところや、同僚と話していた高価そうな腕時計をプレゼントするところから、親権を奪われた男が子供と会っているようにも思える。
だが、スティーブンが家に帰れば、美しい妻アナ(ニコール・キッドマン)と二人のこどもがいる。年頃の姉キム(ラフィー・キャシディ)と弟のボブ(サニー・スリッチ)。
心臓外科医の夫と眼科医の妻は相当な稼ぎなのか、随分と立派な邸宅に住んでいるものだ。
子供のしつけには厳しそうな夫婦だが、傍目には幸福そうな家庭である。だが、そこに異分子マーティンはどう関わってくるのか。
不穏な予感は確信にかわる
数日後、スティーブンの提案でマーティンを家に招待する。若干風変りな少年ではあるが、キムもボブも彼に関心をもつ。この少年が何者なのかは、アナに聞かれてスティーブンがあっさり答える。
彼は、事故で病院に担ぎ込まれた患者の息子。自分が執刀医だったことで、その後も気にかけてあげているのだと。
その説明を鵜呑みにしたとしても、スティーブンにストーカーのように擦り寄ってくるマーティンのキャラが不気味すぎて不穏な予感しかしない。
一方、スティーブンの一家にも奇妙な感じは拭えない。妻のアナは寝室で服を脱いでベッドに横たわり身動きもせず、夫の好きな<全身麻酔>プレイに付き合う。
また、子供部屋に招いたマーティン相手に、姉のキムは「私、先週初潮があったの!」と初対面の男子に驚きのカミングアウトだし、弟のボブは「ねえ、腋毛生えてる?見せてよ!」とせがむ。
そして、ただならぬ予感が確信に変わるのは、招かれたお返しにとマーティンの家に呼ばれたスティーブンが、少年が寝た後にその母(アリシア・シルヴァーストーン)に言い寄られるところ。
未亡人と二人でTV映画を見ていると、「先生は手がきれいだと前から思っていました」と彼女がスティーブンの手にキスしまくる。これも怖い。
◇
そんな折に、ある日唐突に長男ボブの足が動かなくなる。スティーブンとアナは仮病と疑ったが、原因不明の半身不随で入院させても回復しない。ボブが突然エスカレーターで倒れる映像を真上からロングでとらえるショットが印象的だ。
聖なる鹿殺し
本作はヒゲ面のコリン・ファレルも『アザーズ』並みに目つきが怖いニコール・キッドマンも好演しているが、それを圧倒するバリー・コーガンの不気味さが凄まじい。本作の魅力は彼の怪演に尽きる。
『ダンケルク』でも印象的だったけど、やはり特異な印象の彼の起用法は本作や『グリーンナイト』が正解。マーベル映画『エターナルズ』ではヒーローかヴィランか読みにくい存在だったのも肯ける。
それにしても『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』とは随分冗長な邦題である。
なるほど英語がないと、聖なるものは鹿なのか殺し屋なのか判然としないからか、と思ったが、それならポスタービジュアルで<鹿殺し>だけ赤くしている時点でもう間違っているではないか。
なお、このタイトルは、ギリシャ悲劇の『アウリスのイピゲネイア』に因んでいるのだが、それが本作を読み解くヒントにもなっている。
今更レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
さあ、誰を選ぶ?
長男ボブが原因不明の半身不随で入院し動揺しているスティーブンを、マーティンは病院のカフェに強引に誘い出し、驚きの発言をする。
「先生は僕の家族を一人殺した。だから家族を一人殺さないといけない。誰かを選ばないと、みんな死ぬよ」
一体何を言い出したんだ、こいつは。
「①手足の麻痺
②食事の拒否
③目から出血
④死
さあ、誰を選ぶ?」
これまでの卑屈さから一転、マウントをとってスティーブンに畳み掛けるマーティン。
そして彼の予言通り、ボブだけでなく、その姉のキムまで足の麻痺が生じ始める。マーティンが毒を盛っているわけではなく、何か人間を超越したものの力が働いている。
マーティンはフェアネスを重んじる性格のようだ。スティーブンから腕時計をもらえばお返しにアーミーナイフ、家に招待されれば、自分の家にも来てくれという。
スティーブンは、酒気帯びの状態で手術をし、マーティンの父親を死なせた。だが、マーティンは、父の復讐にスティーブンを殺すのではなく、家族を選んで殺せという。
マーティンは父親を愛していたのだろう。自分の乱暴なスパゲッティの食べ方を父親譲りだと喜んだのだのもその表れだ。母がスティーブンとくっついて、失った父性愛を返してもらうことが、フェアな要求だと思ったかもしれない。
アウリスのイピゲネイア
ヨルゴス・ランティモス監督はギリシャ人ということもあってか、本作はエウリピデスのギリシャ悲劇『アウリスのイピゲネイア』を基にしている。キムがこの神話について学校で好成績のレポートを書いていたことからも関係性が窺える。
◇
トロイア戦争ギリシャ軍総大将のアガメムノーンは、風がぴたりと止んで軍の出航ができずに困っていた。それは彼の不注意な発言が女神アルテミスの逆鱗に触れたせいであり、怒りを収めるには、娘イピゲネイアを生贄にささげる必要があった。
妻の反対や、彼自身の心変わりなどもあったが、結局最後には軍のために娘に犠牲を強いることとなり、娘も諦めて生贄になるという悲劇である。
スティーブンが自分の落ち度で家族を生贄に差し出さねばならない点は、本作と重なる部分だ。となれば、マーティンが神のような存在に相当するのだろう。
押し付け合う家族
スティーブンは自分の過失でマーティンの父の手術に失敗し(だから断酒し始めた)、その負い目から少年を懐柔しようとし、事実を追及されそうになると妻に逆ギレする始末。
幼少期に父親の性器を悪戯したり、全身麻酔プレイが好みだったりと、変わった性癖は許容できるが、罰を与えるなら家族ではなく自分にしてくれと懇願しないのは父親失格だろう。
学校の先生に「うちの娘と息子はどちらが優秀ですか」と尋ねるのも、愚の骨頂だ。
妻のアナも自分本位の女性である。はじめは、入院したボブのためにマーティンの家を訪ねて、「なぜ夫の責任を家族が負わねばならないの」と詰問したり、麻酔医を手コキしてマーティンの父親の死の真相を聞きだしたりと頑張る。
だが、その後は夫に「選ぶなら子どもよ。私たちならまた生めるわ」と言い寄り、それがダメとなると、マーティンの前にひれ伏して足にキスをするようになる。
◇
姉のキムも計算高い。彼女は父親に、「私を犠牲者に選んでほしい」というが、『イピゲネイア』の神話のレポートを書くくらいだから、それが同情を買い神に救われる(鹿と引き換えになる)と知っているのだ。
更に、色仕掛けでマーティンに迫ったり(全身麻酔プレイなのは笑)、重症の弟に「あんたが死んだら音楽プレーヤーを頂戴ね」といってみたり、性悪である。
◇
家族みんなが誰かを犠牲にしようとする中で、ボブだけは少し違う。父・スティーブンに対して、「僕も本当は心臓外科医になりたいんだ」と言ったり、切れと言われていた長髪をやっと自分で切ったりするのは、点稼ぎかもしれない。
だが、マーティンには服従せず(父さんの方が腋毛が多くて男らしいんだ!)、他の家族を売ったりもしないボブは一番まともな存在だ。
人間ロシアンルーレット
さて、どうやっても子供たちは快方に向かわず、スティーブンはマーティンを地下室に監禁して、暴行のうえ、銃を向けて脅かす。まるで『プリズナーズ』でヒュー・ジャックマンの演じた、娘を誘拐された父親のようだ。
だが、彼に一発撃っても4人死ぬだけ。万策尽きたスティーブンは、どうにか一人を選ぼうとするが、結局選びきれずに、三人を目隠しし、自分も頭巾をかぶってグルグル回りあてずっぽうに銃を撃つ。人間ロシアンルーレットだ。
公開時に観た際には、まさか本当に誰か死なないだろうと思っていた。普通の脚本ならそうだろう。だが、本作では明確に犠牲者が出る。それが、最も選ばれるべきではない、ボブなのは、必然に違いない。
こうして残った家族三人は、後日ダイナーでマーティンと偶然鉢合わせるが、互いに言葉も交わさずに去るというエンディングだ。
何も語らないラストは、『ロブスター』同様に、観る者に解釈を委ねられている。アナとキムは、生き残ったという勝者の表情でマーティンを睨みつける。
キムが真っ先にポテトに手を付けるのは、それを最後にとっておく主義のマーティンには屈しないという意思表明なのか。
ただ、スティーブンはマーティンとは一度も目を合わせない。なぜか。
私は、彼がマーティンの呪詛から逃れたと確信できないからではないかと思った。ボブは射殺されたが、スティーブン家族から犠牲者を選んではいない。偶然銃口が向いただけだ。
本作が超常現象的な話だと知ったときには、シャマラン監督の映画を思い出したのだが、面白いことに、シャマランの新作『ノック 終末の訪問者』も、「家族で誰か死ぬ者を選ぶことで」世界を救う映画なのだ。
そして同作では、選んだのではなく(想定外の事故等で)死んでしまった場合は、条件不成立となる。同じゲームのルールが適用されるわけではないだろうが、本作でも、実は神マーティンの怒りは鎮まっていないのではないか。
ラストシーンにまでポテトを登場させるのは、<楽しみは最後にとっておく>というマーティンの心情を表しているように思えてならない。