『あちらにいる鬼』
瀬戸内寂聴と父の不倫を題材に、娘である井上荒野が書いた原作を廣木監督が映画化。愛に苦しむ自分を堪え切れず出家の道を選んだ心情を、感じ取れるかが勝負。
公開:2022 年 時間:139分
製作国:日本
スタッフ 監督: 廣木隆一 脚本: 荒井晴彦 原作: 井上荒野 『あちらにいる鬼』 キャスト 長内みはる: 寺島しのぶ 白木篤郎: 豊川悦司 白木笙子: 広末涼子 白木サカ: 丘みつ子 白木海里: 諏訪結衣 白木焔: 太田結乃 小桧山真二: 高良健吾 奏不動産社長: 村上淳 坂口初子: 蓮佛美沙子 矢沢祥一郎: 佐野岳 新城: 宇野祥平
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
人気作家の長内みはる(寺島しのぶ)は戦後派を代表する作家・白木篤郎(豊川悦司)と講演旅行をきっかけに知り合い、男女の仲になる。
一方、白木の妻・笙子(広末涼子)は夫の奔放な女性関係を黙認することで平穏な夫婦生活を続けていた。
しかしみはるにとって白木は体だけの関係にとどまらず、「書くこと」を通してつながることで、かけがえのない存在となっていく。
レビュー(ネタバレあり)
コンプラに厳しくはないのだが
直木賞作家・井上荒野が、同じく作家である父・井上光晴と瀬戸内寂聴の間に続いていた不倫関係を題材に描いた小説『あちらにいる鬼』。廣木隆一監督による映画化。
瀬戸内寂聴がモデルである主人公の長内みはるを剃髪し演じきった寺島しのぶと、作家の才能はあるがあちこちの女を相手に奔放で乱れた生活を送る白木篤郎を演じた豊川悦司の、何度目かの共演で話題になった。
だけど、この作品、正直いって私には、全然合わなかった。作品自体がけして不出来な訳ではないし、映像にも演技にも十分なこだわりは感じられたのだが、物語に入り込めなかったというか、共感できなかった点が大きいのだと思う。
不倫のドラマだから生理的に受け付けないというほど、私の感性はコンプラに厳しくはない。
だからといって、出家するほどに傷つき思い悩む主人公の女の心情と、さんざんひどい仕打ちをしておいて、しまいには涙を流す男の身勝手さに、強く同調できるほどの感受性を持ち合わせていなかったということだ。
井上荒野の原作は以前に読んでおり、その時は主人公・長内みはるの心情がもう少し感じ取れたように記憶するのだが、映画になるとまた、とらえ方が違うのだろう。
例えば、小説でなら許せるが、良妻賢母で若く美しい笙子(広末涼子)をほったらかして、長内みはるに走るというこの男の行動が、広末ファンとして理解できないし(それが最大の理由だな)現実味にも欠けるように思える。
もっとも、世間を賑わせている広末涼子の私生活での何度目かの不倫スキャンダルは、彼女に似合うのはこの貞淑な妻ではなく、むしろ愛に生き、出家も辞さない主人公の女の方かもしれないと思わせる。
瀬戸内寂聴モノとの相性か
瀬戸内寂聴は、生前に井上荒野の原作を読み名作だといい、映画化を楽しみにしながら亡くなられたそうだ。彼女が本作を観ていれば、きっと感動作と思ってくれたに違いない。
それはそうだ。フィクション部分もあるとはいえ、モデルとなった当事者だもの。美しい記憶に満たされるだろう。だが、同じ感動を、第三者である観客に共有させるのは難しい。
同じ不倫ものでも、書き手や主人公の男女差によっても、受け止め方が違うのか。例えば、若干古くなるが、先日久しぶりに観た渡辺淳一の『失楽園』(1997、森田芳光監督)などでは、本作のように心情が分からないということはなかった。
なお、同じ渡辺淳一原作の『愛の流刑地』(2007、鶴橋康夫監督)でも、寺島しのぶと豊川悦司は共演しているし、廣木隆一監督のもとでも二人は『やわらかい生活』(2006)を撮っている。
その他の作品も含めると5~6回は共演しているそうで、トヨエツに髪を洗ってもらうシーンも『やわらかい生活』に続き二度目になる。演技派の二人だから何度共演してもマンネリ化を感じさせはしないが、とはいえ目新しさに欠ける気もする。
トヨエツの勇猛果敢な攻め
映画は序盤、作家の講演会で同じ迎車に乗り合わせたみはると白木。「ボクは着物にはうるさいんだ」と彼女の和装を褒め称え、カード占いでハートをつかむと、あとは白木の猛攻。
いつの間にかみはるも白木に夢中になっており、突然自宅の一軒家を訪ねてきた白木への、みはるの少女のような喜びようが分かりやすい。
白木の子を二度堕ろし、自殺未遂を起こした女(蓮佛美沙子)の入院先に妻の笙子を行かせる。妻が二人目を産気づいた時にも、家には帰らず、遊び歩いている(幼いときからしっかり者の長女に、原作者の井上荒野自身が投影されているのだろう)。
みはるの家で角瓶を飲んでは「オールドパーくらい、置いときなさい」と言い、彼女と同棲している男(高良健吾)には「一緒に飲みましょうよ」と邸宅の主人顔。この白木という男はつくづく鼻持ちならないヤツだが、なぜかモテる。
みはるは20年前に4歳の娘を捨てて作家になるために上京した。白木は4歳の時に母親が出ていき、祖母に育てられた。その二人の偶然のつながりを運命的に語り、みはるを納得させる白木は、さすがに作家だけあって弁が立つ。
出家しようと思う
家庭を顧みず、みはるとの関係に溺れるまでの前半の展開までは興味深く観ていたが、二人の仲に倦怠ムードが漂い始めるころから、次第に関心も冷めていく。嘘で固めた経歴を紹介する、白木の生まれ故郷の離島への二人旅も、どこか白々しい。
「私、出家しようと思ってる」
白木と別れれば済む話なのに、わざわざ退路を断つ覚悟のみはる。白木が死ぬことも考えたが、それは嫌だ。出家なら、生きながら死ぬことができる。
出家の前夜に、二人で狭い家風呂の湯舟に入り、洗髪してあげる白木。そして断髪式で剃髪してもらうみはるは、寂光と名を変える。
このあたりは、映画の見せ場であることは分かる。実際に長い髪を剃った寺島しのぶの本作にかける気合は立派だが、逆に言えば、だからといってこの剃髪する場面に作品が依存しすぎな気もする。
安易な時代の見せ方
コロナ禍での異例スケジュールの影響もあろうが、廣木隆一監督は本作のほか、同時期に『母性』と『月の満ち欠け』の三本が新作公開されるという活躍ぶり。
それぞれの作品をお手軽に撮っているとは思わないが、その時代の空気を出すのに、流行音楽や社会現象が安易に織り込まれすぎている印象を受けた。
音楽でいえば、本作では広末涼子演じる妻が、つらそうに見える局面でも、何の気なしに流行歌を鼻歌で歌う。時代を示す小道具としてであれば、ちょっとあざとい。
『月の満ち欠け』で高い金を払って使ったであろう、名曲だが手垢のついたジョン・レノンの『Woman』を思い出す。
本作に何度も登場する昭和史とのからみも、映画を盛り上げようとする安易な手段に感じられてならない。
白木の小説の作風から、三島由紀夫の自決について語らせたいのは分かるが、いくら時代が重なるからとはいえ、ただの不倫ドラマに、安田講堂や新宿の学生運動鎮圧、浅間山荘といった重厚な社会派素材をぶち込む必要があっただろうか。
頭を丸めて出家までした女が、その晩に男の泊っている旅館の部屋を訪ねてきてしまう。この未練と葛藤こそ本作の肝の部分なのだろうが、「だったら戒名授かるなよ」と、心の機微が分からない無粋者の私は言ってしまいたくなる。
映画は最後、妻と出家した愛人の、二人に看取られて男が病院で息を引き取り、そしてひとりの男を愛した二人の女には、不思議な連帯が継続する。不倫ドラマにハッピーエンドとは、不思議な作品だ。
◇
そもそも私は瀬戸内寂聴の不倫ものが苦手なのだとは思う。だが、先日、満島ひかりで映画化した『夏の終り』(2013、熊切和嘉監督)を久々に観たところ、当初の印象とだいぶ異なり、丹精な作りの作品だと感心した。
出家こそしないが、同じ瀬戸内寂聴の不倫をモデルにした作品だけに、両者には共通点も多い。本作のあとに観ると、熊切和嘉の演出力が一層際立って見える。