『静かな生活』考察とネタバレ!あらすじ・評価・感想・解説・レビュー | シネフィリー

『静かな生活』今更レビュー|エンタメに走らない伊丹十三作品もある

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『静かな生活』

知的障害を持つ我が子をモデルに描いた大江健三郎の原作を、義兄にあたる伊丹十三監督が映画化。

公開:1995 年  時間:121分  
製作国:日本
 

スタッフ 
監督・脚本:      伊丹十三
原作:        大江健三郎
            『静かな生活』
撮影:         前田米造
音楽:          大江光
         

キャスト
マーちゃん:     佐伯日菜子
イーヨー:       渡部篤郎
パパ:          山﨑努
ママ:        柴田美保子
オーちゃん:      大森嘉之
団藤さん:       岡村喬生
団藤さんの奥さん:   宮本信子
新井君:        今井雅之
天気予報のお姉さん: 緒川たまき
黒川夫人:      阿知波悟美

勝手に評点:2.5
(悪くはないけど)

©1995 伊丹プロダクション

ポイント

  • 伊丹監督の才能はエンタメ路線以外でも発揮されるべきだろうし、それが高校時代から親交のあった大江健三郎原作者であれば、相性の良さが期待できそうな気はする。
  • だが、なぜかいまひとつ、消化不良気味な作品。渡部篤郎をはじめ、珍しく常連メンバー以外の若手メンバーの演技は光っているのだが。

あらすじ

絵本作家を志望するマーちゃん(佐伯日奈子)には、楽才に恵まれながらも障害を抱えた兄のイーヨー(渡部篤郎)と、大学入試を控えた弟のオーちゃん(大森嘉之)がいる。

精神状態が不安定になってしまった小説家のパパ(山崎努)はオーストラリアに講師として招かれ、優しいママ(柴田美保子)も同行する事に。

両親の留守中、兄弟の面倒をみることになったマーちゃんの前に、父親の昔の知り合いという新井君(今井雅之)が現れる。

今更レビュー(まずはネタバレなし)

伊丹と大江の義兄弟タッグ

『ミンボーの女』(1992)まではエンタメ路線をひた走っていた伊丹十三監督が、翌年の『大病院』(1993)からやや路線を変え、続く本作は、文字通り静かで派手さはなく、監督のフィルモグラフィでは異質な作品となった。

原作はノーベル文学賞作家・大江健三郎の同名小説。本作では音楽を担当している、大江健三郎の実子・大江光をモデルに書いた、両親の渡航中に起こる知的障害者の兄と妹の、波乱に富んだ日常を描いたドラマである。

川端康成以来、日本では二人目のノーベル文学賞作家となった大江健三郎の原作映画化というと小難しそうで身構える。

だが、大江伊丹監督は愛媛県立松山東高校の同級生であり、親交があったのみならず、大江健三郎伊丹十三の妹と結婚したため、二人は義兄弟となっている。

なので、伊丹監督大江原作で映画を撮るのは、実に自然な成り行きと思える。一方の大江の小説の中でも、伊丹がモデルと思われる人物は、何度か登場しているし。

個性的な5人の家族

本作は大江健三郎の父子を投影した5人家族の物語である。

主人公は絵本作家を目指すマーちゃん(佐伯日奈子)。名前と関係なく、子供の頃、毬のように頭が小さかったからそう呼ばれている。

作家であるパパ(山崎努)と家族を束ねるママ(柴田美保子)、大学入試を控えた優秀な弟のオーちゃん(大森嘉之)、そして音楽の才に恵まれながら知的障害者である兄のイーヨー(渡部篤郎)の5人家族だ。

©1995 伊丹プロダクション

生まれてから何も言葉を発せず、鳥の鳴き声のレコードをひたすら聴いていたイーヨーが、山歩きするパパの背中で鳥の声を聞き「クイナです」アナウンサー口調で初めて喋った

その感動をパパが講演で語るのだが、これこそ映画向きなエピソードであり、回想で観たかった。

ある年、家の下水の詰まりを直そうとして失敗したパパは、家長としての自信を喪失する。偏狂的に下水修理に燃える山崎努の姿は、見慣れた伊丹映画のそれである。

それまでも、精神的に崩れそうな予兆のあったパパは、おりから招かれていたオーストラリアの大学へ講師に行くことを決め、ママも同行することとなった。

留守を引き受けたマーちゃんが、イーヨーたち(といっても、弟はほとんど登場しないが)の面倒をみるのだが、そこに次々と騒動が巻き起こる。

イーヨーの静かな生活

イーヨーは暴れたり叫んだりしない、気性の落ち着いた青年だ。勃起もするし、異性に関心もある。近所で幼女に性的な悪戯をする痴漢犯罪が勃発し、近隣住民はイーヨーを疑い、マーちゃんさえ、兄の潔白に自信を持てなくなる。

このような知的障害を持つ男性にまつわる風評被害は、なかなか映画においては取り扱いに気を使うのだろうが、本作は当事者家族である大江健三郎が書いているだけあって、遠慮なく題材にしている。

健常者とは少々異なるが、周囲の心配をよそに、クラシック音楽をはじめ、好きなものだけに純粋な興味を寄せるイーヨーの言動は、古くは『レインマン』(1989)のダスティン・ホフマン、近年では『梅切らぬバカ』(2021)の塚地武雅を思い出させる。

イーヨーを演じているのは渡部篤郎。本作で日本アカデミー賞新人賞と優秀主演男優賞をダブル受賞している。本作の出来は、彼の演技力によるところが大きい。

妹役で本作の主人公マーちゃんを演じた佐伯日菜子は、デビュー作『毎日が夏休み』(金子修介監督)に続き本作に主演。まだホラークイーンの座に君臨する前の時代だ。

彼女の演技も瑞々しく好感が持てるが、語りのナレーションだけはちょっと少女っぽい語り口が作品に調和していないように思えた。

常連が前面に出ない布陣

海外にいる両親に代わり、子供たちの保護者代わりなのがパパの友人の団藤さん(岡村喬生)夫人(宮本信子)である。音楽家の団藤さんはイーヨーを目にかけるし、何かにつけ「●●の女」ばりに熱弁をふるう夫人もまた温かい。

宮本信子は常に伊丹作品の主役級の女優であるが、本作は珍しく脇役だ。ただ、その存在感は十分にある。

いつも常連の伊丹組俳優で映画を組み立てる伊丹十三監督だが、今回は佐伯日菜子渡部篤郎と、馴染みのない若手をメインに持ってくる。

山崎努宮本信子はじめ、お馴染みのメンバーが周囲を固めてはいるが、このようなフォーメーションは滅多にない。津川雅彦が登場しない伊丹作品は、初めてではないか。

「イーヨーに障害がなかったら、面白い男に成長しただろうに」

イーヨーの音楽的な才能を買っている団藤さんがつい口を滑らせると、マーちゃんがそれを窘める。

「うちの家族はみんな、そうは考えないんです」

音楽的才能は、イーヨーの障害と密接不可分であり、それも含めて兄の個性であると、家族はみんな思っているのだ。だから、タラレバの発想はない。これはきっと、大江健三郎の心の叫びに違いない。

©1995 伊丹プロダクション

今更レビュー(ここからネタバレ)

ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。

イーヨー、泳げません

さて、中盤までは、周囲をやきもきさせる言動をするイーヨーにマーちゃんたちが振り回される展開が続いたが、後半に流れが変わる。

マーちゃんがイーヨーを連れていったプールで、パパの昔の知り合いだという新井君(今井雅之)が、イーヨーのコーチを買って出てくれるのだ。

新井君の指導の腕は良く、水を怖がっていたイーヨーが、泳げるようになっていく。

©1995 伊丹プロダクション

水泳好きの大江健三郎らしいエピソードだが、絵的には綾瀬はるかがコーチ役の『はい、泳げません』(2022)を思わせる。同作で生徒役の長谷川博己も、どこか精神的にしこりのあるキャラだった。

新井君はいかにも水泳コーチ然とした健康的ナイスガイで、イーヨーに彼の大好きなテレビの天気予報のお姉さん(緒川たまき)まで紹介してくれる。ここまでは順風満帆。マーちゃんも、新井君に好意を寄せるほどだ。

ところが、その話を耳にしたパパが、オーストラリアから電話で娘に警告する。

「新井君には、けして一人で近づかないように」

ここから徐々に浮かび上がる、新井君のもう一つの顔。真っ赤なポルシェに不機嫌そうな女(阿知波悟美)を乗せて、マーちゃんたちの家に上がり込もうとしたり、自室に連れ込もうとしたり。もう、怪しさ満点の男に変貌するのだ。

今井雅之の怪演がいい。彼の途中からの豹変ぶりと、叫ぶ佐伯日菜子の組み合わせで、本作は終盤からホラー濃度が急上昇する。

20年以上前の作品とはいえ、伊丹十三監督も、大江健三郎も、そして若くして今井雅之までもが、すでに鬼籍に入ってしまったかと思うと、寂しいものである。

モヤモヤが残るエンディング

本作はエンタメ路線ではないことに加え、極悪非道で下卑た発言をする男や、小説の中のエピソードとはいえ高校生に襲われ、更にはその学校教師にレイプされる女性が登場するなど、これまでの伊丹作品とは明らかに一線を画したものだ。

そのせいか興行成績が振るわなかったのも無理はないが、作品自体も、ややモヤモヤの残る終わり方だ。

ネタバレになるが、新井君の自室に兄と招かれたマーちゃんは、新井君に襲われそうになったところをイーヨーに助けられ、命からがら逃げだしてくる。

雨の中、マンションの外で泣き喚く彼女に、新井君は忘れていったカバンを放り投げて部屋に戻る。

新井君は、過去に自分が遭遇した殺人事件について、その話を打ち明けたパパが勝手に小説に書き、自分が社会的に迫害されたことを根に持っている。

だが、だからといってマーちゃんを襲っていいことにはならない。この一件は、イーヨーが身を挺して妹を守ったことだけがクローズアップされ、新井君の犯行が泣き寝入りになってしまう点が釈然としない。

そして、「パパはもう立ち直ったから」と、ママが帰国することになるところで映画は終わるのだが、子供たちの直面した危険に対して、オーストラリアに逃げたパパは家長として何の役にも立っていないところがもどかしい。

大江健三郎は、そこを自虐的に書きたかったのか。これは原作を読んで解明してみたい。