『(500)日のサマー』
(500) Days of Summer
マーク・ウェブ監督による恋愛映画じゃないボーイ・ミーツ・ガールもの。サマーとの出会いから始まる500日の物語。
公開:2009年 時間:96分
製作国:アメリカ
スタッフ 監督: マーク・ウェブ 脚本: スコット・ノイスタッター マイケル・H・ウェバー キャスト トム・ハンセン: ジョセフ・ゴードン=レヴィット サマー・フィン: ズーイー・デシャネル ヴァンス: クラーク・グレッグ マッケンジー: ジェフリー・エアンド ポール: マシュー・グレイ・ギュブラー レイチェル: クロエ・グレース・モレッツ アリソン: レイチェル・ボストン オータム: ミンカ・ケリー
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
建築家を夢見つつもグリーティングカード会社で働くトム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、社長秘書として入社してきたサマー(ズーイー・デシャネル)に一目ぼれをする。
運命の恋を信じるトムは果敢にアタックし、遂に一夜を共にするのだが、サマーにとってトムは運命の人ではなく、ただの「友だち」でしかなかった。
今更レビュー(ネタバレあり)
Boy Meets Girl だが恋愛映画ではない
マーク・ウェブ監督の監督デビュー作になる。まだ、サム・ライミの後を継いで『アメージング・スパイダーマン』を任される前の、ミュージック・ビデオの映像作家で知られる人物だった。
そのマーク・ウェブが手掛けた本作は、勿論ポップミュージックの採り入れ方にもセンスを感じるが、何よりはじめから人を食ったような演出がユニークだ。
実在の人物とは関係ない架空の物語だという脚本家スコット・ノイスタッターのコメントを引用しつつ、彼を捨てた女性ジェニー・ベックマンの名を挙げ、ビッチと言い捨てる冒頭。どうやら、彼女が本作のサマーのモデルらしい。
そして、タイトルバックには、少年と少女の成長記録のような映像が、左右に分かれて映される。NJで生まれ育った、神経質で純情そうな若者トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)と、ミシガンで育った自由奔放な女性サマー(ズーイー・デシャネル)。
◇
サマーは、トムの働いているグリーティングカードの会社に社長秘書として入社してくるが、一目でトムは彼女に運命的なものを感じる。ちなみに、社長を演じるのはマーベル作品でS.H.I.E.L.D.のエージェントでお馴染み、クラーク・グレッグだ。
出会いの日を(1)日目とし、そこから(500)日目に何が待っているのか。500日後に死ぬワニ? それは分からないが、こうしてボーイ・ミーツ・ガールの映画は始まる。ただし、「恋愛映画ではない」と、ご丁寧に注釈まで入るので、謎は深まる。
非ラブストーリーは突然に
確かに、主人公の男女が恋仲になっていくまで丁寧にステップを刻む映画ではない。
会社のエレベーターで偶然二人きりになり、トムのオーバーイヤー・ヘッドホンから漏れる音で「<ザ・スミス>、私も好きよ」などとサマーが話しかけてくる。実に順調な滑り出しだ。
◇
その後、会社のカラオケ大会で親しくなる二人。
「私は男なんて欲しくないわ。自分らしくいたい。恋なんて絵空事よ」というサマー。
「好きになったらどうする? 愛を感じればわかるものだ」と愛を信じるトム。
意見の相違はあるものの、なぜか会社のコピー室でトムに近づくとサマーは濃厚なキスをしてくる。
こういう、いきなりキスしてくる美女を見ると、『池袋ウエストゲートパーク』で「もう、めんどくさい」と長瀬智也の唇を唐突に奪った小雪をいつも思い出す。この手の衝動的なキスは、昨今では美女の方から仕掛けても問題行為として認知されている。正しいのだろうが、ドラマが撮りにくい世の中でもある。
映画はシーンが変わるたびに、(●●)日目と表示される。時系列的に日数が増えていくわけではなく、日によってシーンの長さも大きく異なり、ほんの数秒で終わる日もある。
(●●)日目はシャッフルされて登場してくるため、はじめは意識して観ていたが、次第にそれも疲れてくる。全ての恋愛映画がそうであるように、順調そうにみえた二人の関係も、(●●●)日目くらいになると、険悪な状況に陥っている。
理解不能だからこそ気になる存在
おおかたの男性にとって、分からないのはサマーの胸の内だろう。彼女はいったい何を考え、何を思いトムを翻弄するような行動をとるのか。
サマーを、自分に好意を寄せるトムを手玉にとる小悪魔的な女性と見ている人もいるようだが、けしてそのような悪意のある人物には、私は思えない。
◇
映画のシャッフル構成を全て編集し直して、時系列順に並べてみれば、サマーの思っていることがもう少し見えてくるのかもしれない。だが、それはマーク・ウェブ監督の意図とは離れた鑑賞法だと思う。
詭弁のようだが、私はトム同様の男目線で見てしまうこともあり、サマーの言動は意味不明で、いい女なんだけど理解不能で結局分かり合えなかった、というとらえ方でいいような気がする。
若い頃を思い返してみると、こういう、謎めいた女性に振り回されてしまっていた時代もあった。
「女ごころは分からない」という言い古された表現で片付けてしまうわけではないが、いくらあれこれと考察してみたところで、サマーの胸の内は理解できないよ、絶対。
だって、出会ったばかりの頃の会話で、「私の昔のニックネームは<アナル女>よ」とは普通言わんだろう。
「真剣に付き合う気はないけどいいの?」と何度も確認する割には、コピー室キスから、シャワーセックスまでしてみたり、更には意味なく公園で「ペ二ス!」と交互に絶叫するゲームを始めたり。
これはトムじゃなくても手強い相手だ。いいムードだったのは、IKEAのショールームで同棲カップルごっこをするところくらい。
◇
観ている方もサマーのことが理解できないからこそ、トムが傷つくたびに早熟の妹レイチェル(クロエ・グレース・モレッツ)に教えを請う姿に共感できるのだ。本作公開は『キック・アス』のちょい前だが、クロエ・グレース・モレッツは、すでにヒット・ガールのような痛快なキャラ。
『卒業』に涙したサマーの真意
サマーと疎遠になってしばらくして、トムは会社の同僚の結婚パーティで再びサマーと会話を交わし、彼女のホームパーティに招待される。
ここで画面は<期待>と<現実>で左右に分かれ、同時進行する。サマーと再び復縁することを期待するが、現実は甘くない。パーティ会場で誰とも溶け込まずトムは孤独に酒を飲む。この見せ方は、何とも寂しい。そして、ホスト役のサマーの指には婚約指輪が輝いている。
◇
かつてまだ二人がつきあっていた頃に、デートで観た『卒業』のバスの車内シーンに、サマーは号泣する。
挙式の真っ最中に教会に闖入したダスティン・ホフマンが、新婦と二人で逃げる場面があまりにも有名だが、その直後のバスの中で、歓喜の絶頂から醒めて現実の不安におののくキャサリン・ロスに、サマーは自分の姿を投影したのだ。
◇
愛を信じることもなく、こんないい加減な付き合いをしていていいのだろうか。
そんな彼女にうかつにもトムは言う。「たかが映画じゃないか」。かつてヒッチコックがバーグマンに言った有名なこの台詞も、サマーにはまるで刺さらない。彼女は、トムとは友達の関係に戻ろうと心に決める。
終盤、再び画面は左右に分かれ、バスに乗るトムと、結婚式を挙げるサマーが同時進行する。まさに『卒業』ではないかと思ったが、奪いにいくわけではない。
あなたは運命の人ではなかったわ
LAの町が見渡せる思い出の公園で再会する二人。サマーは、トムではない運命の人に出会ったのだという。
君のいったように、恋などまやかしだったと自嘲するトム。運命の出会いで、恋を信じるようになったサマー。二人は出会った頃と逆の立場になっていた。
トムの手に自分の手を重ねるサマー。彼女にとって、もうトムは大切な友人でしかない。女は恋を上書きし、男は名前を付けて保存する生き物と言うやつだ。
それにしても、ジョセフ・ゴードン=レヴィットとズーイー・デシャネルの爽やかな美男美女カップルに、こういう別れが待っていたとは。500日で終わった関係ということか。
ただ、映画は最後にトムにも挽回のチャンスをくれる。好きな建築の仕事を求めて、就活を始めた彼がオフィスに面接行く。歴史と風格のあるこのビルは、われらが『ブレードランナー』でおなじみブラッドベリー・ビルディングではないか。
そして、ここで顔合わせした、同じ就活中の女性(ミンカ・ケリー)に、なぜかトムは惹かれ、勇気を出してお茶に誘う。
運命は彼にもひらけようとしている。だって彼女の名前はオータムだもの。(500)が(1)に洗い替えになるのが楽しい。
でも、こういう季節そのままの名前って、実在するのかな。五木寛之先生なら、四季・奈津子から亜紀子へ、となるところ。やっぱり、漢字の方がしっくりくる。