『ナイチンゲール』
The Nightingale
原住民を虐殺する英国人が支配する悲惨なタスマニア。家族を将校に殺された白人女性が復讐の旅に出る。敵は卑劣な腰抜け英国軍将校。案内人のアボリジニとアイルランド人女性の間に、不思議な共感が生まれる。
公開:2020 年 時間:136分
製作国:オーストラリア
スタッフ
監督: ジェニファー・ケント
キャスト
クレア: アイスリング・フランシオシ
ホーキンス: サム・クラフリン
ビリー: バイカリ・ガナンバル
ルース: デイモン・ヘリマン
ジャゴ: ハリー・グリーンウッド
エイデン: バイカリ・ガナンバル
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
19世紀のオーストラリア・タスマニア地方。盗みを働いたことから囚人となったアイルランド人のクレア(アイスリング・フランシオシ)は、一帯を支配するイギリス軍将校ホーキンス(サム・クラフリン)に囲われ、刑期を終えても釈放されることなく、拘束されていた。
そのことに不満を抱いたクレアの夫エイデン(マイケル・シーズビー)にホーキンスは逆上し、仲間たちとともにクレアをレイプし、さらに彼女の目の前でエイデンと子どもを殺害してしまう。
愛する者と尊厳を奪ったホーキンスへの復讐のため、クレアは先住民アボリジニのビリー(バイカリ・ガナンバル)に道案内を依頼し、将校らを追跡する旅に出る。
レビュー(まずはネタバレなし)
それは日常的に起きている悲劇から始まった
イギリス植民地時代のタスマニア島を舞台に、夫と子どもの命を将校たちに奪われた女囚の復讐の旅を描いた作品。
ジェニファー・ケント監督は本作でヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞を受賞。『ババドック 暗闇の魔物』に続き高評価を得て、注目の監督だ。
◇
序盤に、復讐の旅の発端となる悲惨な事件が起きる。
主人公クレア(アイスリング・フランシオシ)は女囚と書いたが、軽微な窃盗の罪でタスマニアに流刑囚になった身だ。夫エイデンと赤ちゃんと暮しながら、一帯を支配する英国軍の世話もしなければいけい。
酒の席では着飾って歌わされる。そして、仮釈放を得るために逆らえない将校ホーキンスにレイプされる日々。仮釈放の手続きを進めない将校に直談判する夫は、折り悪く査察官に出世の望みを絶たれ不機嫌な将校の逆鱗に触れる。
将校はクレアを夫の目の前でレイプし、そして二名の部下、ルース(デイモン・ヘリマン)が夫を射殺し、ジャゴ(ハリー・グリーンウッド)が泣き止まない赤ん坊を壁に叩きつけ殺す。
過激な暴力描写よりも引っかかったもの
このシーンを筆頭に、あまりに強烈な残虐シーンに、世間の評価は分かれているようだ。
だが、様々なジャンルの作品で過激な描写に社会全体が慣れてきている傾向にあり、またケント監督が、当時タスマニアの地で多くの残虐行為が行われていたという事実を伝えることに、意義を見出していたことも理解できる。
◇
ここまで過激な描写ではないものの、この手の強欲な役人による不条理なレイプや殺人は『必殺仕事人』ほか多くの時代劇でもよく登場した。耐性ができてしまったのか、さほど拒絶反応はない。
だが、いや、だからこそ、本作のその後の展開が、単純なレイプ・リベンジものではないことに驚いた。
確かにクレアは、事件直後に旅立ってしまう将校ホーキンス(サム・クラフリン)一行を復讐のために追う(過酷な旅の理由も出世のための上官への直訴なのが呆れる)。
だが、険しい山の中を抜けていく追跡劇の中で、炙りだしていくはブラック・ウォー(英国植民者とタスマニアン・アボリジニの争い)の残虐さなのだ。
◇
そして、アイルランドの白人女性であるクレアと、その案内人である原住民・アボリジニのビリー(バイカリ・ガナンバル)が、この追跡劇を通じて次第に心を通わせていく。
それは恋愛感情ではなく、傷つき合った者同士の魂の触れ合いだ。
この憎むべきゲスな将校が映画を牽引する
キャスティングで特筆すべきは(というか私の知っていた唯一の出演者は)、ホーキンス将校を演じたサム・クラフリンだ。
『エノーラ・ホームズの事件簿』でシャーロックの兄・マイクロフトを演じ、これもいけ好かない役だったが、ホーキンスにはとても敵わない。
◇
イケメンで優位な職位にしがみつくゲス野郎。『悪魔はいつもそこに』のロバート・パティンソンを凌ぐ卑劣ぶりだ。
いや、よくぞ引き受けた。散々悪事を働いたあとに、きれいな制服を着こんで現れるホーキンスの顔の艶やかなことよ。
レビュー(ここからネタバレ)
以下、ネタバレがありますので、未見の方はご留意願います。
タスマニアのアボリジニへの残虐行為
白人警官による黒人市民発砲騒ぎに揺れるアメリカの例によらず、人種差別による残虐行為は現代社会でも根絶にはまだ遠い。
先日観た『荒野の誓い』をはじめ西部劇でのインディアンへの迫害、そしてユダヤ人へのナチスの残虐行為など、映画の題材としても多く取り扱われる。
だが、タスマニアのアボリジニを絶滅させるまでの残虐行為をイギリス人が働いたことを、きちんと映画に採り上げた作品は少ないように思う。その点、本作を単なる復讐劇にしていないことの意義は大きい。
◇
当初、レイプ・リベンジものとして観ていた私は、怒りに燃えるクレアの心情は察するものの、案内人ビリーを人として扱わず、高圧的な言動を繰り返す彼女に辟易した。クレアも結局白人だということかと。
クレアはビリーの指示にも従わず、勝手に行動しては危険な目に遭わす。名前でなくボーイと呼ぶのは将校と一緒だ。
復讐の旅の途中で気づくこと
追跡の旅を続けるうちに、ついに赤ん坊の命を奪ったジャゴに追いつく。彼は将校に追い詰められ、発作的に凶行に及んでしまったものの、根は善人の若者だ。そうは言っても、情状酌量の余地はない。
クレアはジャゴを刺殺し、顔をライフルの台尻でボコボコにする。残る標的は二名。だが、クレアには多少なりとも達成感が得られた様子はない。彼女の追跡目的を知り、ドン引きするビリー。
◇
旅の途中で、原住民の女性を拉致し、レイプの末に射殺してしまう将校たちの一行。
それを山道の痕跡から察知したクレアは、女性という立場からは将校に虐げられた被害者であるが、原住民を見下げた振る舞いには、自分と大差がないと気づいたのではないか。
その頃から彼女はビリーを支援者として扱いを改め、また、将校たちが、自分の叔父である案内人を射殺したことを知ったビリーもまた、彼らへの復讐心を胸に秘める。
そこに、映画としての見応えはあったか
さて、ここまで書いてきて、ブラック・ウォーの悲惨な史実を明るみに出し、クレアの復讐心の内面の変化やビリーとの心の絆を描いた本作の存在意義は共感できた。
だが、これはドキュメンタリーではない。復讐の旅である以上は、映画的な決着をつけてほしいが、そこは今一つスッキリしていない。
◇
クレアの一家のみならず、旅の途中にも何人も人を殺めた将校やルース。クレアが仇討を果たして万事解決では確かに軽薄すぎる結末だ。
ゆえに、仕留めきれなかった彼女に代わり、アボリジニの正装で槍を持ってビリーがケリをつける展開は、必然だと納得できた。
◇
ただ、あの仕留め方は物足りない。クズ野郎な二人には、もっと苦しみ情けなく許しを請いながら、ぶざまに死んでいってくれないと、先に昇天したジャゴが浮かばれない。
将校に至っては腹上死のようなものだ。罰が足らないのだ。これでは、リベンジを見届けた観客も(或いは、少なくとも私は)、留飲が下がらない。
そこで本当に歌うのか、彼女は
ビリーが復讐を果たすその直前、将校が上官にやっと自分の売り込みに成功し、呑気に酒を交わしている席に、クレアが闖入し、彼の悪事を周囲に伝え、歌い始める。
これは、冒頭の歌のシーンのような強要ではなく、自ら歌うことに意味があるのだろう。題名の<ナイチンゲール>は看護師フローレンスではなく、美しくい声で鳴く鳥の方にちなんでいるようだ。
◇
だが、私はこのシーンに強烈な違和感がある。
夫や我が子の仇であり、自分をレイプした男が眼前でヘラヘラと上官に媚びている。長く険しい道のりを経て、ようやく自分たちはここに辿り着いたのだ。
実際に彼女は本物のオペラ歌手だということだが、この局面で、美しい声で静かに歌など歌えるものだろうか。どれだけタフな平常心だというのだ。歌い踊りながら戦う『ウェストサイド物語』とは違うのだ。
ここには共感できなかった。いっそ、股間でも蹴り上げてほしかったと思う。
◇
タスマニアの大きな森の中、風に揺れる樹々や、響き渡る鳥や動物の鳴き声。クレアとビリーの悲しみを癒してくれるだろうか。
そして、ラストには夜明けの砂浜。二人の歌と音楽が、新しいハーモニーを生み出す。夜明けがきた。