『野のなななのか』
大林宣彦監督の反戦映画は、舞台を北海道芦別に移し、終戦の日に終わらなかった戦争悲劇を語り継ぐ。
公開:2014 年 時間:171分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 大林宣彦
脚本: 内藤忠司
原作: 長谷川孝治
『なななのか』
キャスト
鈴木光男: 品川徹
鈴木カンナ: 寺島咲
鈴木秋人: 窪塚俊介
鈴木冬樹: 村田雄浩
冬樹の妻: 宗方美樹
鈴木かさね: 山崎紘菜
鈴木春彦: 松重豊
鈴木節子: 柴山智加
田中英子: 左時枝
高橋良子: 原田夏希
清水信子: 常盤貴子
大野國朗: 伊藤孝雄
山中綾野: 安達祐実
井上弘樹: 大久保運
井上百合子: 斉藤とも子
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
あらすじ
芦別市で古物商<星降る文化堂>を営む元病院長・鈴木光男(品川徹)が92歳でこの世を去り、離れ離れに暮らしていた鈴木家の人々が葬式のため帰郷する。
そこに現われた謎の女・清水信子(常盤貴子)。一家は彼女の存在を通して、終戦の日とされる1945年8月15日以降も戦争が続いていた樺太で、ソ連軍の侵攻を体験した光男の過去を知る。
今更レビュー(ネタバレあり)
北海道では戦争が続いていた
『この空の花 長岡花火物語』の姉妹編ともいえる、戦争三部作の第二弾。
前作の敵国は米国だったが、本作の舞台は北海道の芦別市、戦争というのはソ連、それも終戦となった8月15日以降も樺太侵攻を止めない敵軍との争いである。北海道では9月5日まで戦争が続いていたのだ。
大林宣彦監督は尾道のような狭く曲がりくねった町並みを背景に、美しく日本の原風景を切り取るような映画の撮り方を得意とする映画作家である。
北海道のような大自然というのは、監督は実はあまり相手にしたことがない。『はるか、ノスタルジイ』の舞台は小樽だったが、大自然というより、瀟洒な港町である。
◇
その監督が、ひょんなきっかけから<星の降る里 芦別映画学校>なるものと繋がりができ、その立ち上げに尽力した市役所観光課に勤務する監督のファンの男性と、いつか芦別を舞台に映画を撮ろうと約束をする。
その後、男性は早逝してしまうのだが、映画を愛する地元の人々の支えによって、本作が完成する。そんな成り立ちの映画なのだ。
だが、ここまで語っておきながら、実は私は本作を苦手としている。『この空の花 長岡花火物語』が好きなら姉妹編にあたる本作も気に入りそうなものだが、どうもそう単純な話ではなさそうだ。
本作も反戦映画である以上、メッセージそのものに異を唱えるつもりはない。ただ、内容が反戦で冒頭に亡くなった盟友に献辞されて始まる映画というのは、正直に言えば重たいし、厳しい評価もしにくい。
ともに劇作家の長谷川孝治が絡んでいるとはいえ、だいぶテイストは異なる。
反戦をドキュメンタリーと舞台劇を活用して鮮やかに仕上げた前作に比べると、本作は、冒頭で大往生の死を遂げる元開業医の鈴木光男(品川徹)の過去をめぐるミステリー仕立ての作品。
前作の語り部というか進行役は、松雪泰子扮する女性記者だったが、本作ではなんと、冒頭で亡くなったはずの鈴木光男なのである。
彼は担ぎ込まれた病院でも酸素マスクをかけながらずっと喋っていたし、死んだ後も早口で長台詞を語り続ける。品川徹が、あの『白い巨塔』の監察医のような険しい表情で中原中也の詩を諳んじ、人生を語り続ける姿は、さながらホラーである。
残された遺族たち
『なななのか』とは、四十九日のことらしい。7×7=49日ということだ。芦別の自然の広がりをイメージできるように原作に『野の』をつけたのはよい発想。
伊丹十三の『お葬式』は、冒頭に亡くなった人物の火葬までのドラマだったが、本作はなななのかまでの物語。光男は妻も二人の息子にも先立たれ、親族は以下の面々。
- 次男(故人)の長女で光男と一緒に暮らしていた看護師のカンナ(寺島咲)、そしてその兄の秋人(窪塚俊介)
- 長男(故人)の長男・冬樹(村田雄浩)とその弟で原発に関わる仕事をしている春彦(松重豊)
- 冬樹の娘で曾孫にあたる北大生のかさね(山崎紘菜)と光男の妹の田中英子(左時枝)
同居していたカンナと妹の英子を除けば、みな光男と大して親しかったわけでもなく、集まったところで故人の話に盛りあがることもないため、どこか余所余所しい。そんな展開もまた、『お葬式』っぽいといえるか。
メンバーはいずれも大林組の常連、春彦役の松重豊だけが初参加ではあるが、さすが溶け込むのが早い。彼の妻役には、やはり『ふたり』以来の往年の大林組メンバー、柴山智加。
『ふたり』といえば、同作のマラソン場面撮影で中嶋朋子の載る台を作ったのが、当時NHKで舞台美術のバイトをしていた品川徹だったそうだ。台が頑丈で監督に褒められたという。相変わらず、大林監督の周囲には奇縁が多い。
◇
そしてもう一人の奇縁が常盤貴子。本作ではかつて光男の助手として医院で働いていており、危篤と聞いて久々に芦別に戻ってきた謎の女性・清水信子を演じている。
常盤貴子はデビュー当時に「黒澤監督と大林監督の映画に出たい」とキネ旬のインタビューで語っており、監督も認識してはいたものの、すぐに売れっ子になってしまった彼女とは仕事の縁がなかった。
それが前作の関係で長岡の花火大会で偶然出会うこととなり、今回悲願達成となる。大林映画最後のミューズとなったのもまた因縁めいている。
それが私の青春だった
さて、常盤貴子が演じる清水信子は、その落ち着き払った様子や訳知り顔にどうにも生命力を感じない。そう思ったら、春彦の嫁(柴山智加)は、あの女は昔鉄道事故で死んだ同級生の幽霊だと言い出す。
自分も信子も美人だったから、ライバル視していたのでよく覚えているという。ここは笑う箇所なのだろうか。
光男には、親友の大野(伊藤孝雄)とともに青春時代を過ごした山中綾野(安達祐実)という女性がいた。戦争の混乱のなかで、光男は綾野をレイプしたソ連兵を殺害する。
そして穢された自分も殺してほしいという綾野の願いも、聞き入れてしまう。こうして彼の青春は過ぎ去った。
◇
コーヒーを飲みながら同じ仕草をする綾野と信子は同一人物なのだろう。綾野の霊が、信子の肉体を借りて甦ったということか。
そう考えると、この複雑な構造の話を整理すると、妻にも二人の息子にも先立たれた光男は、かつて愛した綾野のことを忘れられずにいたが、そこに彼女を彷彿とさせる信子という若い女性が現れる。
やがて光男は、カンナ(寺島咲)や秋人(窪塚俊介)も暮らすその家で、夜な夜な信子の裸婦デッサンを描き始める。屈折した青春なのは分かるが、これは怖い。
深夜にアトリエを覗き込むと、怖い形相の光男が裸の女を前に絵筆を動かしているのである。秋人でなくても、家を出たくなるだろう。
勿論、この挿話を青春悲劇ととらえることは可能だし、それが正解かもしれない。
だが、安達祐実が目と唇だけを残して全身ブルーマットを着て抜かれる合成処理は、さすがに人気女優相手に失礼がすぎるのではないか。そりゃ、表向きは彼女も文句は言わなかったのだろうけど、常盤貴子にはやらないんでしょ。
終盤、光男は信子に描き上がった絵を見せる。それは、血を流した裸婦の絵だ。つらい過去でも、忘れてはいけないから、こうして残すのだと光男はいう。
その理屈自体は、長岡の花火と似ているが、さすがに老人の描いた裸婦像では説得力が弱い。
人の生き死には、常に誰か別の人の生き死にに繋がっている。それは分かるが、死者が甦る話とは違うのではないか。
楽師たちが演奏をしながら朝もやの森や野を彷徨うシーンは幻想的だが、元たまの石川浩司のランニングシャツ姿はもう前作で十分堪能したしなあ。
この映画で感動できない私は、ファンを名乗ってはいけないのかもしれない。大林監督の反戦映画レビューの締めにしては、冴えない幕切れとなった。